第69話 ノイソーナお兄さんの約束(3)
「寝付けませんか?」
「ナノ先生……」
今にも星が降ってきそうな空の夜。
一人縁側に座るわたしに、ナノ先生が言いました。わたしはナノ先生の密やかなお声に顔を上げ、それから修練場に視線を戻し、
「だって、ナノ先生……」
「ええ……」
そこに置かれているのは大きな瓶。風込め石しか作れなくなってしまったソーナお兄さんのための、飲み水の入った瓶。
夜になり、無事目覚めたソーナお兄さんは浴びるように水を飲み、また海の見張りに出てしまったのです。
隣に腰を下ろしたナノ先生と共に、わたしは海の向こうに目を向けました。星の光の下、遠く海上に佇むソーナお兄さんの立ち姿。
水平線に別たれた空と海を眺める、無言の時間。しばらくして、わたしは夜空を仰ぎ、
「ナノ先生、お聞きしたいことが。翔屍体に関する備えのことで」
「承知致しました」
わたしの質問に、ナノ先生はひとつずつ丁寧に解答してくれました。一通りのことを聞いたわたしは、
「ではやはり、連携は皆無なのですね」
「はい、その通りです」
口に手を当て黙るわたしを見て、ナノ先生は、
「姫様、今度は何を思い付かれたのですか?」
少しだけ面白そうな声音で言いました。
わたしの考え、その概要を伝えると、ナノ先生はふむりと頷き、
「もしそれが叶えば、今までよりも密度の高い情報を共有し、有事に備えることが出来るかと」
「世界の島々は今まで個別に動き、それが当たり前のこととして生きてきました。人は一人で生きていける。そして、わたしたちにはそれだけの力がある。だから他人に助けを求めない。それがわたしたち人間の弱点です」
そう、わたしたちを頼ってくれないソーナお兄さんのように。
『すまねえなあ……』
わたしが飲み水を用意した時、ナノ先生が羽織を作った時。その度に心底申し訳ない顔をしたソーナお兄さん。
わたしは知っているのです。ソーナお兄さんは気込め石だって上手だったのです。でも、ソーナお兄さんは風を極めたから、もう他の石を作れなくなってしまった。もう自分で着物を作ることも、揚げ魚を作ることも出来なくなってしまった。
ソーナお兄さんは、あんなに上手に石を使えた人なのに……。
それはスナおじさまとの約束のため。このアルカディメイアを守るため。ソーナお兄さんだけではありません。この世界の男性たちは、その代償を払い続けているのです。
亡くなった人は生き返らない。
ならばせめて、その人が成しえたことを継がなければ。それがきっと、今を生きるわたしたちの本当の役目。
肉が弱いからと、恐れてばかりはいられない。いつかわたしも、空に上がる時が来る。
「そのために、世界の島々に協力を要請せねばなりません」
「中枢はアーティナ、中継はここアルカディメイアが適任でしょう」
はっきり答えるナノ先生に、わたしは少し俯き、
「ごめんなさい、ナノ先生。ナノ先生たち屋敷番の負担を増やすことになるかもしれません」
「持てる者はその力を存分に働かせる義務がございます。それに、これしきのことで私達が折れるとお思いですか?」
「ありがとうございます……」
わたしがお礼を伝えるとナノ先生は立ち上がり、上品に微笑んで、
「さあ、もう休みましょう。ノイソーナが帰ってきた時、私達が寝不足では心配されてしまいます」
「はい、ナノ先生……」
ゼフィリアの慣わしはある意味で正しいものだったのです。
他人は鏡。男性を心配しなければ男性は不安にならない。何も知らず、ただ笑ってさえいれば、あの人たちも当たり前のように笑い返してくれる。そう、知らなければ平穏でいられるのです。
空と海を別つ昏い水平線。
微かな潮の香りを乗せた夜の風。
わたしは遠い海の上に立つ人影をもう一度目に留め、それから立ち上がりました。
「所在はこちらで確認したわ。ウチの男共に石の添削を頼まれたから、昨日の昼はこっちの温室で寝てたそうよ」
ゼフィリア領の島屋敷。
数日経った朝の時間。
大広間で正座するナーダさんの報告に、わたしたちゼフィリアの女衆は心底ほっとしました。
原因はここ数日のソーナお兄さんのこと。朝のお魚はいつも通り縁側に置かれていたのですが、そのお魚を獲ってきたはずのソーナお兄さんの姿が何処にも見当たらなかったのです。
慌てたわたしたちは方々へ連絡を取り、その所在を確認したナーダさんがわざわざ足を運んでくれた訳でして。
「ありがとうございます、ナーダさん」
「仕方ないわ。男の所在なんて誰も気にしないのが普通だもの。あー、タイロンじゃどうかは知らないけど……」
ぺこりと頭を下げるわたしに、ナーダさんは困ったように笑いました。
この世界の人間、特に男性は基本フリーダムなのです。更には超スゴイ筋肉があるので、その行動を把握すること事態不可能なのかもしれません。
わたしが顔を上げると、ナーダさんは気を取り直したようにお真面目なお顔になり、
「メイの考えた取り組みはお母様達がすぐ実行に移すそうよ。ヴァヌーツには今更遅いと呆れられたそうだけど」
「ヴァヌーツ、ですか?」
「ええ、あそこは翔屍体になってしまう人が多いから、私達とは危機感が違うの。ヴァヌーツは以前から何度も似たような呼び掛けをしていたそうなのだけど、メイみたいに具体的なやり方を提示してくれなかったから、取り合う島が少なかったのよ」
なるほど、当然と言えば当然。やはりわたしと同じような考えを持つ人がいたのです。
「あそこの島主様は頭の回転が速過ぎて、ちょっと……」
「ヴィガリザは仕方が無いでしょう。あの娘は傑物です」
難しいお顔をするナーダさんに、やむなしというお顔のナノ先生。はて、ヴァヌーツの島主さまというのはどのような女性なのでしょうか。わたしが島主になったらその方とも連絡を取り合わねばならないので、ちょっと不安です。
ともあれ、わたしは口元をむにゃむにゃさせながら、
「わたしたちには協調性が足りないのです。備えたところで、それが機能するかも分かりませんが……」
「必要性は充分に理解しているわ。メイには組織の基礎構造の確認のため、アルカディメイアでの就学を終えたらアーティナに顔を出してもらうことになるけど」
「分かりました」
どうやら上手く行きそうで、わたしは安心。この世界の人たちは一度決断すると行動が早いので助かります。
わたしがナーダさんとお話していると、一番端に並んで正座していたシシーさんがすだれの向こうを気にしだしました。無理もありません、ソーナお兄さんが帰ってこないので、みなそわそわしてしまうのです。
ナーダさんは、そんな様子のわたしたちに、
「ノイソーナ殿のことは暗黙の了解、で落ち着いたわ」
「はい、そうするしかないと思います……」
お母さまたち島主が交わした、ソーナお兄さんに関する取り決めはふたつ。
この世界には報道が無いので大丈夫だと思うのですが、「アルカディメイアには五海候がいますよ」とわざわざ口に出さないこと。
アルカディメイアでの就学は二年まで。ですが、息子をアルカディメイアに送れば二年は死なずに済む訳でして。我が子が少しでも長く生きられるならば、という母親の心情はどの世界でも同じなのです。
そしてこれはアルカディメイアに来ている男衆に向けてなのですが、玄関口で声さえ掛けてくれればゼフィリアの修練場に出入り自由、というお知らせ。
これはソーナお兄さんが石の指導を行っていたことを知った島主さまが、その活動を円滑にするために提案したもの。むしろわたしたち女性にもお願いできないか、と声が上がるくらいでした。
ですが……、
「あなた達が心配するのも無理ないわね」
「はい……」
今ならカッサンディナお姉さまの気持ちが理解できます。ソーナお兄さんにはゆっくり体を休めてもらいたい。でもこの世界の男性は、ソーナお兄さんはとても強いから、動いてしまうのです。
そして、シシーさんが父親であるスライナさんに抱いていた気持ち。自分より強い男性という生き物にはわたしたち女性の助けは必要ない、という遠慮のような固定観念。
それもあって、わたしたち女性陣はソーナお兄さんになにかを言おうにも、言い出せないでいるのです。
島屋敷の大広間。
すだれから入ってくる、潮の香りを含んだ風。
沈み込んだわたしたちに、ナーダさんはからっと笑って、
「そうね、じゃあ開き直るしかないんじゃないかしら」
「さあ、じゃんじゃん食ってってくれな!」
雲ひとつない青い空。
講義がひと息ついたお昼の時間。
石の椅子や氷の机や、先日のように野外レストランに様変わりした大広場には、あらゆる島のお姉さまたちがひしめいています。だいたい鼻血。
掲示板近くに用意された大きな調理台を前に、ニコニコ笑顔でお料理を作っているのはソーナお兄さん。わたしとイーリアレは、調理台のすぐ近くでそれを眺めています。
ソーナお兄さんはわたしが作った石を使い、色とりどりのお料理を瞬く間に仕上げて筋肉。
『ノイソーナ、料理を食べて欲しければ私に直接言いなさい。掲示板に予定を書き込んでおきます』
それはナノ先生逆転の発想でした。ソーナお兄さんの動向が分からなければ、ソーナお兄さんに自ら報告させればいい。そう、ナーダさんの提案通り、わたしたちは開き直ったのです。
ソーナお兄さんにやりたいことがあるなら、わたしの石がそれを全て叶えてみせる。肉の強い弱いはもう関係ありません。これからはわたしたちが、ソーナお兄さんをふっかふかのベッタベタに甘やかすのです。
そんな訳で、アルカディメイア公式になったソーナお兄さんは、お姉さまたちに全力で食べ物をふるまっている真っ最中。
なのですが、勿論誤算はあったのです。
「姫君、こちらにおいででしたか!」
「こ、こんにちは、ヘイムウッドさん」
突如わたしの目の前に現れたのはアーティナのダメな舌代表、ヘイムウッドさん。筋肉。ヘイムウッドさんは手に持つお盆をさっと差し出し、
「姫君! 姫君もおひとついかがですか!?」
「う、で、ではひとつ……」
男性が食べ物を与えてくれるというなら受け取らない訳にはいきません。わたしはお盆に載せられた寒天をひとつ手に取り、えいやとぱくり。
「あ、ほいひいれふ」
「ええ、流石シオノーお婆ちゃんの仕込みです。つとんとした歯応えとつっぽんぷりんと跳ねる舌触り。それで中から果物がこう、よく分かりませんが、ありのまま出てきて、とにかく素晴らしいのです」
「うぅわ、語彙力」
わたしが頂いたのは果物を閉じ込めたさっぱり寒天ゼリー。
そうでした、これはソーナお兄さんが作ったのでした。ヘイムウッドさんが持ってきたので、つい警戒してしまったのです。ちなみに、イーリアレはわたしの隣でエンドレス立ち食いモードに突入中。
調理台近くに現れては消える、俊敏な筋肉の群れ。ソーナお兄さんにお料理の材料を供給しているのは各島の男性たち。
果物を運んでいるのは浅黒い肌のガナビア男性陣。木の実を手に、頭に動物を乗せているのはホロデンシュタックの敷物さん。野菜を両脇に抱えた真面目そうな人はリフィーチのお兄さん。
ゆったりとした着物をびちゃびちゃに濡らし、大きなお魚を担いでいるのはクルキナファソの男衆。そこかしこでわんちゃんを見かけるので、ディーヴァラーナの男性も来ているのでしょう。
これがわたしたちの大誤算。ええ、まさかソーナお兄さんのやりたいことにアルカディメイアの全男性が乗ってくるとは思わなかったのです。
わたしを離れ、近くのお姉さま方にお茶を淹れていたヘイムウッドさんが急に空を仰ぎ、
「それは分からん、ナノお婆ちゃんに伺いを立てねば。うん? そうだな、せっかくだ。ナノお婆ちゃんにも召し上がってもらおう」
虚空に向かって何かを呟き、ヘイムウッドさんはその姿をぱっと消してしまいました。筋肉。
これはもしかしなくてもヤバイ感じなのでは。だって、ご老人大好きな男衆にナノ先生とお話しする大義名分を与えてしまった訳で。ていうかナノ先生に言えば何をしてもいいと勘違いされているような節があって、めっちゃ不安になります……。
わたしがむにゃむにゃ寒天おいしいしていると、
「あのー、ソーさん。ちょっと聞いて欲しいことがあるんですが」
藍色の髪と切れ長で橙色の瞳。
チョコレート色の肌。
朱色の着物をはだけさせ、上半身を露出した着こなし。
調理台の陰からヴァヌーツのツェンテさんがひょっこり現れました。ですが、今日は子守の女の子たちを抱えていません。どうしたのでしょう?
ソーナお兄さんはツェンテさんに顔だけ向けて、
「おー、ツェンテじゃねえか。動きながら聞っから、こっち手伝ってくれよ」
「え、俺でいいんですか?」
「そりゃ勿論」
ソーナお兄さんに呼ばれ、ツェンテさんはおそるおそる調理に参加。右手に火込め石を纏わせ、どうやら焼きものや炙りものを担当するようです。
ソーナお兄さんはツェンテさんの火込め石を横目で眺めながら、
「いい線いってんなあ。やっぱヴァヌーツにゃいい陽が昇ってんだあな」
「あーざっす」
「お前、シウ爺さんに直で教えてもらっちゃどうだ。何なら呼ぶぞ」
「シウ爺ちゃんはダメですよ、もうまともな石作れないじゃないですか。やっぱ火込め石はメナお爺ちゃんですって」
「あー、メナ爺ちゃんはもう逝っちまったからなあ」
「なんで、火込め石はソーさんに見てもらおうかと。ソーさん、メナお爺ちゃんの石を一番近くで見てきたじゃないですか」
「まあ、そういうことなら見るけどよお、言えることしか言えねえぞ? 俺あもう風しか作れねえしな。あと、情報簡略化させんのはいいが、隙間は空けとけよ? 行き詰まった時に自由が利かねえと困んだろ」
「それは風込め石だからですよ。平均分子量がそれじゃ熱量が上がらない」
「まあ、そうなんだけどよお……」
ふむふむ、男性同士の会話はあまり聞いたことなかったので新鮮です。ツェンテさんとは以前石作りのお話をしたことがありますが、やはりとても優秀な人なのでしょう。あとフハハさんは呼ばなくていいです。絶対呼ばなくていいです。
わたしがお二人のやりとりを眺めながらふむふむしていると、
「フッ、あれはいいものだ」
「フェンツァイさん?! いつのまに!? あ、こんにちわ!」
「フッ、こんにちわ。そう、アイサツは大事」
以下略で現れるフェンツァイさん。筋肉。「何故こちらに?!」とわたしが振り向けば、
「のっぴきならぬ攻防の気配を感じ、急ぎ駆けつけたまで。しかし、ノイソーナ殿にツェンテちんの組み合わせとは、私にはいささか暑苦し過ぎる。趣味ではない、趣味ではないが……」
何だかよく分からないことを言いながら、フェンツァイさんは紫色の瞳をくわっと見開き、
「攻めておる。ノイソーナ殿、実に攻めておる……」
そして、真っ赤な情熱をブバッと放出。
「フッ、先輩後輩。包容力抜群だが強気で来ると弱腰になっちゃう笑顔が眩しい系先輩。自尊心の高い猫系でありながら人懐こい笑顔がちょっと淫らな後輩。実に滾る……」
「心底どうでもいい分析ですね」
わたしが正直な感想を言うと、フェンツァイさんは気込め石で情熱を分解し、
「ンンッ! しかし逆転はいかん! いかんがその可能性の向こうに宇宙の真理が隠されているやもしれん! なればこそ、今日はこれで失礼させていただこう! メイちゃん、またねーん」
テンション高めな笑顔でお辞儀し、フェンツァイさんはシュパッと姿を消しました。筋肉。おそらくですが、またあっち方面の新作がこの世に誕生するのでしょう。
「あの、ソーさん。それで相談なんですが……」
わたしが調理台に視線を戻すと、ツェンテさんはまるで捨て猫みたいな表情で、
「俺に、その、風呂の入り方を教えていただけないでしょうか」
「風呂お? なんでさ、普通に入りゃいいじゃねえの」
「その普通が分からないんです。トーシンの子が来た時も、俺が湯を用意したのですが……。あれでよかったのかどうかも、俺には分からなくて……。あと……」
ツェンテさんは手を動かしながら、泣きそうなお顔で、
「うちの小さい子達が俺のこと、臭いからイヤだって、急に言い出して……」
今年度のアルカディメイアにはお料理にお風呂、生活の変化が急激に訪れたのです。多くの男性はツェンテさんのように取り残されてしまったに違いありません。
「ああああああー……。なんか申し訳ないですう……」
「なんで姫さんが謝んのさ」
頭を抱えてごめんなさいするわたしに、ソーナお兄さんは不思議顔。ツェンテさんは今にも泣いてしまいそうな小さな声で、
「油とか髪の手入れとか、保湿っていうんですか? 肌の手入れの方も、俺にはよく分からなくて……」
「へー、他の島じゃやんねえのか。つってもよお、俺だって婆ちゃんの肩揉んだりするくれえだぞ?」
「髪に塗る油の使い方だけでもいいので」
「そんくらいならまあ。肉の方は石で調子見るコツもあるしなあ」
言いながらソーナお兄さんはひと品完成させ、
「お待たせさん! たっぷり食ってくれな!」
と調理台前に並ぶお姉さまに大きなお皿を渡しました。そして、
「おいじゃあ、これ終えたらひとっ風呂浴びに行くかあ」
「おなしゃっすー……」
ソーナお兄さんの承諾に、ツェンテさんはほんの少しだけ明るさを取り戻したようです。フェンツァイさんではありませんが、ソーナお兄さんの包容力はグンバツであると思います。
「風呂って言や、そうだ」
そこでソーナお兄さんは何かを思い出したのか、わたしに顔を向け、
「姫さん。ディーヴァラーナの風呂って今どうなってんだ?」
「ディーヴァラーナのお風呂、ですか?」
「ああ、あれにゃスナさんの細工が使われてんだ。作ってもう十年経っちまったし、ディーヴァラーナにゃ風作る奴は少なそうだし、心配でよお。俺あ男だろ? 俺が見に行く訳にゃいかねえしな」
ソーナおにいさんの言う十年前。思い当たることがあります。ディーヴァラーナの復興はフハハさんが行ったはず。
であれば、そこに五海候の方々が関わっていても不思議はありません。しかも、スナおじさまは女性の社会に対する理解が他の男性より深かった人。風込め石がお風呂にどう役立つのか分かりませんが、何か生活支援をしていたのでしょう。
「分かりました。聞いてみます」
「おお、ありがとなあ」
わたしがディーヴァラーナのことを頭の中でメモしていると、
「ちょっ、まだダメなの! おとなしくしてて!」
列の一番前、右手に大きなお皿を、左手に小さな女の子を抱いた女性が何やら慌て始めました。服装からしてアーティナの女性だと思いますが、どうやら辛抱たまらんなお子さんが食べ物を欲しがっているようです。
その様子を前に、ソーナお兄さんは、はっはと笑い、
「ちびちゃんにゃこっちのがよさそうだ」
手掴みで食べられる揚げ魚などを瞬時に作り、その小さなお手々に握らせてあげました。小さな女の子はソーナお兄さんからどんどん食べ物を受け取り、ザクザク咀嚼し即完食。満足そうにお顔をとろんとさせ、速攻で眠ってしまいました。
母親の女性はその寝顔を見て、ありえない、とかぶりを振り、
「すみません、この子ったら……」
「いいよお。食ったら寝る、そうこなくっちゃあな」
ソーナお兄さんは小さな女の子の手や口元の油を気込め石で分解し、それから大きな手でその子の頭をよしよし撫でて、
「大丈夫だ。安心して眠ってくれ」
「ええ、ありがとうございます」
お礼を言い、母親の学生さんは笑顔で去っていきました。
そのやりとりを見て、列に並ぶお姉さまたちに浮かぶ信頼と安心の笑み。わたしは講義棟前広場をもう一度見渡し、ソーナお兄さんがやりたかったことの結果を、改めて確認しました。
雲ひとつない青空の下。心温まる空気の中、思い思いに食事をする人々の姿。
きっと、これがわたしたちの自然な形。
「フッ、男性同士で風呂の指南とな?」
背後にまたあの人の気配がしますが、わたしは振り向きません。
「滾る。実に滾る……」
ええ、振り向きませんとも。
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