第59話 深海の屍屋敷(1)

「おや?」


 藍色の空と黒い海に挟まれた空の上。


 ごうごうと吹く風の中、わたしとイーリアレは突然宙に投げ出されてしまいました。


「ひめさま!」

「大丈夫ですよ、イーリアレ」


 わたしは落ち着いて風纏いを制御し、滞空操作。纏いの中、イーリアレはわたしのお腹に両足をがっちり回してしがみついてきます。


 今、わたしとイーリアレがいるのはガナビア北西のとある海域、その上空。


 アルカディメイアからガナビアは流石に遠すぎたのでしょう、遠翔け用の石が往路だけで消えてしまったのです。次は復路用、到着後に使う石をあらかじめ作ってから翔けることにします。


 わたしは纏いの高度をゆっくり下げ、海面に接近。


 久しぶりの南半球の太陽。乾いた匂いの海の風。眼下に広がるのは今まで見てきた中で最も色の濃い、真っ黒な海。


 波の飛沫を足の裏に感じるところまで下り、わたしは一度纏いの位置を固定しました。右手に砂込め石を作り、纏いの中に宙に浮く石板を作成し、


「イーリアレ、こちらに」

「はい、ひめさま」


 石板の上に立ったイーリアレを確認して、わたしは再び真っ黒な海面に目を向け、


「行きます」







 陽の光が届かない海の底。

 時間さえ忘れた、何も無い空間。


 上下左右、方向感覚が一切働かないほど深い暗闇。火込め石の小さな灯りだけを頼りに、わたしたちは海の底に沈んでいきます。


 わたしは左手の水込め石で干渉操作を行い、纏いの外の海水を引き寄せました。そして小さい水球にして凍結、背後にいるイーリアレにパス。イーリアレは手に持つ白く細長い箱に、ひとつひとつ氷球を並べていきます。


 これは水質を調べるための海水サンプル。


 ホロデンシュタック領から戻り、講義を再開したわたしはナノ先生にあることをお願いしたのです。


 わたしは肉が弱いことを理由に、この世界での当たり前のことを自分には関係の無いものとして諦めていました。あらゆる意味で半人前なわたしが、シュトラお姉さまの教え通り人の立場になって考えるには、様々な経験が足らないのです。


 ナノ先生にそのことを相談すると、ならばクルキナファソでの指南のように、困っている人たちの助けになってはどうか、と提案してくださったのです。


 ナノ先生たち屋敷番はとても多くの問題を抱え、日々頭を悩ませているのだとか。その中の一つがこの海域調査のお役目。各島合同で行う予定だった調査に人が集まらなかったらしいのです。


 海図の上ではアーティナの西に位置するガナビアの北西、潮の終孔とよばれる場所。この星を流れるいくつかの大きな潮が合流する、その終着海域。


 目的は海水標本採取。海守になるのはもう無理だとしても、仕事の実態を知り、体験するにはもってこいな内容。そんな訳で、わたしはこのお役目を買って出たのです。


 海中からまたひとつ標本を採取しながら、わたしは目の前の景色を改めて見回しました。


 ですが、見事に真っ暗。当たり前ですが何も見えません。


 お役目とはいえ、せっかく海に潜れるのです。頭の中の記憶にあるシュノーケリングや水族館みたいで少しワクワクしていたのですけれど、普通のお魚さんはおろか、深海魚さんの姿もありません。


 ちょっとガッカリしながら、わたしが氷球を渡すため後ろを振り向くと、


「え、イーリアレ?」


 銀髪に青い瞳、いつも通りの無表情。しかし、その小麦色の体は全力でガクブル状態。


 深海とはいえ、纏いの風の中は温度調整完備で快適な環境にしているのです。それ以前に、この世界の人間は寒さで凍えたりしない筈なのですが……。


「ひひひひめさままま」

「イーリアレ……」


 この世界の人間は強い。脅威そのものが無い。だからわたしは気付けなかったのです。


 イーリアレが、脅えている……?


「イーリアレ、怖いのですか? 大丈夫ですか?」

「わわわわかりません。ひひひひめさまはだいじょうぶなのですかかか?」

「え、わたしはなんとも……」


 言いながら、わたしは纏いに掛かる手応えに納得しました。かなりの水圧。しかも辺りは真っ暗闇で、言われてみれば確かに怖いものなのかもしれません。


 標本の数は既に充分、イーリアレのためにも調査は早めに切り上げたほうがよさそうです。わたしは最後の氷球をイーリアレに渡し、


「イーリアレ、お役目はこれでおわりです。アルカディメイアに戻りましょう」

「ひひひひめさままま!」


 イーリアレの悲痛な声に、わたしは纏いの外に目を向けました。


 暗闇の中浮かび上がる、たくさんの小さな粒子。プランクトンのような漂泳生物でしょうか。火込め石の光をキラキラと反射して、まるで夜空のお星さまのようです。


 きれい。そう思った瞬間、そこに混じる見慣れた造形の浮遊物。


 二の腕から千切れた、人の腕。


「ッッ……!」


 わたしは急いで纏いの潜行を止め、火込め石の灯りを強めて周囲を照らし出しました。鮮明になった視界、眼下に広がっているは白い地面。わたしたちは既に、海底に着いていたのです。


 そして、海底を埋め尽くすように積み重なったもの。これこそ、各島の海守さんたちがこの海域に近付きたくなかった理由。


「人の、屍体……」


 この世界の人は亡くなると海に流され、水葬される。そしてシグドゥに潰されて砕かれなかった死体は、ここに流れ着くのです。


 陽の光の届かない海の中。

 時間さえ忘れた、何も無い空間。


 ここは潮の終孔。この世界に生まれた、全ての人が行き着く場所。


 海底の大墳墓。







 珊瑚のように海底に積もった、屍の群れ。

 真っ白な石像のようにピクリとも動かない、かつて人であった欠片たち。


 この世界の人間の肉は腐敗しない。長い時間をかけて水圧で削られ、砕かれ、海底に積もっていく。これがこの世界に生まれたわたしたち人間の、星への還り方。


「ひひひひめさままま」

「ええ、イーリアレ」


 戻りましょう、そう言い掛けた時、視界の端を小さな灯りがよぎりました。それはアンコウのような疑似餌の光ではない、覚えのある感覚の光。


 火込め石の灯り。


 わたしたちが今いる場所からそう遠くない位置に、小さな光が灯っているのです。わたしはその灯りを錯覚でないものと確かめ、


「行きますよ、イーリアレ」

「ひひひひめさままま!」

「あれが救難を求めるための灯りなら、迅速に救護せねばなりません」


 わたしは水込め石で周囲の海水に干渉し水流操作、纏いの風を押して移動を開始しました。その灯りに近付き、全容が明らかになるにつれ、驚きに見開かれるわたしの瞳。


「建築……物……?」


 頭の中の記憶で言いますと、洋館、というのが一番しっくりくるでしょうか。わたしたちが見付けた光は、この館の窓から漏れ出た明かりだったのです。


 海底の岩棚にすぽっと収まっている石の館のファサード、その正面の構えを見て、わたしはおや?と首を傾げました。


 アルカディメイアで各島の建築様式の中に似たものがあった記憶が。そう、この館は火と砂の島、クルキナファソの建物によく似ているのです。


 わたしは館の玄関らしき場所に接近し、重厚な石の扉をコンコンと叩き、


「もし、どなたかいらっしゃいませんか?」


 ぎい、という石のきしむ音と共に、扉は簡単に開いてしまいました。扉の隙間から覗くと、内部は陸と同じように空気があるようです。海水が入ってこないよう、何か工夫がされているのかもしれません。


 建物の中に入ると、そこには見事なまでのエントランスホール。天井には連結された火込め石が設置され、窓枠や柱などにはクルキナファソの精緻な彫刻が施されています。


 わたしは館内の空気を調べるため、海水標本を回収するのと同じ要領で纏いの中に気体を入れ、


「うっ……」


 反射的に手を振り、周囲の空気を全て入れ替えてしまいました。成分的には地上のそれと同じなのですが、酷い匂いがこびり付いていたのです。


 ついやってしまったわたしは慌ててイーリアレに振り向き、


「えー、調査! これは調査に必要だったのです! ね、イーリアレ!」

「ひひひひめさままま。ひっ……!」


 突然、イーリアレの背後でバタンと扉が閉まりました。その音でイーリアレは完全に活動を停止。いつも通りの無表情ですが、完全に瞳孔がイッてしまっています。


 わたしがイーリアレ越しに扉の方に目を向けると、一人の人物が立っていました。


 ボサボサに伸びた紫の髪。

 屍体のように真っ白な肌。

 足元が隠れるほど長いクルキナファソの腰巻。


 老婆のように背中を曲げた姿勢の、小さな女性。


 どうやらこの館はこの人のお宅のようです。わたしはひとまず安心し、その女性に、


「すみません、勝手におじゃましてしまって。あの、ここで何をなさっているのですか?」


 無言の返事。


 その女性はわたしたちを無視し、紫色の髪をずるずると引きずりながら、ホールを抜けて奥に行ってしまいました。


「イーリアレ、とにかくあの人に事情を聞いてみましょう」


 わたしはイーリアレを再起動させ、その人の後を追うことにしました。ていうかイーリアレがここまで心理的な脅かしに弱いとは超意外。確かに不気味だとは思いますが、わたしはオカルトに対する恐怖心が全くないので分からないのです。


 ホールの扉をくぐると、そこには超大な空間が広がっていました。空間中央には星の底まで続いていそうな円筒形の大きな縦穴。その円周に沿って作られた膨大な数の階層。そこから感じられる、無数の気配。


「こ、れは……!」


 わたしは即座に気込め石を作り出し、


「イーリアレ! 見知った人を探してください! 今すぐ!」

「ひひひひめさままま」

「分かりました、イーリアレはここを動かないで!」

「ひひひひめさままま!」


 ガクガク震えるイーリアレに風を纏わせ、わたしは縦穴に飛び込みました。ちょっとかわいそうですが、今はそれどころではないのです。


 わたしは落下しながら、気込め石でこの空間に配置された気配の数を探りました。わたしが感じ取った気配。それは、人間の屍体のもの。


 思い出すのはわたしがホロデンシュタックで聞いた、この世界の怪談。もしあのお話が現実に着想を得たものだとしたら、それはあながち間違いではないのです。


 水底の死女。


 あの女性はシグドゥに踏み潰されず、無事流れ着いた屍体たちをここに安置しているのです。


 わたしはある階層に下り立ち、灯りを強めて周囲を見回しました。


 石の床の上、等間隔に横たえられた屍体たち。様々な髪の色、様々な肌の色、そして様々な衣服。世界中の、そしてあらゆる年代の人間の屍体。


 並んでいるのは当然女性の亡骸だけ。シグドゥに近寄らねばならない男性の肉体は、形が残り難いのです。


 おそらく、イーリアレの感じている恐怖は畏れに近いものなのでしょう。わたしたちに寄ってこない野生生物と同じ、死を身近に感じた生き物の本能。一度死を覚悟したことがあるわたしは、その感覚が麻痺してしまったのかもしれません。


 妙に冷静になった頭で、わたしは屍体の列の間をぺたぺたと歩きます。安らかな寝顔で横たわる女性たちを眺めながら、ふと思いました。


 この人たちは生きているのでしょうか、それとも死んでいるのでしょうか。


 頭の中の記憶、その常識に照らし合わせれば、この人たちは死んでいるに違いありません。しかし、種が違えば死の概念も違う。ここに並んでいる屍たちは死後硬直している様子もないので、動かそうと思えば生前通り機能するはずなのです。


 わたしとこの屍体たちは、一体何が違うのでしょう。


 生と死の境界が曖昧になり、ぼんやりとしてきた意識の中、わたしはある女性の二の腕に目を留めました。


 途端、ある焦燥に駆られ、再び縦穴に戻り気流を作成。上層に向かって急上昇。高速で流れる階層を横目に、奥歯を固く噛み締めました。


 屍体にあった跡。二の腕にうっすら浮かんだ、継ぎ目のような痕。肉を接ぎ、修復した痕跡。


 蘇り。


 あの人は、ここで蘇生術を編み出そうとしているのです。


 これだけはいけない。わたしの全身が、わたしの本能が、これは危険なものだと全力で叫んでいる。


 死者の蘇生。頭の中の記憶にもある、人間の願望の一つ。アルカディメイアにはそういった研究はありませんでした。だから、これが禁じられたものなのかどうかも分かりません。


 しかし――、


「イーリアレ、先ほどの人は何処に!?」

「ひひひひめさままま」


 わたしは最上層に戻り急停止。イーリアレはガクブルしながら懸命に箱を支え持ち、震える指でその方向を示しました。その先は最上層の対岸、ぽっかり空いた昏い穴。


 再び空中を翔け、わたしはその穴に飛び込みました。通路を進むと、ほどなくして突き当りの小さな部屋に到着。


 クルキナファソの装飾で埋められたその部屋の中心には、天井から吊るされたひとつの屍体。糸で両腕を縛られ、床に膝を突き、うなだれたまま動かない男性の屍体。


 肩まで伸びた長い金髪と、うっすら開かれた青い瞳。

 血が巡ることを忘れた白い肌。

 下半身には白く長い布が着物のように巻き付けられています。


 人種的に、おそらくはアーティナの男性。そしてその屍体の前にうずくまっている、先ほどの女性。


「勝手に立ち入ったことはお詫びします。ですが、今すぐこの試みをやめてください」


 床に下り立ち、わたしは紫の髪の女性に言いました。そして、


「ひっ!」


 屍体の前、床に置かれた石が視界に入った途端、両腕で体を抱きしめ、すくみ上がるわたしの身体。


 それは銀色の石。銀は砂込め石を極めた色。とすると、この方は……、


「先代の、銀海……」


 怯えを抑えるように、わたしは言葉を搾り出しました。石の機能が殆ど停止しているせいか、クーさんの時ほど恐怖を覚えないのです。しかし、どういうことでしょう、石と本人との繋がりが完全に断ち切られているような……。


 わたしが不審に思っていると、その女性が初めてこちらに気付いたかのように、グルリと顔を向けました。


 長い紫の髪の隙間から覗く、満月のような金色の瞳。

 わたしとそう変わらない年齢に見える、少女の顔。


 その人は震える指でわたしを指差し、


「オルグ……ノット……」


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