第73話 塵海のゼイデン(2)

 ゼフィリア領の島屋敷。

 火込め石が灯る大昼間。


 わたしはお膳の上にお箸を置き、ぺこりと頭を下げ、


「ご馳走さまでした、ホウホウ殿」

「こちらこそ。ありがとうございます、アンデュロメイア様」


 顔を上げると、そこには悶絶かわいい生命体。


 白く長い三つ編み。

 落ち着いた紫色の瞳。

 雪のように真っ白な肌。


 帯の位置が高い着物と、細長いはがねの耳飾り。


 タイロンのホウホウ殿。


 浜辺でのホウホウ殿のお願いは、久しぶりに陸に上がったゼイデンさまをもてなしたい、というものでした。


 聞けば、ゼイデンさまはクーさんフハハさんと同じように三千年以上の夜を戦ってきた超お爺さま。しかも昼にお顔を出したのは実に三十年ぶりとのこと。これはもう陸でゆっくりしていただかねばなりません。


 なのですが……、


「男の拙い手料理で、お気に召していただけたかどうか……」

「いえいえ、とてもおいしかったです! 本当に!」


 お風呂もお食事も全てホウホウ殿がテキパキこなしてしまい、その鮮やかな家事っぷりにホストであるわたしたちは完全にポカーン状態。


 ゼイデンさまはソーナお兄さんに任されたゼフィリアの正式なお客さまなのに、うう、不甲斐ないです……。


 それはともかく、わたしは空になったお皿を前にもじもじしながら、


「ホウホウ殿は、やはり蒸し料理がお好きなのですね」

「はい。この食べ方が魚のうまあじを一番引き出せる、そう思うのです」


 照れたように頷くホウホウ殿に、わたしは更にもじもじしてしまいます。


 本日、ホウホウ殿が作ってくれたのは白身魚の昆布蒸し。それは以前わたしがホウホウ殿にお渡ししたレシピで、こんなに気に入ってくれたなんて本当に嬉しいです。


 わたしが腰巻に指でのの字を書いていると、ホウホウ殿のお姿が一瞬ブレ、その傍らに大きな瓶が。筋肉。


「いかがでしょう、食後に一献。タイロンの酒は花の香りを付けてあります」

「いえ、わたしはまだお酒が飲めなくて……」


 この世界の人間はお酒を飲んでも酔いません。なのでわたしも多分大丈夫だと思うのですが、頭の中の記憶の常識に引っ張られて、未だに飲めずにいるのです。


「これは失礼。俺も甘味の作り方を習得しておくべきでした……」


 ホウホウ殿はわたしの隣、ソフトクリームを頬張るイーリアレを微笑ましそうに見て、言いました。


「せっかく昼に顔を出すのだからと、デン爺ちゃんがアーティナの奴らに手伝ってもらったのだそうで。今の陸の流行りは甘いもの。甘いものなら、みな何でも喜ぶと」

「間違ってませんが間違ってますね」

「ゼ・クーのおやっさんは酒呑みですし、シウ爺ちゃんかジットん辺りから聞いたのだと思います」

「え、あー、ディレンジットさんですか。なるほど」


 あのソフトクリームはアーティナの人たちとの共同作だったのですね。ゼイデンさまが担いでいた袋には冷却、撹拌機能が仕込まれていたのでしょう。


 冷蔵保存の問題から、わたしはアイスクリームの製法をこの世界の人に伝えていませんでした。つまりソフトクリームはこの世界の人が独自に作り出したことになるわけで、それはとても喜ばしいことだと思います。


「ナノちゃ。ナノちゃ」

「いえ、ゼイデン様。私はもう充分です。ゼイデン様こそ沢山召し上がってください」

「ままま、ナノちゃ」


 わたしたちの対面、上座では、不思議なお酒の注ぎ合いが繰り広げられています。


 ナノ先生にお酒を注ぎ、注がれているのはかわいいを通り越した最早別次元の生命体。わたしが洗浄しきれなかった海の垢をお風呂できれいに落とし、ナノ先生の作った着物に身を包んだゼイデンさま。


 後頭部で結い上げられたふわふわの白髪。白から藍へと色を変える鮮やかなグラデーションの着物。太い紺色の帯には銀色の星が散りばめられ、そのきらめきがほつれて垂れる前髪と絶妙なコントラストを描き、とてもお上品な色気を醸し出して語彙力。


 お姫さまという肩書がわたしよりずっと似合いそうな、ドっかわいい女の子にしか見えません。


 しかし、


「さあ、ゼイデン様」

「おとと。おとと」


 その襟元から覗く痛々しい傷跡を見て、やはりこの方も五海候と実感してしまいます。


 ゼイデンさまは両手で杯を持ち、小さなお口でちょこちょこお酒を飲みながら、


「ナノちゃ。シオちゃ?」

「ええ、ゼイデン様。エイシオノーはゼフィリアで元気にやっております。あの単細胞がそんな簡単に死ぬものですか」


 ゼイデンさまのお隣、いつになく口数の多いナノ先生。


 ナノ先生が陸のことを伝えるたび、ゼイデンさまは、「うん、うん」と嬉しそうに頷いています。外見がドっかわいいだけで、中身はやっぱりお爺ちゃんなのです。


 ナノ先生の口にする、沢山の人の名前。その名前を聞くたび、ゼイデンさまはふにゃりと笑い、


「よ、よかた……」


 膝の上に杯を置き、白いまつ毛を伏せ、


「ナノちゃ、よかた……」

「ゼイデン様……」


 ナノ先生は床に杯を置き、無理に作ったような明るいお声で、


「はい……。陸のものはみな健やかに育ち、平穏に暮らしております……」







 火込め石の灯りを落とし、真っ暗になった島屋敷。


 修練場の石畳の上、わたしとホウホウ殿は並んで海を眺めています。


 わたしたちの視線の先、海の上にはゼイデンさまとレンセン殿。


「今日は本当にありがとうございました、アンデュロメイア様」

「いえ……」


 隣に立つホウホウ殿のお顔を見れず、わたしは星空を見上げました。


 今は夜、ホウホウ殿も海の見張りに出ねばならないのです。ですが、わたしはどんな言葉を贈ればよいのか、分からないのです。


 わたしが夜空を仰いだまま、何も言えずにいると、


「アンデュロメイア様。今日はもうひとつ、お話があるのです」


 ホウホウ殿は突然石畳に膝を突き、深く深く頭を下げて、


「アルカディメイアの男衆を代表して、アンデュロメイア様に、ゼフィリアにお詫び申し上げます」

「どど、どうしたのですか、ホウホウ殿! 頭を上げてください!」


 座礼の姿勢を取ったホウホウ殿に、わたしが膝立ちになって慌てると、


「砕け散ったスナさんの体を、見付ける事が出来ませんでした……」


 その言葉に、わたしの温度が一瞬で消え去りました。


「あの夜、俺が余波に割って入ったのです。しかし、間に合わず……」


 ぐらぐら揺れ始めた視界の中、小さく震える白い三つ編み。石畳を突き、固く握りしめられたホウホウ殿の拳。


「俺がもっと速く走れていれば……」


 全身から何かが抜け落ちた感覚に襲われ、わたしはそのままぺたりと座り込み、


「ホウホウ殿、詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか……」

「はい、承知致しました」


 顔を上げたホウホウ殿、その紫色の瞳が語る、夜の話。


 それはこの世界の海のこと。


 いつも穏やかな表情で横たわる、わたしたちの命の源。あまりに当たり前で、だから気付かなかったのです。


 シグドゥは移動するだけで近くの島が削られてしまうくらい、大きな獣。だから、シグドゥが起こす津波もとても大きなものになる筈なのです。


 この世界の男性は女性と違い、足の裏にも経路が開いているらしく、そこからは常に微弱な波のようなものを発しているのだとか。


 夜を見張る男の人たちはそれを重ねて組み合わせ、シグドゥの起こす津波と衝突させ、共鳴させることにより、穏やかな海を作り上げている。男性が海の上に立てるのは、その副次的効果に過ぎないのです。


 この世界の静かな海は、男の人たちによって均されていたものだったのです。


 そしてフハハさんが言っていた余波とは、シグドゥが進路変更する時に生まれる、とてつもなく大きな摩擦のこと。


 夜の海で男性が命を落とす原因は二つ。一つはシグドゥとの直接対決。もう一つは、その余波との衝突。


 思い出すのはアルカディメイアで出会った男の人たち。みな兄弟のように仲良しで、笑い合って、その人たちが仲間を見捨てる筈がないのです。シグドゥの前に倒れ、余波に巻き込まれても、何処かで生きているのではないか。


 そう信じて必死に探し回るのが当たり前なのです。


 その人が既に手遅れであったとして、その体のひと欠片だけでも陸に返そうと。だからこの人たちは探し続けていたのです。この広い海から人ひとりの欠片を、この人たちは、ずっと……。


「ありがとうございます、ホウホウ殿。よく、分かりました」

「はい……」


 ホウホウ殿のお話を聞き終え、わたしの体にほんの少しだけ体温が戻ってきました。


 わたしはまだ分かって、実感していなかったのです。クーさんがお酒を飲みに来ただけだったから。ただ、そう察しただけだったから。


 わたしがゼフィリアに帰ったら、蔵屋敷に行ったら、あの人がいつも通り笑ってお酒を飲んでいるのではないか。


 心の何処かで、そんなふうに思い込んでいたのです。


「やっぱり、本当なのですね……」

「アンデュロメイア様……」


 震える唇。わたしの頬を伝う、冷たい雫。


「あの人は、スナおじさまは、本当に亡くなってしまったのですね……」







 島屋敷の縁側に並ぶ、二つの影。

 わたしとホウホウ殿が並んで座る、小さな影。


 わたしは傍らに用意したゼフィリアの酒瓶からお酒をすくい、ホウホウ殿に渡しました。杯を受け取り、ホウホウ殿はお酒をひと口召し上がって、


「スナさんは、悔しかったでしょうね……」


 わたしはそのままホウホウ殿をお顔を眺めながら、


「スナおじさまが、悔しい、ですか?」

「ええ。スナさんはアーティナの血が濃いのに、風を使っていました。石と肉には相性があります。あの出力では体がもたんでしょう。スナさん本来の適正は砂込め石のように容量が多い石であったはず。ですが、スナさんは肝心の砂込め石を作れませんでしたから……」


 それはソーナお兄さんが言っていた、石と肉体の相性。


「夕方の話ですが、我々男性の作る石を女性が扱うことは出来ません。女性の肉、その経路ではあの出力を受け止めきれんでしょう。石と人の繋がりは双方間なのです」

「双方間、感覚拡張能力による情報の送受信ですね?」

「ええ」


 石は何かを生み出し、その形を変える機能の他に、周囲の情報を集める触覚のような役割を持ちます。それは石で集めた情報をわたしたちの体の中に取り込んでいる、ということ。


 遡れば、わたしの頭の中の記憶はわたしの身体が健康を損なわないよう、働きかけていたような気がします。わたしが発想力に乏しい石作りしか出来ないのも、頭の中の記憶がわたしの思考を制限しているからなのかもしれません。


 わたしはホウホウ殿のお顔から海の方に目を向けました。そこには沖に立つ、二つの小さな白い背中。


「無理に男性のような石を作ろうなどとは思いません。しかし、その仕組みを知ることには意味があるのです」


 わたしは隣に座す紫色の瞳を再び見つめ、


「ゼイデンさまの紺色の石、あれははがね石ですね?」

「アンデュロメイアさまはお分かりになりますか……。ええ、至界のはざま石、と呼ばれるものです。デン爺ちゃんが編み出してから三千年以上、あの域に到達できた者はおりません」

「はがね石のもう一つの力、それは引力操作ですね?」

「その通りです」


 やはり、他の石同様、はがね石にも干渉能力があるのです。


「それはわたしにも可能でしょうか」

「極小規模なものならば」


 頷き、縁側に杯を置くホウホウ殿。


 わたしが右手にはがね石を作り出すと、ホウホウ殿は帯から石を取り出し、修練場に投げ入れました。夜闇の中、灰色の石が石畳に落ちると、沢山の小さな玉に分裂して転がっていきます。


「アンデュロメイア様。星の遠心力、その慣性は忘れてください、そのままに。はがねの粗と密、その間を通り抜ける流れに意識を向けますよう」

「はい、分かりました」


 わたしははがね石を纏わせた右手をかざし、意識を集中。すると修練場に撒かれた金属球のひとつが震え、ほんの少しだけ宙に浮きました。


「意識を点から空間へ、力場はあらゆる角度から降り注いでいます。そう、それが磁束線の操作です」


 ホウホウ殿がまたひとつ帯から石を取り出し、右手に纏わせました。灰色の石、感じるのは干渉能力。おそらくは温度操作。


 ホウホウ殿が修練場に手を向けると、わたしが操作し損ねた金属球たちが宙に浮かび上がっていきます。この現象は、そう、


 超電導。


 石で生成された物質はその温度を自由に変えることができます。そしてはがねの温度を極端に下げると、電気抵抗が無くなる、超電導転移温度になる筈なのです。するとその状態になった途端、磁場が外部に押し出されてしまう。


 これが金属球浮遊の仕組み、そして磁界の掴み方。


「あの氷菓。ゼイデンさまは物の温度に敏感な方なのですね」

「はい、デン爺ちゃんは物質の運動量感知に長けた人です」


 思い出すのはクリーム葛まんじゅうを食べた時のナーダさんの感想。この世界の人は歯ごたえのある、まとまりのある食感を好むのです。


 アイスクリームというのは固い状態からクリーミーに溶ける状態までを一度に楽しめる、段階的な食感を備えた複雑な食べ物。


 ゼイデンさまがアーティナで紹介されたのは牛乳を素材にしたクリームのようなものに違いありません。それを長年の経験から培った直感で、この世界の人が好む食感に加工した。


 その運動量、温度を変えるという方法で。


「ですが、ゼイデンさまはこれだけではない筈です」

「本当に聡いお方だ……」


 ホウホウ殿は困ったように笑って、


「デン爺ちゃんは俺等には見えないものを見、感じているのでしょう」


 それは細胞よりもはるかに小さな、物質の最小単位。


 素粒子。


 手の平を太陽に、頭の中の記憶にそういう言葉があったように思いますが、手の平を太陽にかざすと、肉の薄い部分から光が透過して見える。


 これはわたしたちの肉、その細胞間をとても小さな粒子が通り抜けている、ということなのです。そして素粒子は常にわたしたちの体を通り抜け、引き合う状態、均衡を作り出し、維持し続けている。


 これこそが引力に深く関わるものの捉え方。


「ありがとうございました、ホウホウ殿」


 お礼を言いながら、わたしは新たに石を作成。かなめ石を胸の前に浮かべ、両手で包み、


「思考言語切り替え。情報取得」


 機械的に言葉を紡ぐ、わたしの口。


「環境構築。制御開始」


 すると、修練場に散らばって浮く金属球がわたしの前に集合し、わたしのはがね石を中心に、まるでひとつの銀河のようにゆっくりと回転し始めました。


 これが引力制御。金属を操るのではない、それを取り巻く世界に干渉する。至界のはざま石、その由来通りの理。出力は男性のものに遠く及びませんが、その仕組みは理解できました。


 ホウホウ殿は石を帯に仕舞い、杯を手に取り、お酒をひと口。わたしの操るはがねの集合を夜空と重ね、満足そうに眺めながら、またひと口。


 しばらくして、


「ご馳走さまでした」


 ホウホウ殿は縁側に杯を置き、修練場に下り立って、


「もう夜も更けました。さあ、アンデュロメイア様も早くお休みになりませんと」

「あ……」


 そう言ってわたしに背を向け、海に立つお二人の元へ向かうホウホウ殿。わたしは石を消去し立ち上がり、それから言葉に詰まってしまいました。


 何を言えばいいのでしょう。


 がんばってください。気を付けてください。どの言葉も適していないように思えるのです。


 わたしが言葉を選べず迷っていると、


「ありがとうございます、アンデュロメイア様。あなたはデン爺ちゃんに温かい時間をくれました。あなたの考えは俺達の繋がりを、生き方を変えてくれた……」


 星の瞬く空の下。

 夜風に揺れる、長い三つ編み。


「全ての陸が、あなたが安心して眠れるように」


 ホウホウ殿はかわいく、ほんの少しだけ振り向いて、


「そのための俺達です」


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