第70話 願いの歌のレーナンディ(1)
朝イチバンの講義棟。
優美な弦の調べが流れる大教室。
教室の中心では、複数のお姉さまが弦を合奏しています。わたしとイーリアレはそのお姉さまたちを囲む聴講陣に混ざり、音楽の講義に参加中。
見分を広める手段は人助けだけではありません。わたし自身に技術が身に付くかどうかはさておき、個人の楽しみを増やしてみては、というナノ先生の薦めに従ってみたのです。
ナノ先生の指摘通り、わたしは今まで俯瞰的な視野でしかこの世界の学問を見てきませんでした。しかし、個人の興味を優先することこそ、アルカディメイア本来のあり方。
そんな訳で、わたしは一週間ほど研究をお休みし、色んな講義を聴講して回ってみたのです。そして選んだのがこの時間。ディーヴァラーナの音楽の講義。
わたしが性質代入法の気付きを得たのもジュッシーお姉さまの弦からでしたし、そういう意味でも、音楽はわたしと相性がいいと思うのです。何より音楽はイーリアレも大好きで、わたしの隣からはうっきうきな雰囲気が伝わりまくってきます。
教室の中心。様々な島の人に囲まれ、弦を奏でる黒い着物のお姉さま。
ディーヴァラーナの音楽は頭の中の記憶の音楽に組み立てが近く、つまりイーリアレの歌ぽいのです。とりわけサビと思われるメロディがめちゃんこきれいで、それがこの講義を選んだ決め手になりました。
この時がずっと続けばいいのに、というわたしの願いに反し、緩やかに消えてゆく弦の音色。ぴたりと手を止めるお姉さまたち。恍惚としたため息に包まれる大教室。
わたしは思わず拍手しようとして、
「はわっ……!」
すぐに膝の上に手を戻し、ちょっと赤面。この世界の人は喝采に拍手を送らないのです。褒めたければ個人的に褒めに行くのが普通なのですね。
「ふわあ、よかったばい……」
「きれいやったねえ……」
イーリアレの隣には頬を上気させたテーゼちゃんとヌイちゃんがいます。テーゼちゃんは本の他に音楽も大好きだそうで、この講義にはずっと参加してみたかったのだとか。
黒い着物のお姉さまがぺこりとお辞儀すると、周囲の人が退室し始めました。どうやら解散のようですが、黒い着物のお姉さまは残った数人に囲まれてしまいました。
おそらく個別指導を願い出ている人たちなのでしょう。あの演奏なら納得です。中にはアーティナのレイルーデさんの姿も見えます。
「さて、わたしたちも……。おや? テーゼちゃんは?」
「ほんまや、何処行きはったんやろねえ?」
退室しようとして隣を見ると、テーゼちゃんの姿がありません。テーゼちゃんを探し、わたしがきょろきょろしていると、
「あ、あの、ゼ、ゼフィリアの、ア、アンデュロメイア様……」
名前を呼ばれ視線を戻すと、そこにはこの講義の開設者のお姉さま。ディーヴァラーナのお姉さま方はわたしの講義に必ず出席してくださるので、お顔は知っているのです。
黒く長い前髪に隠れた赤い瞳。
病的なまでに白い滑らかな肌。
年齢はナーダさんやレイルーデさんと同年代なのだと思います。
目の下のクマと喪服のような黒い着物も相まって、頭の中の記憶の幽霊さんみたいな。失礼な感想ですが、先ほどの演奏がこの人によるものだと言われても信じられない、暗い印象のお姉さま。
そのお姉さまは体の前で不安げに手を組み、
「ア、アンデュロメイア様の、こ、講義にはいつも参加させて頂いております。あ、改めまして、ディ、ディーヴァラーナの、レ、レーナンディと申します」
そして、必死になってつっかえつっかえになりながら、
「わ、わ、私に、さ、授けて頂きたい技術があるのです」
ゼフィリア領の島屋敷。
修練場の空に舞う、二枚の短冊。
石畳に正座し、わたしとヌイちゃんはひらりひらりと風で紙を躍らせています。身のこなしと同じ、言うなれば人を風に乗せて運ぶ、風のこなし方の練習です。
わたしは右手に纏わせた風込め石に意識を集中させながら、
「うーん、個別指導と言われましても、講義以上のお話が出来るとは思えないのですが……」
「せやったら料理ん方かねえ?」
先ほど伺ったレーナンディさんの申し出。それはお料理と生活用石作りの個人的な指南を、わたしにお願いできないか、というもの。
講義の開設者に直接教えを請うのはここアルカディメイアでは一般的なやり方。それに、求められたら与えましょうがこの世界の基本。
わたしに断る理由はないのですが、ホロデンシュタックを別にすれば個人からの申し込みは初めてで、ちょっと緊張してしまうのです。
「うーん、ディーヴァラーナにはシュトラお姉さまがおられますし。料理でしたらシュトラお姉さまの方がずっと専門的だと思うのです」
「ほなレーナンディ姉様に聞いたらええねん。人の求めるもん引き出すんがメイちゃんのやり方やろ?」
「そうですね……。何とかなりそうな気がしてきました」
青空に紙を浮かべながら交わす、ヌイちゃんとのたわいない会話。ここ何週間かの、わたしの日常。そんな当たり前の時間を過ごしながら、わたしは思い返しました。
きっと、ナノ先生の言う通りなのです。わたしは島主候補としての義務感が先立って、人との関わり方が固くなってしまっていたのです。
そう、わたし自身が生きる喜びを忘れてはいけない。音楽と同じように、多くの人とその歓びを共有できるようにならなければ。
それに、今わたしはとても楽しいのです。
ホウホウ殿レンセン殿の時は勘違いでしたし、歳の近いお友達はヌイちゃんテーゼちゃんが初めてで、わたしはこの時間がとても嬉しかったりするのです。
やはり持つべきものはナノ先生です、とわたしが心の中で感謝していると、
「今ここにヴィンテーゼが来なかった!?」
「ひっ!!」
わたしとヌイちゃんの間、憤怒の形相のナーダさんが突然ずだんと下り立ちました。
そのあまりにもテルリブルなお顔にわたしが悶絶怯んでいると、ヌイちゃんが操作から外れた二枚の紙をぱしっと捕まえ、
「ナーダ姉様、おなごがそないな顔したらあきまへん。メイちゃんが怯えてはるえ?」
「あ、ごめんなさい。大丈夫よ、メイ。怖くない、怖くないからね?」
ヌイちゃんにたしなめられ、ナーダさんはぱっと通常モードに戻りました。落ち着きを取り戻したわたしはナーダさんに、
「テ、テーゼちゃんですか? レーナンディさんの講義を受けてた時は一緒にいたのですが……」
「レーナンディって、音楽の……!?」
「え、あ、はい」
意外なところに喰い付いたナーダさんは、悔しそうにぎちりと親指を噛んで、
「しくじったわ、彼女の講義を逃すなんて……! ルーデの奴、私が朝弱いの知っててわざと起こさないんだから……!」
「あ、ナーダさんもレーナンディさんの弦が好きなのですね?」
「だだだってステキじゃない!? 明るい曲も暗い曲も、作る曲全部かっこいいのよ!? 何と言ってもあの構成! まるで物語を表現しているような、あの人の音楽には風景があるの!」
「え、あ、はい」
どうやらナーダさんは熱烈なレーナンディさんファンであるようで、ちょっと引き気味なわたしに向かってレーナンディさんトークを大継続。
わたしが予想した通り、レーナンディさんは個別に指導を頼まれることが多く、とてもお忙しい人だそうで。何でも教室に空きが出来た時しか講義を開かないそうです。
「ディーヴァラーナにはたまにいるのよ、ああいう人。ちょっと遠慮しいというか。でも、喧嘩は強いのよ。確か、ミージュッシーお姉様にしか負けてなかったはず」
「ふおおー、そうなのですか」
レーナンディさんは今年でアルカディメイア五年目の、ディーヴァラーナに用意された特別枠。その立ち位置はディラさんシシーさんと同じ臨時教員に近いものだとか。やはりとても優秀な方なのですね。
なるほど、これは有益な情報です。わたしは個別指導を頼まれたので、ある程度その人となりを知っておきたかったのです。
ふむふむしたわたしはナーダさんに、
「それで、テーゼちゃんがどうしたのですか?」
「そう、そうよ! あんの桃色娘……!」
それは昨晩ヌイちゃんと一緒にアーティナ領に訪れたテーゼちゃんのお話。
テーゼちゃんはクルキナファソが誇る優秀な研究者。そのことを知っていたナーダさんは、お食事エンジョイ中のテーゼちゃんに共同研究のお話を持ちかけたそうなのです。しかし、テーゼちゃんはスパッと拒否。
持てる者はその力を発揮すべき、必死になって食い下がるナーダさんから、テーゼちゃんはあっさり逃げ出したそうで。
あー、見事にスカされたナーダさんが怒るのも無理はありません。テーゼちゃんは意識の高いとてもダメな子なのです。ていうかやってることがまんま食い逃げですそれ。
そして、わたしたちの前からテーゼちゃんが消えた理由が分かりました。先ほどの講義に出席していたレイルーデさんとかち合わないよう、姿をくらましたのです。
「こうなったら徹底的に囲って出せるもの全部出してもらうわ! ジャマしたわね!」
シュタッと手を振り、ナーダさんはしゅぱっとアルカディメイアの空に跳び立っていきました。筋肉。
「ナーダさんも忙しい方ですねえ」
「ほんまにねえ」
わたしとヌイちゃんがのんびり青い空を眺めていると、
「くっくっく。序列第一位、恐るるに足りんばい……」
まるで地の底から響くような、誰かさんの声が。
わたしたちが背後を振り向くと、寄木細工のパズルのように石畳が動いて穴が開き、噂のダメな子が現れました。穿孔掘削のような感じで地面を掘り進んできたのでしょうか。ちょっとやめた方がいい移動方法だと思います。
「甘か、甘かと! アーティナん砂糖漬けより甘かと! そんなんでボクが研究するち思ったら大間違いばい!」
右手にお得意の砂込め石を纏わせ、テーゼちゃんは地面を修復。それから石畳に這いつくばり、猫の背伸びのポーズでお尻をふりふりしながら、
「ボクは働かんばい! ぜーったい働かんばい! ボクはレーレお姉様みたいに一生食っちゃ寝して暮らすんばい!」
そんなテーゼちゃんの痴態を前に、わたしはなるほどと頷き、
「ヌイちゃん、あんなのお友達にしてていいんですか?」
「いややわあ、あらメイちゃんの友達やろ?」
「うぅわ、淡泊非情」
ころころ笑って返すヌイちゃんに、わたしはやや戦慄。ていうか、ヌイちゃんはテーゼちゃんとずっと一緒だったはず。我関せずで誰にも協力しない辺り、とてもヌイちゃんらしいと思います。
そんな薄情なヌイちゃんの言動もどこ吹く風、テーゼちゃんは赤紫色の瞳をきらきらさせて起き上がり、
「ヌイちゃん、タイロンばい! タイロン領ば行ってむほほな読書するばい!」
「はいはい。タイロンはんのお風呂はどないやろなあ?」
テーゼちゃんの提案にヌイちゃんはすっと立ち上がり、それからだぼだぼの袂をふりふりさせ、
「ほな、ソーナ兄さんによろしゅう言うとって」
「メイちゃん、また明日ばい!」
「はーい、またこんどー」
島屋敷を飛び越え西の空に消えていくお二人を見送って、わたしも立ち上がりました。
さて、そろそろソーナお兄さんとイーリアレが帰ってくる時間。二人は昼食に使うお魚を吟味するとかで、揃って漁に出掛けているのです。
わたしが縁側によいしょと上ったところで、修練場に再び人が着地する気配を感じました。
振り向いた先、ナーダさんは怒髪天を突く表情で、
「今ここにヴィンテーゼが来なかった?!」
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