第108話 遺された人々(1)

「シェンスンさま、ありがとうございました」


 南国らしい元気な太陽と、潮の香りを含んだ風。

 すだれを通り抜けて入ってくる、島の空気。


 ゼフィリアは海屋敷の昼下がり。

 わたしは両腕を包帯でぐるぐる巻きにされ、自室の定位置、お布団の上。


 はい、そんな訳で、ディーヴァラーナの岬でこてんと気を失ったわたしは、いつも通りイーリアレにお持ち帰りされ、気付けば自室で目を覚ました次第なのです。


 体力の限界に加え、本来ならば縫合が必要なほどの怪我をしてしまったせいか、熱を出し寝込んだりなんやかんやで、あっという間に二十日が経過。今朝からようやく各島への連絡を始めたところでして。


『なに、メイちゃんに何かあっては遅いのだ。それに、息子もメイちゃんのことを案じていた。それこそ本望であろうよ……』

「はい……」


 枕もとの音飛び石から聞こえるシェンスンさまのお声に、わたしはお腹の上に掛けられている着物を撫でました。


 わたしが掛布代わりに使っているのは、ホウホウ殿が作ってくれた白い着物。


 タイロンで過ごすための防寒用だと思っていたのですが、ホウホウ殿は着物に温度調整機能を仕込んでくれていたらしく、ここゼフィリアで羽織ったりひざ掛けにしたりすると、絶妙に涼しく快適になれるのです。


『陸の再生など、前代未聞の大仕事。五海候の助力があったとはいえ、メイちゃんがディーヴァラーナで成したことを考えれば、男の石の一つや二つ』

「いえ、そんな……」


 わたしがまずシェンスンさまに伝えたのは、ホウホウ殿の石のお礼。


 男性が石を持ち帰ることなど殆どなく、しかも、ホウホウ殿の作り出した石はおそらく史上初の合成石。形見以上。貴重どころか唯一無二。シェンスンさまにとってはホウホウ殿そのものであった筈。


 それを与えてくれたタイロンへの感謝は計り知れません。


『話は全てナーダちゃんから聞いている。後のことはリザにゃんや私らに任せ、メイちゃんはゆっくり傷を癒すのだ』

「えあー、それは何と言いますか。後が怖いのでなるべく早く復帰したいです」


 ディーヴァラーナで何が起こったかの詳細な報告は、ナーダさんが滞りなく済ませたとのこと。島主の引き継ぎ作業の続きの為か、ナーダさんはあれからすぐタイロンへ戻ったそうなのです。


 ちなみに、レーナンディさんはナーダさんの誘いを断り、再び海に出てしまったそうで。一日も早くレーナンディさんが思い人に会えるよう、わたしはこっそりお祈り中。


 一通りの連絡を終えたシェンスンさまは、改めてお真面目な声で、


『メイちゃんよ。ひとつ、聞いておきたいことがある』

「はい、シェンスンさま」

『息子の散った空は、どのようなものであったか』


 石の向こう、納得を求める感情の波。緊張した空気の中、わたしは目を閉じ、ありのままを思い出して、


「昼と夜の境界。茜色の夕陽に染まる、雲の上の世界でした」


 石の間に訪れる長い沈黙。


 波が揺れ、雫がこぼれる微かな気配。


「シェンスンさま……」

『生きては島を守り、死して空を駆け昇る。ディーヴァラーナの大地を繋いだ、白き翼の渡し守。母親として、これ以上息子に何を望めというのか……』


 シェンスンさまの掠れたお声。


 包帯越しに感じる、ホウホウ殿の着物の手触り。


『感謝する、ゼフィリアよ』


 瞼の裏、思い描く。


『黄昏時に空を仰ぎ、雲上の夢に想いを馳せよう』


 シェンスンさまの奮い立つような言葉に、わたしは目を開けました。悲しくない筈がありません。でも、思い出を振り返り、心に留めておけるからこそ、人は明日に向かっていける。


 ですが……、


「シェンスンさま、わたしからもひとつよろしいでしょうか」


 わたしは緑色の音飛び石に顔を向け、


「フェンツァイさんは、大丈夫なのですか……?」


 遠く聞こえる風の音。

 海鳥の鳴く、青い空。


 わたしの問いに、シェンスンさまは一度息を吐き、押し殺したような重い声で、


『メイちゃんよ、すまぬ。フェンツァイは……』







 フェンツァイさんが、亡くなった。


 ディーヴァラーナのあの日から六日後。今から二週間前の朝に。


 死因は、言葉。


 あの朝、ホウホウ殿が亡くなった日から、フェンツァイさんは取り憑かれたように合成石の研究と書の執筆に没頭したそうです。


 言葉が枯れると、人は死ぬ。石を作りすぎると言葉が枯れる。細胞に蓄積された信号情報を石として体外に出力し続けた結果、そのネットワークが疲弊し、わたしたちは記憶を、思い出を失って死に至る。


 石作りは人が生きるための何かを確実に削る技術。わたしはスナおじさまにそう教わりました。


 もしかしたら、言葉を書として体外に出力することは、それと同じことなのかもしれません。フェンツァイさんの研究は合成石の構造解明には至らなかったようですが、それでも膨大な資料を遺したそうです。


 ディーヴァラーナに向かうことになったナーダさんにホウホウ殿の石を託したのは、他でもないフェンツァイさん。


 あの時、空中庭園に来てくれたのはナーダさんでしたが、考えてみれば、フェンツァイさんが来てくれてもおかしくなかったのです。わたしがヴァヌーツでシゴかれていた時、フェンツァイさんは既に危険な状態にあったのでしょう。


 ナーダさんがタイロン滞在を引き延ばしていたのは、フェンツァイさんのためだったのです。あの二人の間にどのような感情があったのか、わたしには分かりません。でも、ナーダさんはタイロンへ戻ったのです。


 ディーヴァラーナからナーダさんが戻った四日後の朝。フェンツァイさんはナーダさんに看取られ、この世を去った。


 わたしのいないところでも世界は動いている。それは、ディーヴァラーナで学んだ当たり前のこと。でも……、


 目の前にあるのは、見慣れた天井。

 軒下に浮かび、きりんと澄んだ音を鳴らす、お母さまの風鈴。


 胸に去来する、乾いた感情。


 ただ、寂しい。


 もう、フェンツァイさんと話すことが出来なくなってしまった。もう、フェンツァイさんと一緒にお茶と甘味を楽しむことが出来なくなってしまった。もう、フェンツァイさんは新しい物語を作れなくなってしまった。


 わたしがフェンツァイさんのことで出来ることは、もう何もないのです。ホウホウ殿と同じ、フェンツァイさんとは、もう会えなくなってしまったのです。


 分からない。


 今更わたしに何が出来るのか、分からないのです。でも、何かしていないと胸が落ち着かなくて。そう思い、わたしが包帯まみれの手を上げると、


「いけませんよ、姫様」

「う……」


 後ろでひっつめた白髪に青い瞳。

 小麦色の肌にゼフィリアの胸巻と腰巻。

 ゴリラよりもゴリラでゴリラな、スーパーゴリラ。


 海守のエイシオノーおばあさん。


 右側の枕もと、海老の皮剥きをしていたシオノーおばあさんがギロリとわたしを睨みました。


「禁止ですよ。姫様は陸を作るなんて大仕事をこなしてきた後なんです。一年二年何もせず寝っぱなしでもいいくらいですさね」

「さ、流石にそこまでは……」

「とにかく、禁止ですよ」

「う、分かりました。シオノーおばあさん」


 えー、そうなのです。シオノーおばあさんはわたしが各島との通話を終えてから、ずーっとここにいるのです。ていうか、夕食の下拵えをお部屋の中でされると空気が生臭くなって困るのです。


 しかし、シオノーおばあさんは今手が塞がっているわけでして、これは仕方ありません。換気くらいならわたしにも、と風込め石を作り出そうとすると、


「アン……」

「う、分かりました。お母さま……」


 左側の枕もと、シオノーおばあさんの対面。お魚を解体していたお母さまが無言の圧を放ってきました。お母さまもシオノーおばあさんと同じ、わたしの傍を離れようとしないのです。


 シオノーおばあさんは帯から風込め石を取り出し、部屋の空気が磯臭くならないよう干渉操作。そして、


「これくらいならあたしにだって出来るんでさ」

「うう、そんな。シオノーおばあさん」

「駄目ですよ。あたしらにはよく分からないんですからね」


 えー、そうなのです。


 ディーヴァラーナから戻ったわたしが両腕血塗れになっているのを見て、ゼフィリアは大慌ての大パニックになってしまったようでして。


 何せこの世界の人間は怪我とは無縁の超優良健康筋肉ばかり。


 命に別状はないようですし、石作りの方も大丈夫ですよ、と石を作って見せたら、とんでもないと絶対安静を言い付けられ、何をするにも許してもらえない感じに。


 わたしが勝手に出歩かないか、働いていないか。まるで監視するように色んな人が海屋敷に顔を出して、島の小さな子までわたしの様子を見に来る始末なのです。


 しかしやはりもう二十日。何もすることが無いのはどうにも落ち着かないわけでして……。


 わたしがお布団の上で禁断症状ぽくむずむずしていると、


「アン……」

「う、分かりました。お母さま……」


 トドメがこれです。


 お母さまはわたしが何かしようとすると、悲しそうなお顔で無言の圧を放ってくるのです。徹底して無言なのが実に堪えると言いますか、わたしにとってはテキメンです。


 そんなわたしに呆れたのか、シオノーおばあさんは巨大は鉢に海老を積み上げながら、


「今は体を治すのが姫様の仕事ですよ。島主なんてのはね、どーんと構えて寝てればいいんですさね」

「いえ、シオノーおばあさん。流石にそれは……」


 そう、海守さんネットワークか、ディーヴァラーナのことが世界に知れ渡ったからなのか。わたしはゼフィリアの正式な島主として認知されるようになったのです。


 この世界には式典などの習慣が無く、何の感慨もありませんが、とにかくわたしは島主になれたのです。しかし、島のために頑張りますよ的に意気込んでも、何もさせてもらえないのが現状でして。


 いえ、わたしが勝手に盛り上がっていただけで、ていうか怪我をしてきたわたしが一番いけないのですが、何だかちょっと、肩透かし?


 思えばわたしは記録のお役目を任されてからこっちずーっと働き続けてきたわけでして、急に何もしなくてよいと言われると、悶絶落ち着かないのです。これでは石作りを覚える以前に逆戻りなのです。


 お母さまとシオノーおばあさんはむずむず状態のわたしを挟んで完全筋肉包囲体勢。お夕食の支度を順調に筋肉していきます。


 お母さまが魚のお団子を丸めているので、今日のお椀もつみれ汁のようです。原点回帰なのか、お母さまの食べたいサイクルがちょうどつみれ汁の時期なのか、ここ二週間の夕食には必ずつみれ汁が並ぶのです。


 むーん! お団子を丸めるくらいならわたしにだって出来るのです! 今なら頭の中の記憶の日本の人たちの気持ちが痛いほどよく分かります! 落ち着きません! 働きたくて落ち着きませんとも!


 そんな訳で、


「あ、それでは石の記録を覚えておきますので、せめて数字だけでも……」


 わたしが最後の抵抗を試みると、シオノーおばあさんにギヌロと睨まれてしまいました。はい、勿論トドメは、


「アン……」

「う、分かりました。お母さま……」







「ありがとうございます、シオノーおばあさん」

「今はこれで我慢してくださいな。怪我の時にどうしたらいいかなんてね、あたしゃ本当に分からないんでさ」


 火込め石の灯りの下。

 就寝前の夜の時間。


 わたしはお布団の上でシオノーおばあさんとイーリアレに洗浄され、きれいさっぱり。髪も油でケアして、キューティクルは当然維持です。お湯に浸かれないのはちょっと物足りないのですが、仕方ありません。


 わたしは帯から気込め石を取り出したシオノーおばあさんに、


「あ、布はもう巻かなくて大丈夫です。傷は塞がったようですし、少し引きつりますが、痛みは全くないのです」


 言いながら、びしびし傷が刻まれた腕を持ち上げて見せました。シオノーおばあさんは酸っぱいものを口に入れた時みたいな、とても痛そうなお顔をして、


「そうですかい? 本当に大丈夫なんですかね?」

「はい。布は蒸れますし、痒くなるのがイヤなので……」


 わたしは目の前で手を開き、指の動きの再点検。割れた爪はまだしばらくかかりそうですが、肌の方はもう薄皮が張り始めています。


 当たり前ですが、わたしは目覚めてすぐ、この傷を人体補完構成と同じ要領で治そうとしました。ですが、上手くいかなかったのです。


 問題は気込め石で自身の腕の作りを解析しようとした過程。情報を読み取ろうとしてもエコーのような波が帰ってくるだけで、どうしても自分の体の構成式を組み上げられなかったのです。


 出来ないものは仕様がないと、自然治癒に任せているのですが、痕自体は派手に残ってしまうっぽくて、女の子的にはかなり残念。


 しかし、これもやっぱりホウホウ殿が遺してくれたもの。なので、ほんのちょっぴり、わたしは嬉しかったりするのです。


 シオノーおばあさんは酸っぱいお顔をもとに戻し、


「それじゃあ、お休みなさいな」

「はい、お休みなさい。シオノーおばあさん」


 すだれをめくり、お母さまとは逆に位置する隣の部屋へ。


 シオノーおばあさんはわたしがアルカディメイアに就学した頃から海屋敷で暮らすようになったそうで、村のご自宅は他の人に譲ってしまったのだとか。


 考えてみれば、お母さまが島主代理を務めている間、守主まで兼業、という訳にはいかなかったのでしょう。シオノーおばあさんがお母さまの代わりに海守をまとめるのは、自然な流れであったように思います。


 何せシオノーおばあさんは海守道五十年の大ベテラン。誰もが納得する適役です。


「さて……」


 それではお休みの時間です。わたしは枕もとで船を漕いでいるイーリアレに、


「イーリアレ、もう休みましょう」

「ふぁい、ひめしゃま」


 イーリアレはそのままぱたりと倒れ込み、わたしのお腹をがっちりハグ。秒で熟睡です。わたしは半身を起こしたまま、ぎざぎざになってしまった手でイーリアレの銀髪を撫で梳きました。


 すだれを通り抜けて入ってくる、潮の香りを含んだ風。

 部屋に漂う、柑橘系の果実の残り香。


 確かに、シオノーおばあさんの言う通り、今のわたしの役目は傷を治すこと。島主として、島民に心配されるようではいけません。そして初心に帰り、小さなことからこつこつと、です。


 そんな訳で、すだれの向こう、お布団の上に座っている背中に目を向け、再確認。


 最初のお役目と言えば、お母さまの髪のお手入れです。明日朝起きたら、まずはお母さまの髪のお手入れをするのです。


 心に決めたわたしはお布団に体を横たえ、掛布代わりの着物をたぐり、


「お休みなさい、お母さま」


 すだれの向こう、お母さまはゆっくりとした動きで腕を上げ、


 それから、火込め石の灯りを消して、


「え、え……、おや、すみな、さ、い……」







 すだれを通り抜けて入ってくる、朝の冷気。

 目を開けると、そこには白い小さな手。


 暗闇の中、浮かび上がる指の輪郭。わたしは自分の身体の感覚を確かめるように、手を握り、開き……、


「あ……」


 すだれを縞模様にしている、白み始めた朝の空。


 いけない。お母さまの髪のお手入れをすると決めていたのに、わたしは寝坊してしまったのです。


 わたしは一緒に寝ているイーリアレを起こそうとして、気付きました。いつもわたしに組み付いて離れないイーリアレが、お布団の上にいないのです。


 静かな朝。

 耳が痛くなるくらい、静かな時間。


 半身を起こし、横を見ると、イーリアレがお母さまの部屋に向かい座礼をしていました。隣のお部屋、すだれの向こうには、人が横になっている影が見えます。


 その影を見て、わたしはほっとしました。


 どうやらお母さまはまだ起きていないようです。わたしと同じで寝坊してしまったのでしょうか。でも、よかった。今日はお母さまの髪のお手入れをすると決めていたのです。


 でも、どうして?


 イーリアレはずっと頭を下げ、その背中をふるふると震わせたまま。


 どうしてこんなに静かなのでしょう。


 わたしが疑問に思っていると、修練場側のすだれがざらりとめくれ上がりました。


 逆光の中、縁側に立つゴリラな人影。シオノーおばあさんはイーリアレと同じく床板に拳を突き、座礼の姿勢に。そして、目に涙をいっぱい溜め、それでも声を震わせないよう、毅然とした態度で、


「お休みのところ申し訳ありません、姫様。ですが、火急にございます」


 部屋を通り抜ける、冷たい風。

 きりんと小さな音を鳴らす、軒下の風鈴。


 やめて、シオノーおばあさん。



 お願いだから、言わないで。



「ヘクティナレイア様が、お亡くなりになられました」



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