第5話 海守のエイシオノーおばあさん(2)
夕空を覆う厚い雲の下。
暫定調理場こと、お屋敷の裏庭にて。
石で出来た調理台を前に、わたしとお母さまはお料理の概要を説明しました。わたしたちの話を聞いたエイシオノーおばあさんは、全く理解できないという表情で、淡々と作業を進めていきます。
意外な光景。
そう、エイシオノーおばあさんは手先がとても器用な人だったのです。
ゴリラな見た目とは裏腹に、その手付きは繊細でなめらか。何より物覚えがよく、一度指示を聞いただけで澱みなく手を動かせる。エイシオノーおばあさんは思考と身体の釣り合いがとれた、几帳面なゴリラだったのです。
エイシオノーおばあさんはどの工程も秒でこなし、あっという間にお料理を完成させてしまいました。
出来上がったつみれ汁を前に、お母さまはわくわくしたような声音で、
「エイシオノー、魚を煮出して作った液体を出汁といいます。まずはそれを試してください」
鍋から立ち昇るお魚のいい匂いに、わたしは希望を持ちました。
お料理はステキなもの、お母さまだってそう認めてくれたのです。あの味を、食べ方を、体が求めていると体感してくれれば。この世界の人間にだってお料理は出来る、楽しめることだと、受け入れてくれたら……。
腰巻きをギュッと握り締める、わたしの両手。
お母さまの声に背中を押されたのでしょう。エイシオノーおばあさんは匙で出汁をすくい、意を決したように一息で飲み干しました。ごくり、と喉が鳴る音。それから少し顔を上げ、細く長く、静かに息を吐いて……。
無言。
ぽつり、ぽつりと降り始めた、遅い夕立。
降りしきる雨の中、わたしはエイシオノーおばあさんの反応を、固唾を飲んで見守りました。エイシオノーおばあさんはお料理に雨粒が入ってしまうのも構わず、じっと鍋を見つめています。
『おはようございますよ、ヘクティナレイア様! もう皆集まってますさね!』
『それじゃあ今日はここまでだね! さあ、明日もいい一日にしようじゃないか!』
思い出すのはエイシオノーおばあさんの明るいアイサツ。すだれの向こうから聞こえてきた、島の明るい空気そのもの。
激しくなってきた雨の中。
ことり、とエイシオノーおばあさんが匙を台に置く音。
エイシオノーおばあさんは何も言わずにその場を離れ、おうちに帰ってしまいました。
「大丈夫、彼女は分かってくれます。さあ、お休みなさい」
あの後、わたしとお母さまはエイシオノーおばあさんの作ってくれたお料理を食べ、お風呂に入りました。そして今わたしは定位置であるお布団の上。いつも通りの就寝の時間。
外からはばたばたと石畳を打つ、雨の音。普段はすぐ止むはずの夕立が、今日はまだ降り続いているのです。
薄暗い天井を見つめながら、考える。
お腹一杯で、お風呂上りでさっぱりなのに。数日前と比べたら、わたしは今とても満たされているはずなのに。これ以上なんて望んではいけない筈なのに。わたしが夢見て、求めて止まなかったせっかくのお料理なのに。
それなのに、全然味がしませんでした。
思い出すのは、エイシオノーおばあさんの硬い表情。
あの礼儀正しいエイシオノーおばあさんが、お母さまに何も言わずに立ち去るなんて。わたしのせいで、お母さままで嫌われてしまったら……。
お料理のことなど、やっぱり話すべきではなかったのです。わたしの頭の中でぐるぐる回る、この記憶がいけないのです。わたしにいらない先入観を与えて、この世界で生き難くさせて。
もう、わたしなんてどうでもいい。わたしはわたしを好きになってくれない人よりも、わたしはわたしが一番嫌い。
止まない雨の音から逃げるように耳を塞ぐ、わたしの両手。
わたしはお布団の上で小さく小さく丸まり、やがて深い眠りに落ちていきました。
ああ、なんだっけ。
電車の窓ガラスに映る、見慣れた私の顔。自分の顔を見ながら、私は思い出す。
いけない、立ったまま寝てた。
次の駅で降りないと、乗り換えを逃したら、また漫喫で寝ることになる。寝るならせめてベッドで寝たい。漫喫のソファーじゃ体が痛くてたまらない。
窓ガラスに映った顔が不機嫌に歪む。一年程前から止まらない耳鳴りと頭痛。目の下の隈はファンデなんかじゃもう消えない。
そうだ、忘れないうちに書き留めないと。
バッグからスマホを取り出して、クラウドに接続、メモ帳を開く。趣味なんかじゃない。これはただの習慣。
夢で見たことを、ただ記録してるだけ。
スマホで目にする色んな情報、そういうものからただ目を逸らしたいだけ。だって、私には関係ないことばかりだし。しがない技術者には手が届かないものばかりだし。これを辞めて他で生きていく、そんな気力も今は無い。
現実なんて、何もいいことが無い。だからせめて夢ぐらいはと積み重ねる、無駄な行動。
社会人になって四年? 五年? 土曜休みなんて、入社二週間で無くなった。平均勤務時間十六時間以上、平均睡眠時間三時間以下。目の前に積まれた膨大な試行を機械的に処理するだけの、そんな毎日。
必死に勉強して、いい大学出て、いい会社に入って、それでこれ。勉強さえしていればきっと上手くいく。そう教えられそう思い込んで、勉強だけは沢山してきたけど、私が得た知識は、結局私を変えてくれなかった。
とにかく、早く帰りたい。
それで、家に帰って何かいいことある? ある訳ない。一人暮らしのOLに相応しい、ただ寝るだけの、巣のような部屋。
それでもとにかく帰りたい。
電車が停まり、目の前のドアが開く。「お急ぎください」という駅のアナウンスで我に返る。ああもう、どんな夢だか忘れてしまった。とにかく今は急がなきゃ。
スマホをバッグに投げ入れ、私は歩き出す。
人で埋まったホームから下り階段へ。その踊り場で、突然、足の力が抜ける。手すりによりかかって、座り込む。おかしい、体に力が入らない。貧血を起こしたみたいに視界が真っ白に染まって、頭の中からどんどん言葉が消えていく。
座り込む私の傍、通り過ぎていく沢山の同乗者達。
ただの酔っ払いだと思われたのだろう。誰も私のことなんか気にしない。誰も私を振り返らない。
優しさがないわけじゃない。みんな自分に精一杯で、余裕が無いだけ。
震える手でバッグからスマホを取り出す。頭が痛い。頭が痛い。まともにものを考えられない。
せめて、連絡しなくちゃ。
何処に? 誰に?
両親は小さいころから共働きで、家庭なんてもの私には無かったし。就職した今はなおさら疎遠。「早く結婚しなさい」なんて電話も無い。
友人なんていない。彼氏いない暦=人生。ここ十年で口から出た言葉なんて、「はい」「いいえ」「申し訳ありません」以外記憶に無い。
右手からスマホが滑り落ちる。地面に落ち、液晶が割れ、蜘蛛の巣のようなヒビが入る。隣のホームから、発車ベルが聞こえてくる。
誰も私を見ない。誰も私に気付かない。
もう、どうでもいい。
だって私が一番どうでもいいのって、私のことだし。
めんどくさい。耳鳴りがやまなくて、考えるのもめんどくさい。
頭上から聞こえる、電車が出発する音。ガタンゴトンと通り過ぎていく、私を置いていく人達の音。誰も私のことに気付かない。誰も私のそばに残らない。
大勢の無関心。
どうでもいい。どうでもいい。
私なんて、もうどうでもいい。
これはどこにでもある、当たり前のこと。
そう、
これが、私の終わり。
「あああああっっ!!」
誰かが叫んでいる。
真っ暗な闇の中。その暗がりから抜け出そうと、何処かの誰かが叫んでいる。
薄暗い天井を背景に、小さな手が何かを掴もうと、必死に宙を掻く。誰かの身体が酷く苦しんで、もがいている。
「アン!! どうしたのです!? アン!!」
誰かを呼ぶ誰かの声。思い出す、誰かはわたし。わたしを抱き上げる誰かに、わたしは必死でしがみつく。
肌越しに伝わる、温かい肉の感覚。
生きている。
わたしはまだ生きている。
「大丈夫ですよ、アン。私はここにいます」
優しい声。そう、この人はわたしのお母さま。わたしを生んでくれた人。
「お母さま……」
「アン、大丈夫ですよ。あなたは大丈夫」
歯の根が合わない。身体の震えが止まらない。だってとても怖くて、寂しくて、分からなくて……。
「ごめんなさい……」
お母さまの身体を抱きしめる、わたしの両腕。
震える唇から漏れ出る、小さな言葉。
「生まれてごめんなさい……」
「そんなこと言わないで」
暗い暗い、わたしのお部屋。
すだれの外、闇に落ちる強い雨。
お母さまはわたしがもう一度眠りにつくまで、ずっと頭を撫で続けてくれました。
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