第8話 蔵主さんはいつも眠い(2)

 そんな訳で、あっという間に二週間が過ぎました。


 夕立が上がり、お風呂を済ませ、やってきましたお夕食の時間。お母さまのお部屋に移動したわたしは、沢山のお料理を前に正座待機状態。


 お母さまの隣には胡坐をかいたエイシオノーおばあさん。エイシオノーおばあさんはあの日から毎日毎食、一緒に食事をするようになったのです。確か村にはお孫さんがいたはずなのですが、いいんでしょうかご家族そっちのけで……。


 それはともかく、お待ちかね。本日のご馳走です。


「さあさ、たっぷり召し上がってくださいな!」

「はぁい!」


 エイシオノーおばあさんがずずいと差し出す大きなお皿、その上に盛られた山盛りの魚肉。


 そう、お屋敷の主食はお刺し身になったのです。


 お刺し身といっても頭の中の記憶のものとはちょっと違っていて、薄く切ったお魚の身にさらーっと油をかけ、お山で採ってきた香草と塩を振りかけたカルパッチョのようなもの。


 頭の中の記憶にある完成度の高い料理とは比べものにならない拙いものですが、今のわたしにはもう充分ご馳走なのです。


「いただきますです!」


 わたしはぺこりとお辞儀し、お箸を装備。ぱくっとお刺し身にかぶりつきました。


 むちっとした歯ごたえのあと、トゥルーッと舌の上でお肉がほどけ、いい感じの塩加減のいい感じのうまあじが口いっぱいに広がります。


 するりとした喉越しに、最の高な後味。もう全っ然生臭くありません。やはり鮮度、獲ってすぐはやはり偉大なのです。


「ううっ、おいしいです……」

「そうですねえ。やっぱりこの食べ方が一番肌に、いや舌に合うようですさね」


 お刺し身を飲み込んだエイシオノーおばあさんが、うんうん頷き同意してくれました。


 わたしたちは既に食事を載せるお膳を使っていません。大きな大きなお皿を床に直置きし、その上にズゥラーッと並ぶ色とりどりのお刺し身の山をみんなで頂いています。お花のように盛り付けられたお刺し身は、とってもきれいでおいしそうです。


 お刺し身にかけられた油ですが、実はこれお風呂で体を洗うのに使っていた油なのです。


 オリーブのような小さな果実を絞って採る油だそうで、とても香りが高く、お肌にもよいのです。肉に油をかける、最初は信じられないといった表情のお母さまでしたが、一度口にした後は手の平高速回転。


「お食べなさい。どんどんお食べなさい」


 お母さまはそう言って、一度に何枚ものお刺し身を箸で掴み、口いっぱいに頬張りました。わたしも真似して頬張ります、と言っても三切れが限界なのですけれど。


 口にお魚を詰め込めるだけ詰め込んだわたしは、この世界の人間のおいしいという言葉、その感覚がやっと分かってきました。


 くちびる、上あご、下あご、ほほ、舌、歯、歯ぐき。


 色んな場所を色んな情報が刺激し、噛む動きに合わせ口の中をくるくる回る新鮮なお肉。バジルのような草の風味がふわっとそれを包み込み、その香りがすーっと鼻に抜けて。その全てを喉で飲み込み、胃の中へ落とすこの満足感。


 肌に覆われていない口内という、内臓に近い器官で他の生き物の肉そのものを感じる。それがたまらなく楽しい、それがおいしいのです。


「あふぁー……」


 くちびるに付いた油を舐め、わたしは蕩けそうになりました。滑らかな油の舌触りと、溶け切っていない塩のザラッとした感触。ううっ、お塩は本当においしいです……。


 お刺し身は主食。主食と言ったのは、わたしたちのお食事にも一応の様式が生まれたのです。主食となる魚肉、お吸い物のお椀、そして箸休め。その三つを用意するのが、わたしたちのお食事の形となりました。


 そんな訳で、お次はお吸い物です。わたしはお椀に口を付け、すすっと飲み込んで、


「ふわぁー……」


 やっぱりお出汁は偉いものです。口の中に残ったお刺し身の油をさっと洗い流し、スッキリさせてくれて。冷たいお刺し身のあとに飲む温かい液体が、最高にありがたいです。


 今日のお椀は貝のお吸い物。


 エイシオノーおばあさんの出汁に対しての情熱は凄まじく、これこそ生き物の、その本質の味なんですと、何度も力説するほどでした。


 頭の中の記憶にある和食という文化がしばしば引き算として例えられるように、エイシオノーおばあさんはお料理を味の抽出作業であると受け取ったのかもしれません。


 出汁というのはお魚のアラでとるもの、お母さまにはその認識がもう身に付いてしまっているのですが、エイシオノーおばあさんはそこから更に踏み込む創意がありました。今食べている貝のお吸い物がその作例です。


 これは乾燥させた昆布のような海草で出汁をとり、貝の身を入れ煮ただけの、シンプルなもの。


 つみれに使うお魚と出汁に使うお魚を別のものにすると、二つの味が重なってしまう。エイシオノーおばあさんは試行の段階で組み合わせに疑問を持ったのだとか。


 基盤となる味を決め、なるべく他の素材を足すことをしない。出汁をとる部位を丁寧に洗い、雑味を落とし、素材の味を洗練させる。この短い期間で、エイシオノーおばあさんは既に気付きを得ているようです。


 その気付きはこの世界に生きる人間ならではの、独特なアレンジに繋がりました。


 この貝のお吸い物ですが、わたしは頭の中の記憶通り、殻を付けたまま煮るようお願いしたのです。ところが、


『味がしませんね』

『殻にまで味が染み込まなかったようですねえ。歯ごたえは、まあ、ありますがね』


 と、試作の段階で殻をバリボリ食べて判断したお二人は、次から貝の身だけを煮るようにしたのです。こういった過程の積み重ねが、わたしたちの食事を形式化していく要素なのだと感じました。


 さて、お次はその具をいただきます。わたしは貝の身を箸でつまみ、口の中へ。


 むにむに噛むとその度にふわっとお出汁が染み出してきて、ああー、全身これ味の塊じゃないですか。反則です。これはもう反則なやつです。


 ふー、とひと心地ついて、最後のひと品。


 それは小さなお皿の上に並べられた、貝の切り身。頭の中の記憶のおせち料理として親しまれている、蒸しアワビの冷製です。


 といってもアワビのような貝であって、アワビではないのかもしれませんが、その貝をお酒で蒸したもの。ゼフィリアにもお酒はあるのです。お母さまがたまに飲むので、その存在は知っていたのです。


 どうやらサトウキビのような植物から作るお酒のようで、頭の中の記憶でいうラム酒に近いものかと。熟成させる過程で木を入れるとかで、色はきちんと琥珀色をしていました。


「ほふぁー……」


 貝の切り身を食べた途端、わたしの口から漏れ出る感嘆の息。アルコール成分はちゃんと飛んでいるようで、肉のものとは違った甘さが貝の身からじゅわっと、いえ、びゅしゅっと噴出してきました。


 お吸い物の貝とはまた違ったうまあじで。頬と歯茎の間や口の隅にいつまでも残っているような、余韻が違うのです。


 こりこりとした歯ごたえと、噛む度に染み出す味が楽しくて。あああいつまでも噛んでいたいです。


「貝ってのは骨無しで、歯ごたえの無い生き物だと思ってましたが、だからなのかねえ。こいつは本当によく味を吸って閉じ込めてくれますよ」


 ニコニコ笑顔で貝を噛むエイシオノーおばあさんに、わたしももぐもぐしながら頷き、


「そうですねえ。油で炒めてみてもよさそうです」

「何だって? お嬢様?」


 その発案に動きを止めるエイシオノーおばあさん。わたしはまだこの調理法を伝えていなかったことを思い出し、焦り気味になって、


「ええと、草の香りを付けた油で炒めたら、また風味が変わってよさそうだなー、と……」


 というのも、この島にはわさびがあったのですが、ニンニクに近い植物がなさそうなのです。頭の中の記憶的に、ニンニクがあればもっと香ばしいお料理に挑戦できるのですが……。


「お嬢様! それを先に言ってくださいよ!」

「記録です。即、記録なさい」

「だだ、だいじょうぶです。ちゃんと憶えておきますので……!」


 わたしは膝の上にお椀を乗せ、澄んだ液体に視線を落としました。


 ううっ、嬉しいです。お二人がこんなにお料理にハマり込んでくれるなんて……。あの日もわたし一人で抱え込まず、エイシオノーおばあさんにすぐ声を掛けるべきだったのです。


 肉が弱いことを言い訳に、人と距離を取っていたのはわたしの方。これからは俯かずに真っ直ぐ人と向き合き、きちんとお話せねばです。


 エイシオノーおばあさんは大きな手で小さなお箸を持ったまま、


「お嬢様、まだまだですよ! お嬢様にゃ全部吐き出してもらうんですから! ねえ、ヘクティナレイア様!」

「その通りです。ああ、エイシオノー、私のことはレイアで構いません。都度呼ぶ手間が省けます」

「ヘク……、レイア様……!」


 お刺身を食べる手を止め、感極まったように瞳をウルウルさせました。


 お母さまが言ったのは、この世界での略称の法則。家族などの親しい間柄の者は名前の前部分を呼び、そうでない近しい者は名前の後ろ部分を呼ぶのです。


 だからお母さまはわたしのことを「アン」と呼び、そうでない人たちは「メイ」もしくは「メイア」と呼ぶ、という感じですね。


 守主であるお母さまは島の責任者の一人。なので特定の個人を特別扱いしないよう、海守の人たちとは距離を取っていたようなのです。


 つまりエイシオノーおばあさんは特例中の特例。略称で呼ぶことを許されたエイシオノーおばあさんが感動するのも納得です。


 テンション上がったエイシオノーおばあさんは、がばっとお刺し身を頬張り、


「お嬢様、それじゃあ明日の貝は油で試してみましょうや!」

「は、はい、分かりました。心得ておきます」


 エイシオノーおばあさんは火を使った調理に余り乗り気でなかったのですが、やはりその好奇心は抑えられない様子。そのことに安心したわたしは、すすっとお椀をすすりました。


 ゆっくり賑やかに流れる、夕食の時間。

 この世界の人間らしい、豪快な食事風景。


 しばらくして、貝を噛むだけの単機能生物に成り下がっていたお母さまが、はたと何かを思い出したように、


「貝の味に夢中で忘れるところでした。エイシオノー、スナお兄様から連絡です。明日昼過ぎに蔵まで来るよう、とのことです」

「パリスナ様が? へえ……!」


 床に広げられた、新しい喜びの形。

 ふくよかな香りに包まれる、お母さまのお部屋。


 エイシオノーおばあさんはお椀を片手に、ニッコリ笑って、


「さあ、面白くなってまいりましたよ!」


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