第27話 黒海のゼ・クー(1)

 すだれを通り抜けて入ってくる島の風。

 海屋敷と違い、少し緑の匂いが強い、そんな風。


 差し込む陽に木の葉の形が揺れている、そんな時間。


 蔵屋敷の学びの間。わたしは長い長い文机の端っこで巻物をなぞり、資料作りをしています。


 アーティナでお役目を果たした後、わたしは毎日蔵屋敷に通い、沢山の書物に目を通しました。


 年度が変わり次第、わたしはアルカディメイアに向かうことになります。移動時間が一瞬で済むとはいえ、その日までもう一週間もありません。アルカディメイアで行う講義、その研究内容をまとめ上げねばならないのです。


 わたしは悩みました。アルカディメイアにおける講義の評価基準が、わたしには当然分からなかったのです。


 そこで参考にしたのは勿論お母さま。お母さまのアルカディメイアでその評価はとても高いものぽいのです。


 そんな訳で、序列に影響しそうな行いをそれとなくお母さまに尋ねてみたのですが、


『喧嘩です。喧嘩ですね。あとはそう、やはり喧嘩でしょうか。アンは身体が弱いので無理はいけませんよ』


 と超脳筋解答をいただいたのでお母さまを参考にするのはスパッと諦めたのです。


 アルカディメイア就学時のお母さまは講義のようなものは行わず、各島の海守と共同で調査に出かけていたそうで。それはとても大事なことなので、評価が高いのも頷けます。


 しかし、それ以上詳しくは聞けませんでした。お母さまはゼフィリアの島主代理として、遠翔けで世界の島を周っている最中なのです。


 ディナお姉さまもお脳が以下略でしたので、わたしは序列を上げる為の具体的な戦略を、自分一人で練ることにしました。


 講義を通し、わたしがこの世界に伝えるべきこと。


 それは日々の暮らしをより良くするための研究でなければなりません。


 その課題としてまず考えたのが、人工島の建設でした。


 わたしたちの世界が抱える問題として必ず突き当たるのが、陸の面積。この問題を解決するにはどうすればよいか。


 そう、自分達で作ってしまえばいい。


 しかし、先人もわたしと同じ人間、考えることは一緒だったのです。


 それはゼフィリアの蔵にあったひとつの記録。砂込め石を作れる人であったようなので、ひいお婆さまと共にアーティナから嫁いできた人なのかもしれません。


 その人の研究によれば、砂込め石で作った土には木が根付かない。低木や草を育てることは出来ても、大地としては機能しない。


 そしてそれは人も同じ。仮の大地の上ではわたしたち人間は生きていけない、根付かないそうなのです。だからわたしたちは残された陸の上で生きていく他ないのです。


 限られた日数の中で、わたしは別の道を模索しました。


 頭の中の記憶からこの世界に適した文化、知識を選び広めれば、それは容易くまとまるものなのかもしれません。しかし、頭の中の世界の人間とわたしたちは種が違います。


 人間は動物なのです。


 効率や理屈をそのまま押し付けても人は変われない。受け入れられない。異なる伝統、異なる文化。この世界にだって歴史があるのです。


 頭の中の記憶の知識はその環境で、その人間達が生み出したもの。現にわたしたちの世界にはお料理が生まれませんでした。習慣として身に付かなかったら、それはやはり諦めたほうがいいと思うのです。


 例えばファッション。頭の中の記憶のものはわたしたちのものよりずっと多様性があり、華やかなものなのだと思います。


 しかし今このゼフィリアに必要か、この先のゼフィリアに必要であるかを考えると、それは必ずしも当てはまりません。


 ていうか、水着の延長でなければこの世界では普及しないと思うのです。それに、わたしも靴を履いてお出掛けするなんて考えられませんし。あ、でもフリフリな装飾のスカートは一度履いてみたいです。


 思考が逸れましたが、ともかくアルカディメイアに向かう日までもう一週間もありません。これはわたしがゼフィリアで暮らしてきた日々の中から、わたし自身が見付けなければいけないことなのです。


 民を家族とし、民のために生きる。それはひいお爺さまがずっとずっとやってきたこと。その流れの中に、わたしはもう身を置いているのです。


 島民の生活とその文化に、この身を捧げる覚悟はもうできています。


 無茶かもしれませんが、生まれて初めて期待されているのです。わたしはもっと頑張らねばなりません。


「ふわっ?」


 突然、ぱっ、と明るくなった手元に、わたしは驚き声を上げました。そのことで、わたしは辺りが既に暗くなり始めていたことに気付いたのです。


「根を詰めるのもいいが、ほどほどにしろよ」


 すだれをめくり、お屋敷の奥から現れたのは寝起きで更に残念になっているイケおじさま。スナおじさまが灯りを点けてくれたのです。


 スナおじさまはぼりぼりと頭をかきながら、あ~あっとあくびをして、


「今日はイーリアレがいないんだろう? 俺が送るから、早く仕舞え」







 蔵屋敷の縁側に出ると、辺りはもうすっかり暗くなっていました。


 蔵屋敷は今無人。今日はシオノーおばあさんの新作試食会があり、ディナお姉さまも海屋敷にお出掛けしているのです。


 イーリアレはシオノーおばあさんのお手伝い。新しいお料理に興味津々なのでしょう、なんだか嬉しそうな雰囲気でした。そんな訳で、おいしいお夕食がわたしを待っているのです。


 わたしは縁側で振り向き、スナおじさまも、と誘いかけて気付きました。今は夜、スナおじさまも当然男性。男の人は浜辺で海を見張らねばならないのです。


「なんだ?」

「いえ、何も……」


 何を言えばいいのか分からなくなって、わたしは口ごもってしまいました。複雑な気持ちを抱えたまま縁側から下り、剥き出しの地面に素足を下ろすと、


「っ……!?」


 途端に肌を取り巻く、張り詰めた空気。

 水面に広がる波紋の上に立っているような、足の裏の感覚。


 ざわりと吹く風。揺れる木々。

 何かに怯えているような、森の様子。


 普段なら遠くに聞こえる鳥の声が、一切聞こえません。


 わたしはスナおじさまに振り向き、


「スナおじさま……」

「アンデュロメイア、お前さんは大人しくしてろよ。いいな?」


 スナおじさまは縁側から下り、わたしの右隣に立って言いました。


 なんでしょう、獣臭いというか。肉に鈍感なわたしにも感じられる、濃密な生き物の気配がするのです。


 目の前には蔵屋敷の裏庭。そこは海屋敷の裏庭よりずっと暗くて深い森。


 その森に向かい、スナおじさまは落ち着いた声で、


「ゼ・クー……」


 ぽたり、と雫の落ちる音。


 わたしはその音のした場所、暗い森の奥に目を凝らしました。下生えの向こう、暗闇の中、そこに現れた昏い輪郭。


 暗い森の影に潜むように、その人は立っていたのです。


 海水に濡れた長い黒髪。

 深い眼窩の奥に沈む黒い瞳。

 顎に生えた無精ひげ。

 白い肌にぼろぼろになった真っ黒な着物。


 黒く大きな瓶を右手に持った、ソーナお兄さんと同じくらい大きな人影。


 前髪からぽたりぽたりと雫を落とし、夜の暗闇に混じったまま、その影は海の底から響くような、とても低い声で言ったのです。


「プロメナが好いた酒を出せ。飲んでやる」


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