第120話 もしも魂があるのなら

 熱を運び始めた午前の風。

 すだれの外、元気に輝く南海の太陽。


 海屋敷の私室。本を朗読する声とページをめくる音だけが積み重なる、穏やかな時間。わたしはお布団の上、半身を起こした姿勢で本を持ち、またページをめくり、


「そこで、けほっ、うにゅっ……」

「ひめさま」

「ありがとう。大、丈夫です、イーリアレ」


 咳込むわたしの背中を、イーリアレがさすってくれました。体を水平にしていると息が詰まってしまうので、上半身を起こしている方が楽なのです。


 片手を当てて確認する、自分の身体。お腹の側面から背中に続く、床ずれの跡。赤黒く変色し、まだらになった白い肌。


 わたしはゆっくり息を吸い、本を持ち直し、


「続きを読みますね」

「はい、ひめさま」


 声に出して、文字を追う。


 今、わたしが読んでいるのはシェンスンさまにいただいた物語。プログラムを組む時間の合間を縫い、わたしとイーリアレはこのお話を読み進めているのです。


 ナノ先生がアルカディメイアにお戻りになって数日。寝ても覚めてもプログラムを組む毎日。夢と現実、次第に曖昧になっていく境界の時間。その中で、この本を読んでいる時だけが、わたしに生を実感させてくれました。


 知らないこと、体験したことのない情報を言葉として取り込み、違う形で想像する。その行動が、わたしという連続性を保つためのしおり、楔になっていたのだと思います。


「……そうして二羽は、再び空に羽ばたくのでした」


 その一文を最後に閉じられる、和綴じに近い装丁の本。組み紐の色は青と紫。わたしは、ほう、とため息を吐き、白い背表紙をそっと撫で、


「すてきなお話でした……」


 このお話は冒険ものになるのでしょうか。内容は二羽の鳥が安住の地を求め、色々な形の空を旅するお話でした。


 わたしが望んだ日常ものではありませんでしたが、山あり谷あり盛り沢山な展開で、もう大満足。語り手による明確なメッセージは殆ど無く、自然描写を投影的に使っていたりと、大人でも楽しめる作りであるように思えます。


 わたしがお話の余韻に浸りうっとりしていると、枕もとで正座しているイーリアレが微妙な雰囲気を放ち始めました。わたしはちょっとそのことが気になって、


「イーリアレは気に入りませんでしたか?」

「いいえ」


 イーリアレは質問に答え、そのままフリーズしてしまいました。ぼーっとしているように見えますが、イーリアレは頭の中で言葉を練っているだけなのです。


 やがて、考えがまとまったのか、


「よくわかりませんが、このほんをよんでいると、あのおねえさまにはなしかけられているかんじがするのです」

「ああ……」


 背表紙をめくり戻る、最後のページ。

 傷跡だらけの指でなぞる、文字の列。

 そこに記された作者の名前。


『著者、タイロンのフェンツァイ』


 この物語がくれた、あの実感。それはまるで、夢ではないこの現実に、フェンツァイさんが引き留めてくれたような……。


 ええ、だから、


「この物語には、魂が宿っているのかもしれませんね」

「ひめさま、たましいとはどのようなものでしょうか?」

「ええええー、と……」


 自分で言っておいて、わたしは言葉に詰まりました。


 この世界の人間には死後の世界や精神エネルギーや、スピリチュアルな何のかんのが理解できないのです。筋肉マンセーで唯物論なこの世界の人間には、受け入れにくい概念、だと? 思うのです?


「えええええー……、と……」


 わたしはイーリアレの疑問に答えるため、必死になって言葉を選び、


「その人がもう亡くなってしまっていても、その存在を強く感じることが出来る。心のこもった媒体のようなものでしょうか」

「なるほど」


 イーリアレはこっくり頷き、そしていつも通りの無表情で、


「まったくわかりません」

「ですよねー……」







「けほっ、こほっ、うにゅ……」

「ひめさま」

「大丈夫です、イーリアレ……」


 昼食を終えた午後の時間。


 フェンツァイさんの物語を読み終え、頑張り成分を補給したわたしは、引き続きプログラムを組み始めました。


 お部屋の中空には大量の気込め石。わたしは横になりながら、胸の上に浮かんだかなめ石を操作します。クーさんに肺の血を除去してもらいましたが、そもそもの原因であるわたしの心臓がいつまでもつか分からない以上、急がねばなりません。


 あと少し。


 ですが、このプログラムはわたしの体を治すことだけが目的ではありません。それだけでは足りないのです。そう、島民の生活と文化を支えずして、何が島主でしょう。


 ディーヴァラーナの空中庭園の時と同じ、この仕事も完璧にやり遂げねばならないのです。


 なのですが……、


「あのう、何かご用でしょうか?」


 わたしは記述を進めながら並列思考。石の浮かぶ宙に向かい話しかけました。その言葉の行き先は部屋の端、すだれと床の隙間からぴょこんとはみ出た三つのかわいい小さなお顔。


 銀髪に青い瞳。小麦色の肌が超健康的な、ゼフィリアの小さな子供たち。


 うーん、仰向け状態のわたしからは見えないと思っていたのでしょう。あの子たちはあれで忍んでいるつもりなのです。


 わたしが気込め石の干渉能力ですだれを上げると、女の子たちは縁側をころころ転がってこちらに移動してきました。どうしましょう。お行儀とか注意した方がよいのでしょうか。


 女の子三人組はイーリアレの背後、縁側で寝そべったまま、


「メイ様、よく分かりません!」

「ふえ? あ、はい」


 しょんなこと言われても、わたしにもよく分かりません。この子たちはみなわたしが口伝を施した子で、生活用石作りに関してはもう何も困っていない筈なのです。


 であれば、この世界の女性が考えることは一つしかありません。


「もしかして、わたしと喧嘩がしたいのですか?」

「はい、姉さん達がメイ様との喧嘩はとっても面白いって。でも……」


 女の子たちは木の床の上で手足をぱたぱたし始めました。まるで陸に打ち上げられたお魚さんです。


 なるほど、小さくても流石この世界の人間。そして流石ゼフィリアの女の子たちです。肉に関する感覚がとても鋭敏で、感心しました。


 わたしはもう、歩けなくなってしまったのです。


 寝たきりになって数週間。この二年半で付いた肉があっさり落ち、そればかりでなく、日に日に衰えていくようになったのです。


 この子たちはわたしと喧嘩がしたくとも、わたしの体が喧嘩に耐えられるものではないと分かってしまった。だから、この子たちはどうすればよいか分からなくなってしまったのです。


 えー、こんな簡単なことでお脳がショートしてしまう辺り、実にこの世界の人間らしいと言いましょうか……。


 わたしはかなめ石と気込め石を消去し、一時保存。掛布代わりの着物を脇にたたみ、


「イーリアレ、お願いします」

「はい、ひめさま」


 イーリアレはわたしの身体をひょいと抱き上げ、修練場へ。ぎらぎら光る石畳にわたしを下ろしました。女の子たちは当然秒で移動。筋肉。


 わたしは眩しい日差しにくらっとしながら、ちりちり焼ける石畳に正座し、


「どんな決まりで喧嘩しましょう?」

「でもでも、メイ様……」


 嬉し困ったしといった感じの、三者三様の女の子たち。そのお顔を前にわたしは納得し、


「あなたたちはどんな決まりでもわたしに勝てる。そう思っているのですね?」

「はぁい!」

「では、まだまだです」

「ふぁあい!?」


 ゼフィリア女子らしく自信マンマンもろ手を上げる女の子たちに、ふにゃりと笑いかけました。わたしは全力で首を傾げるはてな状態の女の子たちに、


「トーシンのジン・ヌイちゃんを知っていますね?」

「はい、去年遊びに来てくれました!」


 わたしが聞くと、女の子たちはヌイちゃんのことを超絶熱心に語ってくれました。沢山喧嘩をして、沢山遊んで、ヌイちゃんはゼフィリアの人たちにとても好かれたようで、ゼフィリアとトーシンの仲の良さを再確認できたように思います。


 ですがそのー、この子たちヌイちゃん好き過ぎのような……。こんなに慕われているなんて、ちょっと、というかかなり羨ましい、です……。


 それはともかく、


「ヌイちゃんはわたしと初めて会った時、わたしに喧嘩で勝つ想像が出来ないと言いました。つまり、あなたたちはまだまだなのです」


 三人組は引き続き分からない状態。わたしはその子たちを前に、ゆっくりはっきりとした口調で、


「大丈夫ですよ。よく分からないから、喧嘩をするのです」


 そう、お母さまやジュッシーお姉さまは何も間違っていないのです。わたしたちは筋肉だけの存在でも、言葉だけの存在でもありません。これがこの世界での、納得の伝え方なのです。


「安心してください、あなたたちはわたしに指一本触れることは出来ません。だから、あなたたちは全力で全力してくださいね」

「……はぁい! よく分かりませんが分かりました!」


 手加減無用。


 そのことだけは理解できたのか、女の子たちは元気にお返事。喧嘩の順番で揉めることなく、内一人が修練場の反対側へ。戦闘準備即完了。


「イーリアレ、見極め役をお願いします」

「はい、ひめさま」


 修練場の入り口、階段付近に立つ小さな女の子。その子の顔が歪み、裂けた口から覗く鋭利な犬歯。この世界の人間らしい、獰猛な笑顔。


 ええ、ここはゼフィリア。そうでなくてはいけません。


「さあ、始めましょう」


 わたしは胸の前、傷跡だらけの両手を構え、


「わたしは負けませんよ」


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