第111話 千風のヘクティナレイア(2)

 日の光の届かぬ海の底。

 この世界に生まれた、全ての人の行き着く場所。


 潮の終孔。

 海底の大墳墓。


「へえ、こんなことになってたとはな」


 三百年前の女性が作った、洋館めいた不気味な建築。そのエントラスを見回し、ディレンジットさんは感心したように言いました。


「あのうるせえ爺さまにゃ、この周辺はさらうなと言われてたんだが、こういうことかよ」

「フハハさんがこの場所の話をしたのですか?」


 わたしは運んできた荷物を石の床に下ろしながら、秘かに納得。やはりフハハさんはこの館のことを知っていたのです。


「ああ、どの道ここらにゃ用はねえがな。人の残骸ばっかで使える土が埋もれちまってる」


 天井に設えられた沢山の火込め石。シャンデリアのように連結された灯りが揺らす、石で作られた彫刻の影。その形を横目に、ディレンジットさんは言いました。


 わたしが風込め石で空間全体の空気清浄を行っていると、ディレンジットさんは、「へえ」「ほお」を繰り返し、奥の扉を抜けてその先に。この世界の男性らしい協調性皆無な行動ですが、今のわたしにとっては好都合。


 そう、わたしには目的があるのです。


 そのため、ここには一人で訪れました。ですから、イーリアレも連れてこなかったのです。そしてこのことに関し、この場所の主人に許しを貰うつもりはありません。


 わたしはディレンジットさんに続き、ホール奥まで歩きました。


 それから、纏いの中で一度小さく息を吸い、


「参ります」


 扉をくぐり、大空洞に足を踏み入れました。







 星の底まで続いていそうな、円筒形の巨大な縦穴。

 その円周に沿って作られた、膨大な数の石造階層。


 その中間層で、わたしの目的はあっけなく達成されました。


 気込め石で気配を探り、辿り着いたその階層。他の女性たちと同じように床に横たえられ、等間隔に並べられていた、わたしが求め探していたもの。


 それは、お母さまの遺体。


 ゼフィリアは翔屍体を生み出さないための慣習で生きる島。しかし、起き上がる時はどうしても起き上がってしまう。そしてその確率が最も高いのは、空を飛ぶ技術を身に付けたお母さまなのです。


 ですが、お母さまはここにいる。お母さまは起き上がらずに済んだのです。


「お母さま……」


 わたしは冷たい石の床に腰を下ろし、遺体の傍らに正座しました。


 サラサラストレートな金髪に、金のまつ毛。

 生前と全く変わらない、お母さまの姿形。


「お母さま、先日は取り乱してしまい、申し訳ありませんでした……」


 これは意味のない言葉。

 返事などある筈もない、無為な会話。


「手のかかる娘で、本当に申し訳ありませんでした……」


 わたしは体の前で手を重ね、ゆっくりはっきり、聞き取りやすいしっかりとした声で、


「石作りを覚えた今だから、お母さまのいないところで生活をしたことのある今だから分かります。着物にお布団、飲み水に食事。物質としてのわたしの構成要素は、全てお母さまによって形作られたものでした。お母さまのおかげで、わたしは何とかこの世界で生きていけるようになったのです」


 死してなお衰えを知らない、小麦色の強靭な筋肉。

 右腕に巻き付けられた、小さな赤い火込め石。


「お母さまは全力でした。わたしが石作りを覚えるまでの六年間、お母さまは全力でわたしを育ててくださいました。それだけではありません。海守を束ねる守主として、島を束ねる島主代理として。そしてこの世界の女性として、お母さまは全力で生き抜きました」


 この人はこの世界でただ一人、わたしをアンと呼び、抱きしめてくれた人。


 もっと沢山話しておけばよかった。喧嘩だってそう。お母さまが喜ぶなら、もっと沢山しておけばよかった。


「今、わたしがここに生きていることが、お母さまの命の証明です」


 もっとずっとお母さまの娘でいさせてください。だって、わたしはまだ子供で、寂しいのです。


「だから、わたしもお母さまのように、全力で生きたいと思います」


 ねえ、お願いです。


 お願いだから起き上がって。


 そして、わたしを抱きしめて。


 もう一度だけ、わたしの名前を呼んでください。


「大好きです……」


 声を震わせないように、涙を零さないように。


 わたしは石の床に手を突き、頭を下げ、


「ありがとうございました。そして、お休みなさい……。千風のヘクティナレイアさま……」







 大空洞はエントランスの対岸。

 洞窟の先にある小さなお部屋。


 わたしがその場所に向かうと、ディレンジットさんは既に足を踏み入れていました。


 小部屋の中心には糸で吊るされた男性の屍体。

 そして、それに縋りつく小さな女の子。


 床まで伸びた紫の髪。

 真っ白な肌に金色の瞳。

 細い胸巻と裾の長いダボダボの腰巻。


 クルキナファソのヒンラーキさん。


 屍体の膝元には銀色の石と、わたしが作った白い気込め石。気込め石から流れる弦の調べに合わせ、屍体が口を動かす、異様な光景。


 その姿を前に、ディレンジットさんはわたしを振り返らず、


「三百年前の爺さまが、まさかこんなとこに縛り付けられてたとはな……」


 ぽつりと言ったあとに身を屈め、先代銀海の石に指を置きました。すると、銀の石がぼろぼろと崩れ、空気に消えて消滅してしまいました。


 次に、ディレンジットさんは身を起こし、ブンッと左手を筋肉。オルグノットさまが吊るされていた糸がぷつりと千切れ、その身がどさりと石の床にくず折れました。


 ディレンジットさんはオルグノットさまの遺体を丁寧に横たわらせると、


「こいつも、もういいだろう」


 銀の石にしたのと同じように、気込め石に指を置き、石を消滅させました。当然、オルグノットさまは物言わぬただの屍に。その途端、


「あうあ! うあ、あうあああ!」


 横たわる遺体を抱きしめ、ヒンラーキさんが奇声を上げはじめました。ディレンジットさんはそんなヒンラーキさんを左手でベリッと引っぺがし、しかめたお顔を更にしかめさせ、


「もう、休ませてやってくれや。アンタがゆっくり眠りてえってんなら、それは俺達がくれてやるからよ……」


 右手に銀色の石を作り、ヒンラーキさんに向けてかざして見せました。ヒンラーキさんはその石を不思議そうな目で見上げ、


「オルグ、ノット……?」

「ちげえよ、婆さん。俺の名はディレンジットだ」

「ディ、ディ……?」


 落ち着いたと見たのか、ディレンジットさんはヒンラーキさんを床にリリース。


 わたしは右手にかなめ石を作り、水込め石、はがね石をヒンラーキさんに向けて射出。洗浄、散髪。仕上がったのは、目元ぱっちりな紫髪の女の子。


 これはお礼。


 お母さまの遺体を運んでくれたことに対する、最低限の感謝の証。


 そして、ようやく分かりました。


 ヒンラーキさんはローゼンロールさまの至紅化、フハハさんの極紫化と同じ、石で自分自身の情報を書き換えた人間だったのです。その身に備えた能力は、わたしのかなめ石に限りなく近いもの。


 わたしは他人の石を操る力を石として外部に作りましたが、ヒンラーキさんは他人の石を自分の脳で操るため、脳の構造を石で上書きし、変質させてしまった。髪色が変わったのはおそらくその影響でしょう。


 もし、わたしが極紫の命石の能力を石として外部に作らず、自らの脳で直接操れるようにプログラムを組んでいたら、おそらくヒンラーキさんと同じ状態になっていたのだと思います。


 一歩間違えれば、わたしとテーゼちゃんもこうなっていたかもしれない。わたしとテーゼちゃんは、ただ運が良かっただけに過ぎないのです。


「ほら、クルキナファソの婆さんよ」


 ディレンジットさんは片手でひょいとヒンラーキさんを抱き上げ、くるりと回れ右。小部屋から石の廊下に向かいます。わたしはその後をちょこちょこ付いて歩きながら、


「あの、ディレンジットさん。ヒンラーキさんを老人扱いしないほうがいいと思うのです」

「あ?」


 わたしたち女性は望んだタイミングで老いを止められる。それでは、老いを止めた人は精神的な部分だけが老化していくのでしょうか? 肉体でなく心の老い、その定義は難しいもので、わたしの考えは違います。


 肉体と精神は連動するもの。だから、心だけお婆ちゃんになる筈がないのです。


 老いを止めなかったシオノーおばあさんと、老いを止めたリルウーダさまの老人としての精神構造は、明らかに違うものでした。お二人の近くで過ごしたわたしには分かるのです。


 更に、ヒンラーキさんの精神状態異常はおそらく男性の石を切り離した時の反動の影響。石と肉体は双方間。その膨大な情報量を脳で直接受け取ってしまったら、自我が崩壊してしまっても不思議はありません。


 加えて致命的なのが、三百年という長い経年。周囲との時間のズレを無理に認識させようとすれば、既にひびの入ったヒンラーキさんの心がどうなってしまうか、見当もつきません。


 何より、今はこの有様ですが、当時のこの人の動機がまともなものであったという保証は何処にもありません。わたしはヒンラーキさんの人格を一切信用してはいないのです。


 人殺しは相手の全てを自分のものとする、至高の所有表現。頭の中の記憶にそういった解釈があったように思いますが、残念ながら、わたしには理解できそうもありません。


「なるほどな。だとよ、嬢ちゃん」

「ディディ……」


 ディレンジットさんがヒンラーキさんの体を揺らすと、ヒンラーキさんはディレンジットさんの心臓の音を確かめるように、その白い頬を寄せました。


 トンネルのような長い廊下を抜け、大空洞の外縁を回り、わたしたちはエントランスに戻ってきました。ホールの中心まで来たディレンジットさんは立ち止まり、わたしの意図を知ってか知らずか、


「アンタの方は、もういいのか?」

「ええ、今日はありがとうございました。ディレンジットさん」

「そうかよ」


 やはり、察しのよい人です。


 わたしは立ち止まったディレンジットさんを追い越し、玄関口に向かいながら、


「ディレンジットさんにひとつお願いが。たまにで構いません、ここの様子を見に来て欲しいのです。勿論、陸からの支援物資は欠かさないよう、こちらも足を運びます」


 左手で石を作成、運び込んだ瓶の上に置きました。


 わたしが用意したのは空気清浄用の風込め石、生活用の水込め石、身だしなみ用のはがね石に、着物とお布団用の気込め石。そして、醤にお酒、調味料。ディレンジットさんの好きな香水もあります。


 わたしのお願いに、ディレンジットさんはもんの凄いイヤそうにお顔を歪ませ、


「うぜえな、何だって俺に言いやがる」

「ディレンジットさんは分別がありそうな人だったので」

「ねえよ、クソが」


 それだけではありません。


 先ほどの会話で確信を得ましたが、ディレンジットさんがフハハさんに言い付けられた仕事というのは、陸を作る素材を海底から探し集めてくることだったのです。


 そして、その資源はもう枯渇してしまった。


 ディレンジットさんが至銀のさだめ石を作れるようになってから四年。強大な力を持つこの人が探して、あれだけしか集められなかったのです。この星の資源はとうに限界。同じ手段で陸を作ろうとしても、絶対に叶わない。


 しかしそれよりも、わたしが着目したのはディレンジットさんがディーヴァラーナの再構築で見せた石の力。


 至銀のさだめ石の力は、おそろしく強固な状態保管能力。時間停止、というより存在固定に近いもの。こと防御に関して、ディレンジットさんの右に出る者はいないでしょう。


 ここは海底地下。つまり、いつシグドゥに踏みつぶされてもおかしくない地形なのです。成り立ちと経緯はどうあれ、大空洞はわたしたちこの世界の人間にとって畏れ多く、同時に大切な場所であることに違いありません。


 ズルいやり方だとは思いますが、一度報せればこの人なら気に掛けてくれる、そう思ったのです。


 精緻な装飾が掘られた石の空間。

 一人の男性の深いため息。


「ボケが、花のひとつも生えてねえじゃねえか」


 ディレンジットさんの悪態を背中に、わたしは扉を開き、暗い海の中へと身を投げ出しました。


 振り向けば、暗闇に灯る小さな館の光。館の窓から漏れ出す光の帯の中、踊るように揺れる小さな粒子。ゆっくりと積もり、重なっていく、かつて人であった欠片たち。


 ここは深海。全ての命が等しく眠りに落ちる場所。


 この世界の人間は言葉が枯れると死んでしまう。では、死んだ人間は夢を見るのでしょうか。いいえ、今のわたしの考えでは、それはありえません。


 言葉の無い世界に夢は無い。


 この世界は行き止まり。言葉の宿る肉が朽ちれば、それで終わり。意識が行き着く場所など存在しない。ここより先の世界などありはしないのです。


 ですが今は、ただその身が安らかならんことを祈って……。


 背後で閉じていく館の扉。海の底に響く、重苦しい音。扉が閉まる時に漏れ聞こえた、ディレンジットさんのぼやき声。


「おっかねえ役目押し付けやがって。これだからゼフィリアは……」


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