第53話 覇海のイオシウス(5)
「フハハハハッ! フハハハハハハッ!」
「爺ちゃん! 爺ちゃーん!」
大きな雲が流れる青い空。
朝の陽の光をきらきらと反射する、白い波の飛沫。
浜辺で繰り広げられる暑苦しい筋肉祭。沢山のお兄さんたちが一人の老人?を軽々と投げ合い、揉みくちゃにしています。
「まー、感謝しなくちゃいけないのは、確かにその通りなのよね……」
修練場の海側。その騒ぎを眺めていたわたしの隣に立ち、ナーダさんがあくびをかみ殺して言いました。ナーダさんの言う通り、砂浜で繰り広げられている筋肉的なアレは、わたしたちからの感謝の形なのです。一応。
フハハさんが勝手にやったとはいえ、各島の男性には色々と物を頂き、お世話になってしまいました。いくらこの世界の男性が人に与えまくる生き物だとしても、お礼すら伝えないのはやはり失礼。
お礼といっても何をしたらいいのか微妙に分からなかったわたしはナーダさんにお願いし、ヘイムウッドさんに要望を聞いてもらったのです。すると、
『でしたら、シウ爺ちゃんに会いに行ってもよろしいでしょうか?』
という、実にこの世界の男性らしいお願いが。
ちなみに、ご老人大好きな男衆がフハハさん上陸後すぐゼフィリア領に押し掛けなかった理由なのですが、
『ゼフィリアの島屋敷に男の学生はおりませんし、女性個人の私的な空間に許可なく立ち入る訳には……』
という、至極ごもっともなお返事が。
わたしたち女性はあまり気にしていなかったのですが、男性の方々は物凄くこちらのプライベートに配慮して生活していたらしいのです。
そんな訳で、更に申し訳なくなったわたしはアルカディメイアの男衆のため、フハハさんとのふれあい広場、もといゼフィリア領を開放した次第なのですね。
「フハハハハハッ! 余を誰と心得る! 貴様等の孝行、この余が受け止めきれぬと思うたか! 許す! 敬ってみせい!」
「流石シウ爺ちゃん! よく分かんないや!」
集まった男衆はとにかくハイテンション。ヘイムウッドさんやツェンテさんも全力笑顔でタイヘン嬉しそうです。ホウホウ殿とレンセン殿はその様子を遠巻きに眺めているだけですが、こちらもやはり嬉しそうで。
傍目には暴力というか人間キャッチボールにしか見えませんが、本人たちが楽しいのなら、まーいいんじゃないでしょうか……。
わたしは賑やかな砂浜から視線を避ける様に俯き、
「そもそも、ゼフィリアに後ろ暗いところなど一切ないのです。だったら、ありのまま起こったことを全てぶちまけるまでなのです」
「メイ、あんた逞しくなったわね……」
ナーダさんのかわいそうなものを見る視線を受けながら、わたしは諦めたようにうなだれました。そう、これはゼフィリアの五海候独占と見なされないための情報開示でもあるのです。
フハハさんの長期滞在はディーヴァラーナ災害時と同様、本人の意志によるもの。そして滞在の理由はフハハさんがお料理を認め、それを習得するための時間が必要であったため。
ゼフィリアの意志は一切押し付けていないことを強く主張し、ナノ先生に各領への連絡をお願いしたのです。
わたしから浜辺へと、ナーダさんは再び視線を戻し、
「正直、私はあの人には全くついていけないわ。私達とは生きる速度がまるで違う、あきれる程の思考速度と行動力。メイだから一緒にいられるのよ」
「とにかく、疲れるのです……」
ここ数日の心労からすっかり荒み切った目付きで、わたしは重い重いため息を吐きました。
フハハさんはこの星の陸を守るため、最前線で戦っているありがた筋肉。その労に報いるため色々要求を聞き続けてきたわたしなのですが、ごめんなさい、もうキャパシティオーバーでグッズグズなのです。
ていうか、わたしはゼフィリアの序列のため、講義の方を頑張らねばならない訳でして。
「ぶっちゃけ、これ以上あの人にかかずらっている暇などないのです……」
「災難だった、としか言いようがないわね」
わたしのため息と潮の香りを乗せて吹く、アルカディメイアの風。ナーダさんは風の中、藍色の水平線を臨み、
「それでもね、収穫はあったわ。いえ、啓蒙になった、と言うべきかしら」
舞い上がった金髪を手で押さえながら、
「アーティナは水と砂の島。口にするものに合わせて器の形状を変えるのは必然。その通りだわ……」
わたしは顔を上げ、ナーダさんと同じく水平線の向こうに目を向けました。
ゼフィリア領の茶色い砂浜。
白い雲が流れる青空の下。
「次誰だー、爺ちゃん投げんぞー!」
「ばっち来ーい! っしゃ、爺ちゃん受け取りー。次っぞー!」
「フハハハハッ! フハハハハハハッ!」
「いい感じー! イーカン、イーカン!」
「うぇーいっス、しまってこー!」
テラッテラに肌を火照らせ、無邪気に駆け回る若い筋肉さんたち。その筋肉にめっちゃめちゃにされながら、渚で高笑いを続けるゴキゲン生物。
ナーダさんとわたしは修練場に佇んだまま、
「酷い光景ね」
「ええ、本当に……」
さらさらな砂をさくさく踏む、小さな足音。
茶色い砂浜にぽつぽつ残る、わたしの足跡。
ちょっとくすぐったい砂の感覚を足の裏で確かめながら、わたしは夕暮れの波打ち際を歩いています。左を向けば、そこには静かに波打つアルカディメイアの海の姿。
朝の喧騒が嘘のような、静かな浜辺。橙色の空が濃紺の海を少しずつ黒に染めていく、そんな時間。
「ふー、もう一息です」
ウォーキングの折り返し地点に辿り着き、わたしは太ももをとんとん叩きました。足元に落ちる影に顔を上げると、そこには当たり前のように立つフハハさん。
フハハさんはわたしがウォーキングに出ると、こうして歩調を合わせて一緒に歩き、わたしが波に足をさらわれそうになると、体を支えてくれたりするのです。
ゴキゲンでやかましく超ウザッたい人なのですが、リルウーダさまのおっしゃった通りやってることは基本的に親切なので、ちょっと複雑な心境で……。
夕陽でその陰影を濃くする、フハハさんの超絶整った無駄なイケメン顔。そのお顔を見ていて、わたしはおや? と違和感を感じました。今日はなんだかフハハ控えめで大人しいような気がするのです。
「フハハさん、どうしたのですか?」
わたしが少し心配になって尋ねると、フハハさんはその口を静かに開き、
「背筋を伸ばせ」
着物の裾が濡れるのも構わず、目線を合わせるよう片膝立ちになり、
「娘よ、背筋を伸ばすのだ」
いつになく真面目な様子のフハハさん。
「顎を引け。耳、肩、くるぶし、それらが一直線になるよう、真っ直ぐに立つがよい」
わたしはフハハさんの言う通り、背すじをぴんと伸ばして姿勢を正してみました。
「恥じることはない」
初めて真正面から見る、フハハさんのお顔。三千年以上生きているとは思えない、若々しい青年の面差し。
「そなた一人で立つ必要は無い」
瞳孔が収縮して一色に見える、真紅の瞳。三千年以上、その殆どを夜で過ごしてきたこの人の目には、この世界がどう映っているのでしょうか。
「後ろを見よ」
わたしは砂浜を振り返り、自分の足跡を確認しました。
「分かち合い支え合うことの、なんと眩しいことか……」
足跡が続く出発地点には、腰に手を当てこちらを眺めているナーダさん。そして、いつも通り無表情なイーリアレ。
「フハハさん、あなたは……」
何かがおかしい。
そう思ったわたしが向き直ると、フハハさんは既に立ち上がり、海を凝視していました。
見開かれた紅い瞳。遠く水平線の彼方に向けられた、無感情な視線。
やがて、
「フハハハハハッ!」
「ほえっ!?」
いきなり笑い出し、フハハさんはくるりと島屋敷の方に足を向けました。それから、その右拳を力強く空に掲げ、
「戻るぞ! そなたらに最高の夕餉を与えねばならん!」
翌朝、島屋敷にあの人の姿はありませんでした。
フハハさんはわたしたちが寝ている間に、海に行ってしまったのです。
再び訪れた静かな朝に戸惑いながら、わたしたちが厨房に集まっていると、
「全く、ひと言のアイサツも無しとは。あの人は本当に、いつも突然ですね……。あなた達、せっかくです。ありがたく頂きましょう」
調理台の上を見渡し、ナノ先生が言いました。
ナノ先生が言っているのは、あの人がこの島屋敷に居たという唯一の痕跡。調理台の上に用意されている、五人前の朝餉。焼き魚と練り物の入ったお椀。そして、箸休めの三品。
ナノ先生の少しだけ寂しそうなため息を合図に、わたしたちはいただきますと箸を取りました。
あの人の残した朝食。それは特別貴重な素材を使うことも無い、平凡なお食事。
お椀はカニのお吸い物で、カニの身で作られた練り物がぷかりとひとつ浮かんでいるもの。頭の中の記憶ですと日本料理にある真薯、しんじょに近いのだと思います。
箸休めはヒジキに似た黒い海藻と梅に似た小さな果実の和え物。
そして、赤身の焼き魚。
味だけで言えば、慈味深い、という表現になるのでしょうか。体の隅々まで染み渡るような、自然で優しいお味。人には好みがありますし、これが至高のものだと決定付けるものではないように思います。
ただ、とにかくきれいなのです。
お椀も箸休めも、無駄な部分や雑味が一切無いのです。
「え、どーやって作んの、これ? おいしーんだけどさ、ヤバくない?」
「姫さまあ、どうやったらこうなるのお?」
そしてお食事を始めたわたしたちは、すぐその異質さに気付きました。
何故なら、あの人の作った焼き魚とお椀からは湯気が立っていないのです。それなのにちゃんと温かい。人が食べるのに適するよう保温されているのです。
一番おかしいのが焼き魚。
一切のコゲの無い、その表面。更に、内部まで均一にムラなく通った熱。間違いありません。
「真空低温調理です……」
素材に直接火を当てず、真空状態にして温める調理法。
確かに、わたしはあの人にその調理法を伝えていました。しかし、それだけでは説明できない技術が使われているのは明白。下ごしらえの段階からしてやり方が違うのです。
鉄の温度を上げる。石の温度を上げる。それだけでは絶対に辿り着けない調理法。
そう、電磁波。
火込め石は火を作るだけの石ではありません。灯りがそう。あれは熱を出さず、触れたものを燃やしません。光とはつまり、電磁波の一種。
わたしはゼフィリアでシオノーおばあさんとお母さまに炙り専用の火込め石を贈ったことがありました。あの時わたしが作った石は、遠赤外線に近い輻射熱で素材を炙る石でした。
熱と電磁波を生成する炎の石。それが火込め石。つまりそれは――
「あ……」
この日、この朝。わたしはやっと気付いたのです。
かなめ石の、極紫の命石の正体に。
それは、あの人が何度も口にしていた言葉。火込め石の本領にして本質、それは太陽。そして、極紫の命石はかつてあの人が作り出したもの。
かなめ石は、火込め石を極めて成るものだったのです。
「ご馳走…さまでした……」
調理台に箸を置き、礼。気付けば、フハハさんの用意した朝食はするりとわたしの胃の中に収まっていました。
「ひめさま、どうされたのですか?」
「何でもありません。少し確認したいことがあるので、大広間を使わせていただきます」
朝食を続けるイーリアレをそのままに、わたしは宙に浮く石版から飛び降り、廊下を渡って大広間へ。その広い板間の中心に正座し、落ち着いて深呼吸。
わたしは音飛び石を作り出し、お相手の迷惑など忘れ、呼び出しをしました。
「お母さま、起きてらっしゃいますか? お母さま?」
床に置いた音飛び石に向かい、かすれた声で呼び出しをすると、
『おはようございます、アン。どうしたのですか?』
「朝早く申し訳ありません、お母さま……」
すぐ応答してくれたお母さまのお声に一瞬安堵し、即用件を切り出します。
「出来るだけ率直に、忌憚の無い意見を聞かせていただきたいのですが」
『きた…ん……??』
「えー、ぶっちゃけ酷い言葉になっても構わないという意味で……」
『酷い言葉ですか? 分かりました』
何だかウキウキしているようなお母さまの声に、わたしは腰巻をぎゅっと握り締めました。
あの朝食を目にして、食べて気付いたこと。講義を重ねるうちにわたしの中で積もっていった、漠然とした不安。もしかしたら、わたしの考えと技術はこの世界の人に求められていないのかもしれない。その原因となる認識のズレ。
わたしとこの世界に生きる人の、明確な意識の違い。
「お母さまは、わたしの作る石をどう思われますか?」
ゼフィリア領の島屋敷。
すだれから差し込む、健やかな朝の光。
うるさいぐらい耳に響く、わたしの心臓の音。
『そうですね……。とても……』
お母さまはいつも通りの優しい声で、
『とても、つまらない石だと思います』
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