第34話 セレナーダとフェンツァイ(2)
「何故、魚の肉で絵画を? 意味が分からないわ」
ゼフィリア領の島屋敷。
橙色の夕陽が差し込む、夕方の時間。
大広間を包む芳ばしい香りの中、用意されたお膳を前に、セレナーダさんは全力で首を傾げています。わたしはそんなセレナーダさんに、
「ま、まずは食べてみていただけませんか? リルウーダさまもおっしゃってましたし」
「そうね、その通りだわ」
配膳を済ませたナノ先生は厨房の方に戻ってしまったのです。ここはホストであるわたしが仕切れ、ということなのでしょう。
それにしても、わたしが発言しても大丈夫なくらい空気が軟化していて助かりました。流石リルウーダさま、目上の存在というのはやはりありがたいものなのだと思います。
「それではいただきますです」
わたしがお膳に向かいぺこりとお辞儀すると、
「いただくわ」
「ご馳走になります」
セレナーダさんとフェンツァイさんもお箸を持ってお食事開始。ダメダメ続きでお食事どころではなかったのですが、実はとてもお腹が減っていたのです。それに、今日はもう我慢できない理由がもう一つあるのです。
お膳の載せられているのはゼフィリア風カルパッチョの他にもうひと品。それは大きな白身の焼き魚。わたしはその焼き魚から漂う初めての匂いにうっとりします。
そう、バターです。
これはお魚をバターで焼いたもの。つまりはムニエルなのです。
ゼフィリアには牛乳がなかったので試せなかったのですが、もしそれが手に入るのならばとレシピを伝えておいて正解でした。イーリアレはそれをきちんと覚えていて、見事完成させてくれたのです。
わたしのお皿にはムニエルがひとつですが、セレナーダさんとフェンツァイさんのお皿には当然のように激盛りで、これならきっとお腹一杯になりますです。
安心したわたしはいよいよムニエルに初挑戦。
「ふおー、おいしいでしゅ……!」
初めて口にしたバターのお味に、わたしは驚きました。砂糖のような甘さではなく、何かよく分かりませんがふんわり甘いのです。なるほどこれは人をダメにするお味。しかもふっくらした焼き上がりなのに外側はパリッとした食感で、これはたまりません。
セレナーダさんは何処から食べるべきか悩んでいたようでしたが、どうにか踏ん切りを付けたようで、少しぎこちない姿勢ですが、食べ始めてくれました。
一枚だけ口に含んでみたり、一度に沢山食べてみたり、その都度何かを納得するように頷いているので、おそらく気に入ってくれたのだと思います。
その隣、一枚一枚お上品にお刺し身を食べるフェンツァイさんを見て、わたしは、はっと気付きました。
先ほどのフェンツァイさんの自己紹介。フェンツァイさんはタイロンの島主のご息女であるとか何とか。
つまりこの大広間にはアーティナ、タイロン、ゼフィリアの島主候補が揃っているという訳で。これはもしかしてその、政治的に重要な会談とかそういうのなのではないでしょうか。
「これは、牛の乳かしら? レイルーデが渡したものね」
「はい、ありがとうございましたです」
わたしがどうしようか悩んでいると、ムニエルを食べていたセレナーダさんがわたしに話しかけてくれました。わたしはセレナーダさんにアーティナ領で牛乳をいただいたお礼を伝えます。
「あのままじゃこうはならないわよね。どう変質させたのかしら……」
「これは乳脂肪分だけを分離させたものなのです」
頭の中の記憶の世界では牛乳を加工し、様々な形に変えていました。
その製法、過程はとても複雑なもの。頭の中の記憶の世界ではこれを機械の力で簡略化していました。しかし、わたしたちには有機物に干渉できる気込め石があるのです。
牛乳に気込め石で干渉し、まずは殺菌。そしてその成分を分離させるだけで簡単にバターが出来てしまうのですね。
「なるほど、つまり牛の乳から油を作ったのね……」
セレナーダさんが空になったお皿を見つめ納得していると、
「こちらが本日のシメとなります」
すだれをめくり、ナノ先生が再び入室。器用にお膳を三つ持ったナノ先生を見て、わたしは、はてと思います。シメと言うとお椀でしょうか。確かに今日の献立にはお椀がありませんでしたが、なんでしょう?
ナノ先生は配膳を終え、またまた厨房へ。
わたしの目の前、そのお膳、そのお皿の上に用意されたもの。
それはのちゃっとしたピンク色の塊。はっきり言って、あまり見栄えはよくありません。お皿の横には小さな匙が添えてあります。
そして、そのまた横には湯呑みのような器に入った、湯気を立てる茶色い液体。
「また牛の乳? そしてこれは、茶ね?」
お膳の上にあるものを見て、セレナーダさんがもんの凄いイヤそうなお顔をしました。確かに、飲み物の方はお茶なのです。
親切なお姉さまに聞いたところ、アーティナの男性は発酵させた植物の葉っぱを水に入れて飲む、つまりはお茶が大好きだそうで。気込め石でその構成成分を読み取り、その葉の中から紅茶になり得るものだけを頂いてきたのです。
しかし、今はそれよりも……、
わたしはまさかと思い、匙を手に取りピンク色の塊をすくいました。
「いただきまにゅおおお……!」
匙を口に入れた途端、口内に広がる強烈な甘あじ。滑らかな舌触りと、まったりとしてコクのある、濃厚な牛乳の風味。そして、ほんの少しだけ感じる酸味……!
「なに、これ……!」
わたしの対面、セレナーダさんが驚いたお顔で口元を押さえています。フェンツァイさんは匙を口に入れた途端、ぴたりと停止してしまいました。
わたしたちが口にしたもの。
わたしがイーリアレに伝えていたものは、フレッシュチーズムースなのです。
チーズと言っても頭の中の記憶にあるような本格的なものではありません。作り方は牛乳にレモンのような果物の果汁を絞り入れ、分離するまで煮詰めるだけ。あとは固形分を気込め石でより分け、お塩を少々。
出来上がったチーズに冷やした生クリームを加え、さっくり混ぜれば完成です。
頭の中の記憶で一番近いのはロマノフやティラミスだと思います。本来マスカルポーネクリームチーズには卵を使わなければなりませんが、わたしたちは陸の生き物を口に入れません。
そのせいもあり、風味や口当たりの滑らかさが少し足りないのだと思います。しかし、それを補っているのがゼフィリアの赤砂糖。
色が少しピンクになっているのはこの砂糖によるもの。砂糖のザラついた舌触りがなかったので、生クリームを作る過程で気込め石を使い溶かし込んだのでしょう。
ゼフィリアの赤砂糖がこのムースにラム酒のようなコクと香りを与え、まとめ上げているのです。
見た目もそうですがまだまだ荒削り、試作の段階のお料理。しかし、わたしは生まれて初めての甘味に超感動。さすがイーリアレ。さすがシオノーおばあさんの教育です。
これはもう我慢できません。わたしは湯呑みを両手に、続けてお茶をいただきます。
「おふぉー……」
なるほどこれがお茶。なるほどこれは落ち着きます。お湯に植物の成分を抽出しただけでこんな落ち着くお味になるとは……。
苦いだけでなく渋みがあり、それでいて口の中に広がる香りが甘く感じるとは不思議なものです。この鼻に抜ける柑橘系の香り、これがとても気持ちよいのです。
その香りですが、少し煎ったような匂いが混じっているので、イーリアレはわたしが伝えたいくつかの手法のうち、焙じ茶の淹れ方を選んだのでしょう。
しかし、ううっ、悔しいです……。
お魚などの海産物はある程度その味の完成系を想像し、挑むことができましたが、甘味やお茶などは全く未知の領域。それがどのくらいの質のものであるか、判断できないのです。
やはり頭の中に知識があっても、それが肉の実感に結びついていなければ経験足り得ないのですね。
「私が知っているものと、全然違うわ……」
対面を見ると、そこには超衝撃を受けているセレナーダさん。
アーティナでは他の淹れ方をするのでしょうか。わたしもこの世界の文化は気になるので、あとで聞いてみたいと思います。
そんな訳で、フレッシュチーズと焙じた紅茶はあっという間にわたしたちの胃の中へ。
「ふー……」
初めてのバターと甘味の余韻に浸り、
「ご馳走さまでした……」
わたしはお膳に向かってぺこりとお辞儀。大満足のお食事でした。あとでイーリアレに沢山ありがとうを言わねばです。
「ご馳走になりました」
わたしに続き、フェンツァイさんもお行儀良くお辞儀。
そんなフェンツァイさんを見て、わたしはほんの少し気持ちに余裕が出来ました。フェンツァイさんはきちんとした身なり、とてもよいお行儀のお姉さまで、とても安心出来るのです。
アルカディメイアのみなさんはその、ちょっとビースト寄りな人が多かったので、フェンツァイさんの清潔な身だしなみが、なおさらありがたく感じます。
少し気になるのは髪の艶がゼフィリアの人に比べ微妙かな、くらいで。おそらく髪の手入れに油を使っていないからかもしれません。
しかしこれは各々の島の資源、その消費に関わること。わたしがあえて口を出すべき問題ではないでしょう。
わたしがまったりしていると、向かいに座るセレナーダさんが難しいお顔で、
「これを作った者を呼んでちょうだい」
声が届いたのでしょう。すぐに厨房からイーリアレが姿を現しました。セレナーダさんはわたしの隣に座ったイーリアレに向かい、
「食事は補給で、そして誇示よ。でも、これは作品ね。順序と波、まるで楽譜。そして完成された模様を崩して食す、倒錯的な快感。人の意志で組まれた様式があるわ」
お母さまそっくりなキリッとした眉。お母さまと違う緑色の瞳。
「加工の理由を教えてちょうだい」
クールな知見。怒ったり慌てたりで余裕がなさそうな感じでしたが、これがセレナーダさん本来の姿なのでしょう。わたしは心の中で印象を改めました。
その質問に対し、イーリアレはいつも通りの無表情で、
「レイアさまはおっしゃいました。りょうりはせんりつです、と」
「うそォん!」
驚いたわたしは思わずツッコミ。お母さまって長靴いっぱい食べたいだけの人類だと思ってました! いえわたしたち靴は履きませんけども!
「料理は旋律……」
セレナーダさんは今日得た体験を反芻するように、唇に手を当て、
「可食部を肉に限ったのは理解できるわ。それ以外の部位は?」
「しまにまわします」
「なるほど、効率的ね。でも、ものを食べる時にいちいちこの工程を挟むの? それは時間の無駄ではないかしら」
「おいしいはさいゆうせんなのです」
イーリアレのきっぱりとした意見に、セレナーダさんは難しいお顔に戻ってしまいました。やはりこの世界の人間の価値観では測りにくいものなのでしょう。
リルウーダさまの仰った取り組み、おそらくは生魚卒業するぞ宣言。セレナーダさんはリルウーダさまに、これが政策であると伝えられているのです。そのせいで、難しく考えてしまっているのだと思います。
わたしは悩み込んでしまったセレナーダさんに、
「あ、あのセレナーダさん。もっと単純に考えてしまっていいんです。要不要である前に、楽しいと思うことができれば、それでいいと思うのです」
小さく息を吸い、一拍。そして、
「それに、食事は習慣です。好きな人とより多くの時間を共有するために、機会と場を用意するものとお考えください」
この世界の人間の習慣は頭の中の記憶の世界に比べ、人と人との繋がりの場が少ないのです。お料理を、お食事を始めてから、ゼフィリアでは人と人との触れ合いが増えました。
色々なことがまだよく分からないわたしですが、これだけははっきりと分かるのです。お食事はとてもすてきな時間を作ってくれる。すてきな笑顔を運んできてくれる。セレナーダさんに、それが伝わってくれれば……。
日が暮れかかったのでしょう。天井に備え付けられた火込め石が起動しました。大広間を照らすのは、ひいお爺さまの作った優しい灯り。
「お母様とヘクティナレイア様は、食事の常識を変えようとしている……?」
唇に指を当て、超お真面目なお顔でお膳を睨むセレナーダさん。
「それでは、しつれいいたします」
イーリアレは用が済んだと言わんばかりに立ち上がり、厨房の方へ。その背中から漂うハイテンションな雰囲気で、わたしは悟りました。
あっ、まだ残っているのです! 今日のお食事が多分まだ厨房にたんまりと! イーリアレは厨房でムニエルと甘味祭を始めるつもりなのです!
お願いしましゅ残しておいてくだしゃい! せめてクリームチーズだけでも! あれはお風呂上りに食べたら最の高だと思うのでしゅ! ぷりーず!
わたしが心の中でお願いイーリアレしていると、イーリアレと入れ替わりすだれの向こうからナノ先生が現れました。
ナノ先生はセレナーダさんにお辞儀をし、
「セレナーダ殿下、アーティナの使いの者が見えております。リルウーダ様から詳細な情報が届けられたそうです」
「分かりました。ありがとうございます、フィリニーナノ先生」
思索を一時中断して立ち上がり、セレナーダさんはナノ先生に丁寧にお辞儀。大広間から出て行こうとすだれに手をかけました。その時、
「フッ、いくら焦ろうと無駄なこと。この技術、アーティナの人間には辿り着けまいよ」
「それはどういう意味かしら?」
ファンツァイさんのその言葉に、セレナーダさんはギッと振り向きました。フェンツァイさんは自分の前に置かれたお膳に視線を落としたまま、
「リルウーダ様の仰った取り組み、その先についても、我々タイロンは既に見当が付いている」
「なんですって!?」
「今のそなたには分からぬであろうな」
セレナーダさんは初めて会った時と同じ、真っ赤になったお顔で、
「失礼するわ!」
大広間を辞していきました。
うーん、フェンツァイさんとセレナーダさん、お二人の関係はよく分かりませんが、何もあんな喧嘩を売るような態度を取らなくても。
フェンツァイさんは常に余裕のある物腰のお姉さまで。それが却ってセレナーダさんを怒らせる原因になってるような気がするのです。
わたしがうーんしていると、フェンツァイさんはその口元に微笑を湛え、
「流石ゼフィリア。この食事を口にできただけで、今日ここに訪れた甲斐があったというもの」
「フェンツァイ様、タイロンの島主候補である貴女が、今日はどのようなご用件で?」
フェンツァイさんに怪訝な視線を向けながら、ナノ先生がわたしの隣に正座しました。そして右手に気込め石を纏わせ、大広間に残されたお膳やお皿をサッと消去。洗い物不要なのはやはり便利ですねー。
ていうかそうそう、そうなのです。フェンツァイさんは当たり前のようにここにいますが、ぶっちゃけフェンツァイさんがゼフィリア領に来た理由が、わたしには分からないのです。
やはり昨日の喧嘩のことなのでしょうか。だとすれば、かなり不安なのですが……。
わたしが微妙な心持ちになり、膝の上で両手をにぎにぎしていると、
「ゼフィリアの姫。今日はそなたに与えて欲しいものがあり、参上した次第」
フェンツァイさんは両の瞼をはっきり開き、
それから、紫色の瞳でわたしを射貫くように、
「我々タイロンに紫の石、その製法を伝授していただきたい」
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