第121話 夕立が上がったら

「お世話になりました、ホウホウ殿……」


 ゼフィリアの海屋敷。

 日が傾き始めた夕方の私室。


 全てが橙色に染まり、その陰影を濃くする時間。


 わたしは気込め石で出来た白く長い箱に向かい、頭を下げました。次に頭を上げ、胸巻に挟んであった石を取り出し、箱の上に。


「イーリアレ、これもお願いします」

「しかし、ひめさま」

「いいのです、わたしはもうこの技を習得しましたから。これからは島の資料として役立てるよう、ディナお姉さまに伝えてください」

「……はい、ひめさま」


 イーリアレは片腕に荷物を抱え、すだれをめくり修練場へ。


 箱の中身はホウホウ殿に頂いた白い着物。この世界の人間は物を遺すことをあまりしないのですが、これだけはどうしてもと思い、蔵に保管をお願いしたのです。


 イーリアレが石の階段を下り、小麦色の背中が消えるのを見届け、わたしは枕だけの敷布団に這い戻りました。どうにか体を横たえ、右手で帯から石を取り出し最終確認。


 その石は縦に長いひし形をした、紫色の小さな石。


 わたしは傷跡だらけの右手を胸の上に置き、ゆっくり息を吸って、


「はふう……」


 思い出すのは、昨晩入ったお風呂の感覚。


 イーリアレに無理を言って、久しぶりにお風呂に入れてもらったのです。清潔にするだけなら水込め石で洗浄すれば事足りますが、やはり温かいお湯に浸かるのは何ものにも代えがたいベッカクな気持ちよさでした。


 わたしがお部屋に残る柑橘系の香りに包まれ、ふわふわとした気分でいると、修練場に人の気配を感じました。


「よかった、用意しておいて……」


 枕もとには、緑色の風込め石がふたつ。

 独り言を呟き、目を閉じる。


 ぺたぺたと石畳を歩き、こちらに向かってくる人の足音。縁側の木板が軋み、その足音が近付き、立ち止まる。


 わたしは目を開け、すだれの向こうに立つ人影へ、


「どうぞ、ナーダさん……」







「で? 結局初めて会った時から重体だったってわけ?」

「そう、みたいです……」


 夕陽の逆光を背に、枕もとに正座するその女性。


 ツーサイドアップにした金髪と緑色の瞳。

 白い肌を覆う面積を最小限に抑えた胸巻と腰巻。

 肩から長い布を羽衣のように引っ掛けた、特徴的な服装。


 アーティナはリルウーダさまのご息女、セレナーダさん。


 わたしは怒ったようなお顔のナーダさんを見上げ、


「以後、島主同士の連絡に関してはディナお姉さま、カッサンディナさまに一任してあります」

「ええ、さっきお会いしてきたわ。イーリアレとは入れ違いになっちゃったわね」

「わたしを島主に選んだことはゼフィリアの失態ですが、そのことで世界に迷惑を、負担を掛けるつもりはありません」

「誰も気にしてないわよ、そんなこと。あなた個人の働きだけで、もう充分。おかげでこっちは随分楽が出来たわ」


 これは引き継ぎ。ナーダさんはこれからアーティナに戻り、島主のお役目を継ぐのです。


「でも、まだまだよ。あなたの草案がやっと芽吹いたとは言え、島毎で生産できる石の種類に偏りがある限り、完全自給自足は叶わない」

「その偏りを均すことは不可能です。そのことで、わたしたちが生物としての限界を超える必要はありません。相互間の補助はそのための存続機能、ひいお爺さまはそれを体現なさっていました」

「そうね、その通りだわ」


 ナーダさんは金色のまつ毛を伏せ、


「それで、あなたはその道を継ぐってわけ?」

「はい」


 ナーダさんが見下ろす、わたしの身体。


 肩口まで伸びた金髪と青い瞳。

 床ずれで赤黒くまだらになった白い肌。

 傷跡だらけの両腕と、ガリガリに痩せ細った両の足。


 ゼフィリアの胸巻と長い腰巻を身に付けた、今のわたし。


「あの時とは立場が逆ね」


 夕陽の光射す、赤い部屋。

 ただ時間だけが過ぎていく、何もない空間。


「ふっ……。ぐっ……」


 時が経つにつれ、荒くなっていく呼吸。かちかちと歯の根が合わず、震え始めたわたしの身体。抑えていた感情が吐き出るように、言葉が漏れる。


「恐いのです……」


 胸の上、かなめ石をぎゅっと握る、わたしの右手。寝たきりになってから、この痛みが体に住み着いてからずっと隠してきた、わたしの本心。


「失敗するかもしれない。これで終わりなのかもしれない。そう思うと……」

「メイ……」


 極紫の力でわたしの心臓を治す。でもそれは頭の中の記憶の医療技術のように、多くの人と時間によって確立されたまともなものではありません。


 大丈夫。


 わたしにそう言ってくれる人は、誰もいないのです。


 あ、ジュッシーお姉さまのあれは別枠で。


 怯え震えるわたしを前に、ナーダさんはゆっくりと口を開き、


「気休めなんて言わないわよ。あなたにどうしようもないことを、私達がどうにか出来る筈ないじゃない」

「ふぇ、あ、ひゃい」


 キパッと言い切るその物言いに、わたしはぐずぐずになった鼻をずびっとすすりました。ナーダさんは何を今更と呆れた様子で、


「私達に出来ることなんてひとつしかないもの」


 そして、膝立ちになって両手を伸ばし、わたしの半身を起こしました。ナーダさんは背中に手を回し、髪に顔を埋め、


 わたしを優しく抱きしめて、


「だから、アン。あなたを待つわ……」


 肌で感じる人の温もり、心臓の鼓動。わたしの呼吸が落ち着き、身体の震えが止まると、ナーダさんは体を離しました。そして、わたしの髪をかきあげ、額に口付けをすると、


「次は真っ先に会いに来なさい」

「はい、約束します。セレナお姉さま」


 その優しい微笑みに、わたしは笑い返しました。


 お母さまそっくりのセレナお姉さま。でも、その笑顔はやっぱり全然違うもの。この人は遠い血を分けた、わたしのお姉さま。


 体を横たえられたわたしは、枕もとの石をひとつセレナお姉さまによぼよぼと渡し、


「片道ですが、遠翔けの石です」

「ありがとう、使わせてもらうわね」


 セレナお姉さまは立ち上がると、すだれをめくり颯爽と外へ。修練場の中心まで歩き、石を起動。そのまま振り返らず、風を纏い空に消えていきました。


 ゼフィリアはアーティナを姉妹とし、礼を尽くし、共に歩む。セレナお姉さまと、あの島の人たちと交わした約束。


「はい、きっと……」


 いつかまた出会う、そのために。


 深く深く息を吸う。全身に染み渡る、この世界の風。傷跡だらけの右手の指、微かに漏れ出る紫色の光。


 ぽつぽつと降り始めた雨の音。

 厚い雨雲が通り過ぎる、薄暗い天気。


 わたしは枕もとに置いてあった音飛び石に顔を向け、


「盗み聞きはズルイですよ。テーゼちゃん……」







『どうして、分かったと……?』


 ばたばたと石畳を打つ、夕立の音。

 ひんやりとした空気を纏い始める、島の風。


『どうして……』


 雨音に混じり、消え入りそうなテーゼちゃんの声。わたしは音飛び石から天井に顔を向け、


「テーゼちゃんが今いるのは、ホロデンシュタック領の第二図書蔵、資料棟ですね?」

『どうして、分かったと……?』

「テーゼちゃん。そこを調べても、わたしを治す方法は出てきませんよ?」

『どうして、そんなこと言うと……?』


 通話先の空間把握。


 その原理は石作りの技としてはとても基本的なもの。わたしは音飛び石の機能にばかり囚われ、あることを失念していたのです。


 そう、音飛び石も風込め石。


 石の感覚拡張能力を用いて音波と反射を計測し、石の向こう側の環境を測るやり方。リルウーダさまが使っていたのはこれだったのです。


 テーゼちゃんはぐすぐすと泣き声の混じるか細い声で、


『どうして、言ってくれなかったと……?』


 ああ、と思う。


 シェンスンさまですね、わたしのことをテーゼちゃんに話してしまったのは。あの方はああ見えて、とても情に脆い人だから。


『今、ヌイちゃんば飛んでったばい。そんなこつさせん、メイちゃんの思い通りになんか、絶対させんね……』

「届け出のない無断飛行はいただけませんね」

『ヌイちゃん、怒っとったばい。ヌイちゃんば怒ると本気で怖かよ』

「それは、怖いですね……」


 瓦から落ちる雨垂れの音。わたしはその音に負けないよう、声を振り絞って、


「テーゼちゃん、以前ナノ先生とお話していた専門機関ですが、無事設立準備に入りました。そこに所属すれば、アルカディメイアでの就学を延長できます」


 テーゼちゃんは人に押し付けられることに嫌気が差しただけで、研究自体が嫌いな訳ではないのです。ゆっくり時間を掛けて学問に取り組める場所さえあれば、本当にやりたいことを見付けられるはず。


 それに、テーゼちゃんはとても頭が良くて、すてきな女の子だから。


「あそこなら、きっとテーゼちゃんの居場所が出来る。テーゼちゃんなら、きっと沢山お友達が出来ますよ」

『そんなん、そんなんいらんばい。ボクはメイちゃんがいればそれで、それだけでよかったとに……』


 わたしがテーゼちゃんとヌイちゃんに連絡をしなかったのは、こんな状態になってしまったわたしを憐れんで欲しくなかったから。肉の強さなど関係なく、人として対等でありたかったから。


 とてもみじめで、くだらない意地。


『嫌いばい……。メイちゃんなんか、大っ嫌いばい……』

「ありがとう、テーゼちゃん……」


 ありがとう。


 生まれて初めての、わたしのお友達。


 わたしはその言葉を最後に通信を切り、音飛び石を消去しました。


 雨音が反響する、木の建物。


 板間にすだれ、武家屋敷めいた平屋の木造建築。頭の中の記憶の和風なものとは細部の作りがちょっと違う、わたしの生家。


 夕立が上がったら、わたしは生まれ育ったこの海屋敷を離れねばならないのです。


 体に不具合を抱えたわたしがいては、みなが安心して暮らせないから。わたしの身体自体が、健康な人にとっての恐れになってしまうから。


 島のみんなに心配を掛けるようでは、島主失格。島主として、島のみんなが安心して暮らせるように。


 すだれを通り抜けて入ってくる、湿った空気。

 石畳を叩く、強い雨。


 そう、夕立が上がったら……。


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