第66話 透海のパリスナ
「ご馳走さまでした」
「ごちそうさまでした」
ゼフィリア領の島屋敷。
火込め石の灯りに照らされる、夕食後の大広間。
お夕食のお片付けをしていたわたしは、ふと膝立ちになり、周囲の気配を探るように耳を澄ませました。
「ひめさま、どうされたのですか?」
「いえ……」
ヌイちゃんとテーゼちゃんが他島の領に出掛け、はや数日。ここのところ、アルカディメイアが静か過ぎる気がするのです。
理由は分かっています。男性です。
アルカディメイアにいる男性の姿が、何処にも見当たらないのです。
ホウホウ殿レンセン殿もずっと講義を欠席していますし、掲示板前で子守をするツェンテさんの姿も見掛けません。
夜のことで何かあったのかと心配になりますが、ホウホウ殿の性格ならば連絡してくれると思いますし。もし何かあったとしても、わたしたちには信じることしか出来ない訳でして。
「多分、なんでもない、と、思います?」
首を傾げて答えるわたしに、イーリアレは不思議そうな雰囲気を放ちました。
傾げていた首を戻したわたしは、ナノ先生のお姿が見えないことに気付きました。夕食のお片付けに厨房に行ったまま、お戻りになっていないのです。もしかしたら、先にお風呂に入られたのかもしれません。
そこで、わたしはあることを思い付きました。
ゼフィリアでは二人一組のお風呂が当たり前。ですがナノ先生は一人暮らしが長いため、ずっと一人でお風呂に入っているのです。
「イーリアレ、どうでしょう。日頃の感謝を込めて、ナノ先生の肉や髪のお手入れをしたいと思うのですが」
「はい、ひめさま」
「ありがとう、イーリアレ」
そのことをナノ先生に伝えるため、わたしが大広間から廊下に出ると、玄関口に佇むナノ先生のお姿が。
「ナノ先生、どうされたのですか?」
「姫様、それが……」
わたしは玄関口に立ち、ナノ先生の視線の先を追いました。目の前には夜の闇に沈むアルカディメイアの直径路。この世界には外灯が無いので、夜は本当に真っ暗なのです。
闇の先。ぽたり、と雫の落ちる音。
暗闇に向かい、わたしがその音に目を凝らすと、そこに浮かんできたのは黒い輪郭。ゼフィリアのものとは違う無骨な石畳に立つ、一つの影。
水に濡れた長い黒髪。
深い眼窩の奥に沈む黒い瞳。
顎に生えた無精ひげ。
大きな体躯に、真っ黒な着物。
そして右手に持つ、黒く大きなお酒の瓶。
「あ、クーさん」
わたしがゼフィリアでお会いしたお客さま。黒海のゼ・クー、その人。
「くーさん? 姫様、もしや五海候、黒海の御方と面識が?」
「いえ、その、以前ちょっとだけ……」
忘れろと言われていたことをつい口走ってしまい、わたしはうっかり。しかし、ナノ先生が中々お戻りにならない理由が分かりました。五海候であるクーさんたちは、こちらからお招きすることが出来ないのです。
クーさんの方から足を運ばれたということは、わたしたちゼフィリアに何か用があるのだと思いますが……。
「あ……」
夜の闇、海の彼方から吹く、一陣の風。
途端、すとんと力が抜け、わたしはその場に座り込んでしまいました。
「姫様、いかがなされました? 姫様?」
「ナノ先生、緊急です……」
気付いた。気付いてしまったのです。初めてクーさんと会った時のこと。クーさんが何故ゼフィリアに赴いたのか、その理由。
わたしは左手でナノ先生の腰巻を握り、震える声で、
「お母さまとリルウーダさまに連絡を……」
アルカディメイアの直径路。夜の暗闇に佇む、一人の男性。
前髪からぽたりぽたりと雫を落とし、クーさんは海の底から響くような、とても低い声で、
「パリスナの好いた酒を出せ。飲んでやる」
『パリスナが逝ったか……』
島屋敷の大広間。ナノ先生とわたし、イーリアレは音飛び石を囲み、正座しています。修練場側のすだれの向こうに見えるのは、縁側に座り、ひとりお酒を飲むクーさんの大きな背中。
音飛び石から聞こえるのは、リルウーダさまのお声だけ。お母さまは取り乱したディナお姉さまを慰めている、とのこと。
島屋敷を包む、重苦しい沈黙。
わたしたち三人、言葉が枯れたように黙り込んでいると、リルウーダさまは静かなお声で、
『アルカディメイアの夜は誰が守っておる……』
「え……?」
『おかしいと思わなんだか。アルカディメイアで学ぶ男性から死者が出ておらんことに』
かすれた声を漏らすわたしに、リルウーダさまは、
『アルカディメイアにも男はいる。じゃが、彼らは各々の島から来ている学生じゃ。男の数など島によって違う。ゼフィリアには男の学生がおらず、トーシンに至っては学生すらおらん。公平ではあるまい。それに、本来なら自分の生まれた島を守るのが道理じゃろう』
それは言われてみれば当然の、今まで気にする必要もなかったこと。その事柄の中で見落としていた、重大な前提。
『アルカディメイアは人を育む場所。より強い男を育てるため、より多くの男を生かすため。そのために必要なのは、人と人とが公平に競える安全地帯……』
リルウーダさまは小さく息を吸い、
『二十年じゃ。二十年間、パリスナはアルカディメイアを一人で守り通した』
音飛び石の向こうから告げられたその事実に、わたしは床に手を突き、前のめりになって、
「そんな、スナおじさまは島にずっといたじゃないですか。アルカディメイアに来る暇なんてなかったと思いま……」
『ああ、姫さんか。スナは出てる、すぐ戻るよ』
見開かれるわたしの瞳。からからに乾いていくわたしの口。
思い出すのは蔵屋敷で交わしたリナさんとの会話。スナおじさまはお忙しい方。ゼフィリアの蔵主だったから。夜の海を見張る男性だったから。でも、本当にそれだけ?
「そ、んな……」
スナおじさまがあの時間に帰ってきたのは……。ディナお姉さまがスナおじさまを洗浄したのは……。
『あやつは男じゃぞ。それにの、ゼフィリアは風と水の島。
「リルウーダさま、それは、どういう……」
わたしが腰を落ち着けると、リルウーダさまは引き続き静かなお声で、
『先代が亡くなり八百年。忘れられたその名をあやつが受け継いだ時、我々はその真実を隠し、利用することを思い付いた。そう、イオシウスは首魁、唯一にして絶対の男。はなから頭数に入っておらん』
すだれを通り抜けて入ってくる、冷たい夜風。
わたしの金髪を揺らし通り過ぎる、潮の香りを含んだ風。
『五海候、透海のパリスナ。世界の島々、その島主達との盟約。男でありながら政治に関わる、あやつにしか出来ん役目じゃった……』
「リルウーダ様!!」
直後、ナノ先生が叫び声と共に立ち上がりました。ナノ先生はその拳をきつく握り締め、床に置かれた音飛び石に向かい、
「開示すべきです! 誰にも知られず、ただ死んだなどと! ゼフィリアは、私は絶対に許しません! レイアはこのことを承知していたのですか!? 何故、何故私に伝えず!!」
『レイアやディナに口止めしたのは他でもない、パリスナじゃ』
「男が生まれた島のために死ねなかったのです!!」
ばたばた揺れる島屋敷のすだれ。びりびり震える島屋敷の柱。ナノ先生の、この世界の女性の本気の怒鳴り声。
ナノ先生は肩で息をして、それからがくりと膝を突き、
「スナが、スナは……。誰よりも、ゼフィリアのことを思って……」
『フィリニーナノ……』
ナノ先生のほつれた前髪。滂沱の涙を流す、青い瞳。
音飛び石の向こう、リルウーダさまは嗚咽混じりの小さなお声で、
『パリスナめ……。逝って、しまいおったか……』
「こちらにはこれを付けて召し上がってください」
「うむ」
火込め石の灯りが落とされ、真っ暗になった島屋敷。すだれを上げ、大広間と繋がった島屋敷の縁側。その縁側にお料理を配膳し終え、わたしたちは大広間に正座しました。
クーさんを囲むように運ばれた、大きなお皿の沢山のお料理。酢漬けに酒蒸し。山盛りの島わさびを添えたた、ゼフィリア流のお刺し身。
クーさんは黒い杯を傍らに置き、
「多いな」
「食べきれませんか?」
「ヤツの好物がだ」
わたしはその言葉に少し俯き、
「好きなものが、沢山できたのだと思います……」
「そうか」
そう答え、クーさんは黒い箸を作り出しました。お食事を始めたクーさんの背中から、わたしはナノ先生に顔を向け、
「ナノ先生、これからわたしがすることを許していただけますか?」
「何をするのか言って頂かなければ、許すも許さぬもありません」
「多分、これはとても不謹慎なことなのです。でも、わたしにはこれしか思い付かないのです」
ナノ先生はしばらく考え、「分かりました」と頷いてくれました。許可をもらったわたしが、
「イーリアレ、お願いします」
「はい、ひめさま」
気込め石で弦を作ると、わたしの隣でイーリアレが同じように弦を用意しました。
夜空に浮かぶ真っ白な月。
修練場の向こうに横たわる、暗い海。
潮の香りを運んでくる、アルカディメイアの風。
弦に弓を当て、主旋律を何度か繰り返し、わたしは歌い始めました。
「砕けてく、砕けてく。波の間に間に、波の間に間に。
落ちていく、落ちていく。水底へ、水底へ。
喜びも悲しみも、そうよ、波の数でかぞえるの」
弦に指を走らせ、音を絞り、
「ねえ、言ったじゃない。わたしは。
くだらないって、夜の度に。
言葉が霞んで、千切れてく。
冷たい雨に押し流されて、
雫がひとつ、消えていく」
わたしの体と響き合い、大きくなっていく弦の音色。
「風が吹く。夜の風が。
手を伸ばしても、もう届かない」
主旋律。わたしは大きく息を吸って、
「潰れてく、こぼれてく。あなたの肉が、あなたの骨が。
ぼやけてく、消えていく。あなたの声が、あなたの熱が。
傷跡も思い出も、そうね、波が全てさらってく」
歌いながら気付く、これはイーリアレの紡いだ言葉。イーリアレの思い出。
「そう、追ったのよ。わたしは。
空も海も死んだ夜に。
ひとりぼっち、歩いてた。
月も星も消えた夜に。
あなたはわたしを、置いていく」
思い出すのはゼフィリアの夜。
クーさんと初めて会った、あの日の夜。
「凪が来る。夜の凪が。
いくら叫んでも、もう届かない」
あの人に聞いたひいお爺さまのお話。
あの人に教えてもらった、お父さまの名前。
「「砕けてく、砕けてく。波の間に間に、波の間に間に。
落ちていく、落ちていく。水底へ、水底へ。
喜びも悲しみも、そうよ、波の数でかぞえるの」」
響きながら重なる、わたしとイーリアレの歌声。
わたしから離れ、わたしを一人にしていく、イーリアレの歌声。
わたしは体中から思い出を、言葉を集めるように、それから瞳を閉じて、
「繋いで、狂って、詠われていく。
あなたは忘れてく。ただ、歩いてく。
一面の花畑を、振り返りもせず。
暗い嵐が吠え立てる。
舞い上がる花びらが、夜風を吸って、散っていく」
瞼の裏に浮かぶのは、あの人が階段を下りていく後姿。
「消えていく。消えていく。
雫がひとつ、消えていく……」
余韻を残し、弦から弓を離すわたしとイーリアレ。
か細い音を残して、わたしたちは演奏を終えました。
目を開けると、軒にかかる白い月。
暗い地平線で別たれた、黒い空と黒い海。
縁側で一人、ゆっくりとお食事を続ける、クーさんの黒い背中。
ナノ先生は座礼し、深々と頭を下げ、
「姫様、申し訳ありません……。本日はこれで、失礼させていただきたく……」
「はい、先生。おやすみなさい……」
「俺の酒だ。くれてやる」
縁側に大きな瓶をどんと置き、クーさんがのっそり立ち上がりました。そして大広間に入り、そのまま玄関の方に歩いていきます。わたしはクーさんを追って立ち、水込め石を作り、
「クーさん、待ってください。これ、水込め石です。飲用と生活用。分かります。ここに来る前に、水浴びしてきてくれたんですね」
「料理とは、己の気配を消して挑むものだ」
わたしに向けられる、黒い瞳。初めて会った時と同じ、昏い眼差し。クーさんはわたしの手から石を受け取り、帯に挟みました。それから、わたしの隣に立つイーリアレに目を留め、
「あの食い物はお前が作ったのか」
「はい」
「名は何という」
「イーリアレともうします」
イーリアレに頷き、クーさんが腕を振ると、縁側のお皿がぱっと消えました。お片付けを終えたクーさんは、廊下に続くすだれをめくり、
「馳走になった」
クーさんをお見送りしたあと、わたしは一人で島屋敷のすだれを下ろし、お布団に横になりました。
遠く耳に響く波の音。ふたつ向こうのお部屋から聞こえる、ナノ先生のすすり泣く声。隣を見れば、安らかな寝息を立てるイーリアレ。
わたしはイーリアレの頭を抱き寄せ、その銀髪に顔を埋めました。
『安心して眠れ』
スナおじさまがくれた、最後の言葉。
わたしの目から零れ落ちる、一粒の雫。
この夜、この世界でそれを叶えるのがどんなに難しいことなのか、わたしはやっと理解したのです。
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