第28話 黒海のゼ・クー(2)
「俺の酒だ。くれてやる」
黒い大きな瓶を地面にドンと置いて、そのお客さまは言いました。裏庭の端っこ、黒い着物のお客さまとスナおじさまは、地べたに胡坐をかいて向かい合っています。
スナおじさまは自分で用意したゼフィリアの瓶からお酒を酌み、お客さまに杯を渡しました。お客さまがぐびりとお酒を飲み干すと、スナおじさまはやれやれといった感じで、
「飲んだらすぐ出ていってくれ。言ったろう、あんた方は陸に関わるべきじゃないんだ」
「知らん」
「あんたは師匠だ。それは感謝してるさ」
そんなお二人の会話を聞きながら、わたしはスナおじさまの背後でうろちょろしています。お客さまにごアイサツせねばと思っているのですが、タイミングが掴めず困っているのです。
ていうかいいのでしょうか。せっかくのお客さまをお屋敷に上げもせず、地面に座らせるなんて。
何せ島の外からお客さまが来るなんて、わたしにとっては初めてのことなのです。島主候補として、そしてゼフィリアのアピールを始めようというこの時に、失礼があってはいけません。
「何しとるんだ、お前さんは……」
わたしのうろちょろに気付いたのか、スナおじさまはお間抜けなお顔で振り向きました。そしてわたしの手の上にぴたりと留まる、その視線。
そう、わたしの手の上にはお刺し身が盛られたお皿、お料理があるのです!
材料はスナおじさまが食べたい時にいつでも食べられるよう、ディナお姉さまが用意していたもの。さすがディナお姉さまです。わたし一人ではお魚を獲りに行けないので助かりました!
更に、わたしの足元には数種類のお料理が。蔵屋敷との間をせっせと往復し、頑張って運んだのです。
煮たり焼いたりはちょっと無理ですが、定番のカルパッチョや酢漬けなどは秒で作れるので、やっぱり気込め石はお役立ちなのです。
「お酒を飲むのでしたらおつまみがあった方がと思いまして」
「今はいらん! お前さんは大人しくしてろと言っただろう!?」
「今日は特別なので、島わさびもこんもり特盛りなのです!」
「あらほんと。いや違う、そうじゃない!」
笑顔でプッシュするわたしに、何故か必死に拒否るスナおじさま。すると、スナおじさまの対面に座るお客さまがわたしの手元を見て、
「何だそれは」
フィーッシュ! お客さまはお料理に興味を持たれたようです! これは是非とも召し上がっていただかねばですよ!
わたしは両手に持ったお皿をいい感じに主張させながら、
「お刺し身です! スナおじさまの好物なのですよ!」
「いいだろう。食ってやる」
やりました! さっそく召し上がっていただかねばです! わたしはお客さまの前へと踏み出そうとして、しかし、その足が止まってしまいました。
これ以上前に進めない、わたしの身体が全力でそれを阻止しようするのです。わたしがお二人に近付けなかったのはタイミングの他に、もうひとつ理由があったのです。
そこで失礼だとは思うのですが、何かもう限界なのでぶっちゃけ聞いてしまうことにしました。
「あの、つかぬことをうかがいますが」
「なんだ」
わたしはお客さまの放つ体臭にギリッギリ耐えながら、
「最近、お風呂って入られました?」
「それは、温泉のことか」
わたしは、はてと思います。お風呂=温泉は間違っていません。そういえば、と思い出すのは蔵にあった他島の資料、その中の記述。トーシンは高低差のある地形で川も温泉もある、とか何とか。
スナおじさまはこの人をゼ・クーと呼んでいました。区切ったお名前は確かトーシンの特徴。もしかしたら、お客さまことクーさんはトーシンの方なのかもしれません。
わたしがその臭いに超我慢しながら色々考えていると、クーさんはやがてその口を開き、
「九年前だ」
「んあにゃあ!! ばっちぃいいい!!」
その回答に、わたしは思わずお料理を落としてしまいそうになりました。ああああありえませんのです! 信じられないのです! きゅきゅっきゅきゅ九年! わたしの人生より長いじゃないですか!
わたしはスナおじさまの背後の地面にお料理を避難させ、右手に水込め石を作成し、
「そォい!」
クーさんの正面からお湯球をぶつけ洗浄! 続けて気込め石を作り出し、お湯球と一緒に汚れを干渉消滅! とにかくきちゃないものは洗浄! 消毒です! あ、お酒は勿論無事ですそのくらいの制御は出来て当然なのです!
「おまっ! アンデュロメイア! いいから! お前はもう座ってろ!」
「スナおじさまは黙っててください! こんなに汗と潮の臭いをさせて! お料理の味だって分からなくなっちゃうに決まってます! はい、油を取ってくるのでクーさんは服を脱いで待っててくださいね! あ、腰巻きは履いててくださいです!」
「おい、やめろ! アンデュロメイア! おい!」
焦りまくったスナおじさまを完全放置し、わたしはちょこちょこダッシュで急いで蔵へ。気込め石で右手に小さな油球を纏わせ準備完了、お二人のところに戻ります。
蔵から戻ると、クーさんはわたしの言う通りの腰巻一丁の姿に。そのクーさん目掛け、わたしは洗浄!と油球を振りかぶり、
「あっ……!!」
直前でぴたりと止まるわたしの右腕。暗闇に慣れたわたしの目に映る、クーさんの裸身。そこに刻まれたおびただしい数の傷跡。
くん、と反応するわたしの鼻。落としきれなかった汗の臭いに混じって、微かに感じる血の臭い。
「お、おい!」
スナおじさまの制止も聞かず、わたしはクーさんの背中に回りました。
そこに刻まれていたのは、この人の歴史そのもの。古い傷跡、新しい傷跡。歪に積み重ねられた、人生の痕跡。
その上に走る、亀裂のような浅い切り傷。
わたしは両手を胸の前で合わせ、かなめ石を作り出しました。そう、この世界の男性が傷を負う理由など、一つしかありません。
構築、展開、解析開始。
「はんひゅろめいは、ひゃめろ! ほまえはしゅわってりょ!」
「スナおじさま! 食べるか話すかどちらかにしてください!」
クーさんを挟んだ向こう、スナおじさまがお料理を一人でもぐもぐし始めています。何てお行儀のわるい! しかもお客様を差し置いて自分だけもぐもぐするなんて!
ダメおじさまはさておき、わたしはクーさんの背中に意識を戻し、集中します。
蔵屋敷の裏庭、その片隅。輪郭を失っていた木々の葉が白と紫の光に照らされさわさわと揺れる、夜の時間。
「面白い使い方をする」
「スライナさんを救った技だ……」
「そうか、スライナは生き延びたのか」
わたしはかなめ石から構成作業完了の情報を受け取り、ひとまず安心。続いて水込め石を作り、用意していた油を少し混ぜ、お湯でふんわりクーさんを洗いました。
きれいになったクーさんを前に、スナおじさまは憮然とした表情でお食事続行中。そんなスナおじさまを無視して、わたしはクーさんの体を再点検。
ゼフィリアの男性も裸のようなものですが、細袴を履いたり着物を着ていたりするので、男性の生足を見るのは生まれて初めてなのです。
そういえば、この世界の人は頭の中の記憶の人類と比べて体の毛が少ないような気がするのです。髪の毛、眉毛、まつ毛、あとは鼻の中に少し生えてるかなー、くらいで。
体毛が弱い部位を守るために備わるのだとしたら、肉の強いこの世界の人間には必要ないものなのかもしれません。クーさんにはお髭もすね毛も生えているようですが、胸やお腹、その脇には毛が生えていないようです。
わたしが横からクーさんの生足を眺めていると、
「気が済んだか」
「あ、はい! ししし失礼いたしました……!」
スナおじさまのお隣に戻り、わたしは慌てて正座しました。スナおじさまはそんなわたしを半眼で睨み、諦めたようにため息を吐いて、
「せっかくだ。食ってやってくれ」
「うむ」
そう言って、お料理をクーさんの前に差し出してくれました。わたしはスナおじさまの隣で真っ赤に俯き大反省。
ううっ、本当に失礼なことをしてしまいました! あまりの不潔さに気が動転してお客さまにそォい!してしまうだなんて、島主候補失格なのです!
しかし……、
と、わたしは目の前のクーさんに目を向けます。そのクーさんはぴっかぴかのホッカホカ。これで心置きなくお料理を楽しんでいただけます。
そんな訳で、改めてクーさんにアイサツせねばなりません。わたしは地面に手を突き、頭を下げて、
「初めまして、ゼフィリアのアンデュロメイアと申します」
「うむ」
クーさんのお返事に 自己紹介を終えたわたしは顔を上げ、
「ひっ!」
瞬間、すくみ上がるわたしの体。
クーさんは何もおかしなことはしていません。右手に石を出し、新しい着物を作り、一瞬で纏っただけ。わたしが目にしたもの。わたしの目が吸い寄せられたのは、クーさんが右手にまとった一つの石。
それは黒い石。
見開かれるわたしの瞳。かたかたと震えだすわたしの体。
何の石かは分かります。気込め石です。
あれは極地。あれは気込め石の終着点。努力や研鑽などという言葉では言い表せない、完全なる技術の結晶。そして、わたしには理解できないもの。
何故あんなものがあるのか。何故あんな石を作ろうと思ったのか、わたしには理解できないもの。
分からない、こわい。
「かひっ、あっ、ひっ……」
「お、おい! アンデュロメイア!」
スナおじさまが箸を取り落とし、わたしの体を支えました。
息が出来ない。こわい。
喉元に手を当て、びくびくと痙攣するわたしの体。
「アンデュロメイア! 大丈夫だ、あれは人を傷つけるもんじゃない! ゆっくりでいい、息をしろ!」
がくがくと揺れる視界の端、黒い箸を作り、お料理を食べ始めたクーさんの姿。
「なるほど、道理だ。酒とは、食い物とは、己の気配を消して挑む相手であったか」
「ひっ、ひあっ、かはっ……!」
「早く出ていってくれ! ここはあんたの居ていい場所じゃない!」
もの凄い速さで空になっていくお皿。スナおじさまの右腕から伝わる体温。杯を飲み干すクーさん。暗い空、暗い地面。
薄れゆく意識の中、森に消えていく黒い背中。
耳に残る、昏い声……。
「馳走になった」
「気が付いたか」
わたしの金髪を揺らす、島のそよ風。
わたしの体を包む、温かな体温。
スナおじさまの安心したような声で、わたしは目を覚ましました。
「肝が冷えたよ。読解力が高過ぎるってのも考えもんだな。いや、常識外れなのは俺達の方か。すまなかったな……」
「いえ、わたしにも何が何だか、あんなこと、初めてでして……。クーさんにも、大変申し訳ないことを……」
まだはっきりしない頭で答えたわたしに、スナおじさまはカラッと笑い、
「気にすんな、忘れていい。レイアにも、何も言わなくていい」
目に映るのは、スナおじさまの長い金髪。
その向こうには、星がきらめく夜の空。
だんだん回るようになってきた頭で、わたしは今の自分の状況を冷静に分析しました。
わたしの背中はスナおじさまの左腕に、わたしの足はスナおじさまの右腕に抱えられています。なるほど、これは生まれて初めてのお姫さま抱っこですね。
「えー、すみません。相手がスナおじさまなので全然嬉しくないですし、微塵もときめきませんねこれ」
「お前さんは何を言っとるんだ……」
自分の感情を素直に伝えたわたしに、スナおじさまは心底呆れたお顔をしました。
お姫様抱っこはともかく、わたしは辺りを見回します。目の前にはなだらかな斜面に沿って並ぶ、村のお家。左を向くと、海屋敷に続く長い長い石の階段。
「さあ、お前さんを家に帰さにゃ」
そう言って、スナおじさまは石段を上り始めました。
ゆっくりと高くなっていく、わたしの視界。スナおじさまの右腕からこぼれ、夜風に揺れるわたしの金髪。
「爺さまは、安心して逝ったよ」
石段を上りながら、スナおじさまは思い出したように口を開きました。
「悔しかったんだろうさ、あの爺さまは。生まれた子の肉が弱い、どうすればいいと、お前を抱えて泣き叫ぶレイアを前に、何も出来なかったんだからな……」
それはスナおじさまの話す、わたしの知らないお話。
「島主は島全体のことを考えて選別しなければならない。例え自分のひ孫であっても、特別扱いは許されない。不用な者に、石は割けない。お前さんは怒っていい。俺も爺さまも、お前さんを切り捨てたんだ」
思い出すのは島主の庵の前、イーリアレが言った言葉。
『しまぬしはみんなのしまぬしであらねばならない』
その通りなのです。ひいお爺さまは、正しい選択をしたのです。
「会えば情が移ると、爺さまはお前さんを遠ざけた。だが、お前さんは自分の身を自分で立て直したんだ。恨んで、憎んでくれていい。お前さんからすれば、どうでもいいクソ話だ」
「そんな……」
ひいお爺さまのお話を聞き、わたしは申し訳ない気持ちになりました。
「お前さんが島を歩き回れるようになってから、石を作れるようになってから、俺は爺さまに言ったんだ。あれはもう大丈夫だから、会ってやったらどうだってな。なのに、あの偏屈ジジイめ。自分には資格が無いと首を振りやがった」
一段一段、ゆっくりと石段を上るスナおじさま。
ゆっくりと高くなっていく、わたしの視界。
その視界に映る、小さな岬。
「笑って、くれました……」
わたしがひいお爺さまに会った、あの岬。
「岬で一度お会いしたことがあるのです。その時に、笑ってくれました……」
「そうか……」
わたしの胸の上にぱらりと落ちる、スナおじさまの長い金髪。わたしとお母さまと同じ、アーティナのひいお婆さまから受け継いだ色。
「お前さんは怒っていい。だが、あの爺さまが海に向かったことだけは、許してやってくれ」
ふいに吹く、潮の香りを含んだ風。スナおじさまの髪を揺らしその目元を隠す、ゼフィリアの風。
「貴方は島に必要な人間だから。そう言われて、順番を奪われ続けて、もう何十年もその役目を後進に任せてきたんだ」
それは、イーリアレに聞いたものと違う事実。
この世界の男性は、シグドゥに向かうその順番を本能で悟る。
ひいお爺さまは島で唯一火込め石を作れる人でした。わたしたちが知らなかっただけで、男の人たちも島のことをちゃんと考えていたのです。そしてその考えを、きちんと行動で示していたのです。
ひいお爺さまの代わりに、自分たちが海に向かうという行動で。
でも、ひいお爺さまからしてみたら、それは……。
「生き恥だったろうさ」
思い出すのは岬で見たあの人。紫色の着物を着た、あの背中。夕日が沈む海をじっと眺めて動かなかった、あの後姿。
「俺が行くと、言ったんだ」
夜風に消える、スナおじさまの硬い声。
「爺さまが海に出た時、俺は追いかけた。俺が代わりに行くと、そう言ったんだ」
わたしの肩を抱く大きな手から伝わってくる、スナおじさまの体温。熱。
「トリトナの、お前の父親の時もそうだった。俺が行くと言ったんだ」
それは、お母さまの口からは一度も聞いたことがないお話。わたしはこの時になるまで、実の父親の名前すら知らなかったことに気付きました。
「お父さまのお話、初めて聞きました……」
「小さい島だ。みんなダチ公みたいなもんさ」
スナおじさまは何処か遠くに話しかけるような、そんな声で、
「みんなそうだった、お前はまだ必要な人間だからってな。そう言い遺して、みんな逝っちまった」
一段一段、ゆっくりと石段を上るスナおじさま。
ゆっくりと高くなっていく、わたしの視界。
「海の上で、俺はあのクソジジイに言ったんだ。いいからひ孫に会いに行けと」
一段、また石段を上るスナおじさま。
わたしの視界に映る、暗い海。真っ黒な水平線。
「俺が行くと、言ったのにな……」
やがて、スナおじさまが立ち止まり、わたしを地面に下ろしました。足の裏に感じるのは、馴染みのある石畳の冷気。
海屋敷に着いたのです。
「立てるか?」
「はい、もう大丈夫だと思います。ご心配おかけしました」
「気にするな」
わたしと目線を合わせるよう、スナおじさまは膝立ちになりました。
金色の髪の毛、鈍く光る青い瞳。
わたしの視界に映る、スナおじさまの初めての表情。いつもの、はっはっは、あ~あっとは違う、穏やかな微笑み。
スナおじさまは、大きな右手でわたしの髪をくしゃりと撫でて、
「大丈夫だ。安心して眠れ」
わたしが頷くと、スナおじさまはくるりと背を向け階段を下りていきました。振り返らず、ゆっくりとした足取りで。
何も抱えてはいないのに。何も持ってはいないのに。まるで今と言う時間が、この島が大切であると、確かめるように。
わたしの立つ階段の下り口、そこから眺める島の風景。
『早くお休みなさい』
そう言われて育ったので、わたしはこの島の夜の景色を見たことがありませんでした。
石段の向こう、村を照らすひいお爺さまの作った灯り。
その石に必ず込められていた言葉は、「ずっと」
浜の先、海の上。沖に立つのは島の男衆。島から海へ、全方位を見張るように、一定の距離毎に。
夜空を仰げば、満天の星空。
今は夜。海も陸もその闇に沈んでいく、男たちの時間。
風が吹く。夜の風が。
わたしは視線を戻し、海の向こうに目を向けました。
そこに横たわるのは、空と海を隔てる真っ黒な水平線。
ぽつりと口ずさむ、イーリアレの夜の歌。
「ひとりぼっち、歩いてく……」
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