第47話 フェンツァイとセレナーダ

 石の壁に石の床。

 アルカディメイアの講義棟、その一室。


 ナーダさんの肉の調整を手伝った翌日。わたしは午後の講義を終え、ふうとひと息。


 今日はの出席者はいつもの黒い着物集団、それにホウホウちゃんとレンセンちゃんだけ。ナーダさんにはああ言われたものの、こう順調に出席者が減ってしまうと、やはり胃がキリキリしてしまうのです。


 しかし、とわたしは改めて教室を見回しました。


 本日はアーティナからもゼロ人。いくら総合力を高めるためとは言え、一人の受講者も送り出してくれないのはちょっとおかしいような。


 気になったわたしは、退出途中の黒い着物のお姉さまを追って歩き、


「あ、あの、すみません」


 わたしの声に振り向く黒い着物のお姉さま。


 黒く長い前髪に隠れた紅の瞳。

 病的なまでに白い滑らかな肌。


 わたしはその暗い雰囲気のお姉さまに、「いつもありがとうございます」とお辞儀してから、


「あの、今日は何かある日なのでしょうか? 他の島の方々が見えないもので……」

「ご、ご存知無いのですか? タ、タイロンの島主候補が今日こそあなたを嫁にすると、ひ、広場で情熱しているようです」

「ほえ!?」

「ア、アーティナの島主候補が倫理的制止に入り、け、喧嘩でシマツを付けるのだとか。み、みなその見物に向かったのでしょう」


 ほえっと固まるわたしを置いて、「そ、それでは、失礼致します」と黒髪のお姉さまは退出。


「どうかなさいましたか? アンデュロメイア様」


 気遣うように覗き込むホウホウちゃんのかわいいお顔で、わたしの石化が解除されました。わたしはとにかく大慌てで、


「ああああの! ナーダさんがお嫁さんでフェンツァイさんと情熱的鼻血がベラボーでして!」

「どうか落ち着いてください」


 ホウホウちゃんのありがたかわいさに癒され、わたしは深呼吸してクールダウン。


「アーティナのセレナーダさんとタイロンのフェンツァイさんが喧嘩をしているようなのです」

「元気があって良いことだと思います」

「暇なヤツらだなあ」


 うんうん頷くホウホウちゃんと、眠そうなお顔で呆れるレンセンちゃん。


 お二人の微妙に滑った反応はともかく、タイロンの人間であるお二人に説明しない訳にもまいりません。わたしは真っ赤になって、両手で腰巻を握りながら、


「あの、その、フェンツァイさんはわたしを弟君のお嫁さんにしたいらしいのです。わたしはお断りしたのですが、どうにも聞いてくれなくて……。ナーダさんは、そんなわたしのために動いてくれたのだと思います」

「あっはっは、うけるー」


 レンセンちゃんはお眠むなお顔で大爆笑。そして、


「なんと、そのようなことになっていようとは……」

「ひえっ!?」


 それはホウホウちゃんが初めて見せる、固い表情。一切の感情が映らない、冷気を伴った紫色の瞳。普段の柔らかかわゆいフェイスからは想像もできない、氷点下の眼差し。


 その瞳を目にした時、わたしの全身に未曾有の衝撃が襲い掛かりました。背骨につららを刺し込んでから一気に煮立たせたたような、恐怖を反転させるほどの何かが走り抜けたのです。


「はう、あわ、あの……?」


 よく分からない感覚にわたしが戸惑っていると、ホウホウちゃんはぺこりと頭を下げ、


「タイロンの者が大変なご迷惑を。本当に申し訳ありませんでした、すぐ諌めてまいります。セン、行こう」

「はー、アホウだなあフェンツァイは」


 くるりと背を向け、お二人は教室を出て行ってしまいました。


 何かホウホウちゃんに普段とは違うスイッチが入っていたようでしたが、こうしてはいられません。わたしは急いでお二人の小さな背中を追いかけました。


 講義棟を出ると、空はすっかり夕焼け空に。広場には大きな人垣。喧嘩のために作られた人の輪。その向こうから確かに喧嘩らしき打撃音が聞こえてくるのですが……、


 あ、これダメなやつです。

 わたしの身長じゃ全然見えませんです。


 ぴょんぴょんしていたわたしの隣、ホウホウちゃんが重いため息を吐いて、


「まったく……」


 すたすた人垣へ向かって歩み始めました。そして、


「失礼」


 ホウホウちゃんが口を開いた途端、ザッと人垣が割れました。人垣だったお姉さまたちはホウホウちゃんに気付くと、物凄い気まずそうな雰囲気に。


 割れた人垣の向こうには、フェンツァイさんとナーダさんが立ち合う姿。


 右手にはがねの槍、左手に氷の盾を持ち、肩で息をしているフェンツァイさん。


 両手で砂の鎚を持ち、平然とした様子のナーダさん。髪型はいつものツーサイドアップだったのでしょう、今は片方が崩れサイドテールになっています。


 喧嘩が膠着したのか、お二人は睨み合ったまま動きません。


 ホウホウちゃんは周囲の空気に全く臆することなく、輪の中に足を踏み入れ、


「姉上、もうよいでしょう。この勝負、俺が預かります」







 帯の位置が高いタイロンの着物に、雪のような真っ白な肌。

 白く長い三つ編みが揺れる、小さな背中。


 アルカディメイアの講義棟前広場。

 夕陽に染まった無骨な石畳を歩く、その人物。


 ああ、と思います。


 わたしは勘違いをしていたのです。


 ここアルカディメイアは世界中の人間が勉強をしに来る場所。女性だけでなく、男性だってこの島に来ているのです。その数があまりに少ないので、わたしが勝手に受講者は全て女性と思い込んでいただけなのです。


 思い出すのはタイロン領の図書室にあったお昼寝スペース。あれは年少さんのためではなく、男性が寝るためのもの。


 ホウホウちゃんはホウホウ殿だったのです。

 レンセンちゃんもレンセン殿だったのです。


 張り詰めた空気が満ちた、人で囲われた喧嘩場。女性のために用意された場所に立つ、タイロンの男性。


 この世界にも礼儀はあります。


 喧嘩は人と人とが筋肉で語り合う真剣なやり取り。故に、喧嘩の最中に一切の言葉は無用。放っていいのは、負けを認める言葉のみ。人の喧嘩に口を出すなど、無粋極まる無礼な行い。


 ホウホウ殿はその膝を折り、石畳に正座しました。そして、とても丁寧な所作で座礼し、石畳に額をぴったりと付け、


「タイロンが大変お騒がせいたしました、申し訳ありません」


 ホウホウ殿が頭を下げた途端、人垣を作っていた人間全てがいなくなりました。みな自領に帰ったのです。筋肉。


 この世界の男性は女性の社会に干渉することが殆どありません。しかも今は昼、男は当然寝ている時間。


 その男に頭を下げさせた、正にタイロンの恥。


 この世界の人間は他人の恥を笑うようなことを絶対にしません。間違った行い、その報いは全て自分に返ってくる。過ちを認めたら、それを正せるのは自分自身の力のみ。だから、他人がとやかく口を出すものではない。


 それがこの世界の人間の精神構造。


 人気の無くなった広場で立ち上がり、ホウホウ殿はフェンツァイさんに向き直りました。そして、かわいいながらも厳しい声音で、


「姉上」


 その声にゆらりと振り返るフェンツァイさん。激闘でボサボサになった白い髪。夕陽の角度ではっきりしない、その表情。


「タイロンのためだ……」


 怒気を孕んだ低い声。いつも余裕なあの人が放ったとは思えない、感情的な声。


「ゼフィリアの姫はそなたに必要な存在になる……」

「姉上」


 言いながら、ホウホウ殿はフェンツァイさんに近付いていきます。フェンツァイさんは牙を剥き出し、その口を大きく開け、


「千獄の姫と紫の石があれば、我々タイロンは!」

「姉上」


 肉が破裂しそうなほどの激情を発する、フェンツァイさんの長身。立ち止まり、そのお顔を見上げるホウホウ殿。


「違うでしょう、姉上」


 夕暮れの風の音だけが聞こえる、静寂の広場。

 遠く地平線に沈んでいく、赤黒い太陽。


 やがて、


「だって、あなたは……」


 くしゃりと歪むフェンツァイさんのお顔。その瞳からボロボロ落ちる大粒の涙。


「あなたが陸にいてくれるよう……、私は……」


 がらん、と、はがねの槍と氷の盾が地面に落ちる音。制御を離れその形を失い、広場に転がっていく灰色の石と青い石。


「あなたが海に行ってしまったら、あなたが帰ってこなかったら、私は……」

「姉上……」

「う……、うぅ……」


 膝から崩れ落ち、石畳にうずくまるフェンツァイさん。ホウホウ殿がその背中を包むように手を添えると、


「ああ、あ……。あぁああああぁ……」


 その小さな体に縋り付き、ファンツァイさんは体を震わせ、泣き始めてしまいました。


 離れた所に立っていたナーダさんが、鎚を消去し構えを解いて、


「ホウホウ殿、私はこれで失礼致します」

「申し訳ありませんでした、アーティナの殿下。後日改めてお詫びに伺わせて頂きます」

「お気になさらず」


 ナーダさんはこちらに向かって手を振り、シュパッとアーティナ領に向かってジャンプ。わたしは夕焼け空に消えていくナーダさんの背中にぺこりとお辞儀をしました。


 アーティナとゼフィリアの約束事。ナーダさんはリルウーダさまの言い付けを守ってくれたのです。


 アルカディメイアは講義棟前。

 石畳に零れ染み込んでいく、小さな嗚咽。


「ひめさま、どうかなされましたか」

「イーリアレ……。いえ、何でもないのです」


 わたしのことをずっと待っていてくれたのでしょう。どこからか現れたイーリアレがいつの間にか傍らに立っています。筋肉。


 そう、これはとても簡単なお話。

 この世界の何処にでもある、一人のお姉さんのお話。


 お姉さんの大好きな弟さんが、海に向かうようになってしまっただけ。


 だから弟さんのために、どうしても紫の石が欲しかった。弟さんを陸に繋ぎ止める手段として、わたしをお嫁にあてがおうとした。


 そこにいるのは普通のお姉さん。弟さんが大好きで、心配で、何処にでもいる、当たり前のお姉さん。そのお顔に流れるのは情熱ではなく、ただの涙。


「あー、ねっむ」


 わたしのお隣、レンセン殿がふわあとあくび。


 潮の香りを乗せたアルカディメイアの風。

 沈み行く太陽が二人の白髪を血のように赤く染める、夕暮れの時間。


 ホウホウ殿は、はあと大きなため息を吐いて、


「まったく、仕方のない姉上だ……」


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