華の大江戸幻想絵巻~妖怪仕置き人・北条煉弥の事件簿~

日乃本 出(ひのもと いずる)

第一幕 大江戸辻斬り事件~連鎖せし怨恨始末~

第一幕ノ一 剣閃――闇夜を切り裂いて


 まだまだ梅雨も明けきらぬ、蒸し暑い初夏の夜。


 空は漆黒の雲に覆われ、淡い月明かりさえ漏れてこない、まさに深淵の闇ともいうべき闇が辺りに満ち満ちていた。


 そんな中、江戸へと続く街道を、ゆらゆらと揺れる二つの提灯ちょうちんの光。提灯の主は、江戸への道を急ぐ母娘おやこ連れであった。


 こんな時間になぜ道を急いでいるかというと、二年前に江戸に出稼ぎに出ていた夫が、やっとなんとか基盤ができたからといって、故郷に残していたこの母娘を江戸へと呼び出したからである。


 しかし、いくら最近江戸の治安がよくなってきたとはいえ、このような時間に女二人だけで歩くなど、無法者の前に大金を積むような不用心さだといえよう。


 だが、この母娘はともかく早く、夫に、そして父親に会いたかったのである。


 優しい夫。優しいおとっつぁん。


 二年間という時間は、妻には恋慕の情をつのらせ、娘には父からの愛情を一身に受けたいという思いをつのらせていた。


 それゆえ、この母娘は不用心だと心得つつも、この夜の強行軍をおしてまで江戸への道のりを急いでいるのだった。


 それに、ここからなら夜通し歩けば江戸へとたどり着くことができる距離だというのも、この夜の強行軍を母娘に決意させた一因でもあった。


「少し、休もうかね?」


 肩で息をしている娘を見て、母親が声をかけると、


「ううん。大丈夫。早く、おとっつぁんに会いたいもん」


 と、娘はかいがいしく答えた。しかし、娘の足元がおぼつかなくなってきているということに母親はちゃんと気づいていた。


「そうだね。でも、ここは少し休んでおこうね。おまえも、おとっつぁんに久しぶりに会うというのに、おとっつぁんに疲れた顔を見せたくはないでしょう? うん、休もうね。ほら、ちょうどあそこに、腰かけることができそうなおあつらえ向きな切り株があるよ」


 母親が娘に促すように前方を提灯で照らすと、なるほど、たしかに母親の言う通り娘がちょこんと腰かけれそうな切り株が道のわきにあるのが見てとれた。


「ほら、お座んなさい。おまえが少し休んだら、次はおっかさんが休ませてもらうからね。ほら、お座んなさい」


 不満そうな娘を、母親はやんわりと諭しながら切り株に座らせた。


 いくら気丈なところを見せても、娘はまだ十二のよわいを迎えたばかり。切り株の上で一息つくと、疲れからか少しうつらうつらとしはじめた。


 それを見て母親は、ふふっ、と笑みを浮かべ、娘の愛らしい顔に浮かんでいる玉のような汗を手ぬぐいでぬぐってやる。


「まあまあ、こんなに汗をかいて。まったく、今日はほんに蒸し暑い夜だこと。おっかさんも、いっぱいいっぱい汗をかいてしまったよ」


 娘の汗を拭い終えると、母親は自分の汗を拭いながらそう言った。


 そう、母親の言う通り、今日はいつもより蒸し暑くて、そしてなぜかはわからないが、とにかくたまらないほどに不穏な夜であった――――。


 ほんに、薄気味悪い夜だこと。母親がそう思った時、



 ――――ひゅう――――。



 と、一陣の風が吹きすさんだ。それは風と言うには、あまりにも生暖かった。まるで、何者かの吐息のような――――それも、この世の者ではないものの吐息のように感じられた。


 思わず母娘は顔を向き合わせ、身震いした。母娘が先ほどまで感じていた蒸し暑さはどこかに消し飛び、今はただ、背すじに走るうすら寒いものばかりが母娘を支配していた。


 ここにいてはいけない。そう直感した母親が、眠気まなこの娘をなんとか立ち上がらせようとした、その刹那――――。


 ――――ひゅう――――どろどろ――――。


 と、先ほどの生暖かい風が、今度は母娘たちの体にまとわりつくように吹いたのである。


 これには眠気まなこだった娘も、その重くなったまぶたをしゃっきり開かせて驚いた。なんだかよくわかんないけど、急いでここから離れなきゃっ!


 娘はそそくさと立ち上がり、その愛らしい小さな尻についた泥をはたくことも忘れ、おっかさんにぴたりとくっつき、その場から離れようとした。すると、




 えっほ――えっほ――えっほ――えっほ――。




 という、早駕籠はやかごの軽快な声が闇の彼方から響いてきた。


「おっかさん。わたしたちとおんなじだね。きっと、急いでいる人がいるんだ」


 恐怖をまぎらわせようとするように、娘は母親にそう言った。母親もそれにのっかる形で、そうだねぇ。とつぶやいて、声の響いてくるほうへと目をやった。


 娘の言う通り、確かに声が聞こえてくる。それに、どうやら少しずつこちらに近づいてきているようだ。


 だが、いくら目をこらしても、夜更けを駆ける早駕籠なら必ず持っているはずの提灯の明かりが見えてこない。


「変ねぇ……」


 母親は首をかしげた。月明かりが出ているときならいざ知らず、今日のような漆黒の闇夜に提灯を持たずに走る早駕籠などいるはずがない。しかし、あの声は間違いなく早駕籠のはずだ。


 その時、ふっ、と母親の頭に、最近町人の間でしばしば噂にあがっている妙な噂話が思い出された。


 ――――なあなあ知ってるかい? 最近、お江戸じゃあ火事や人殺しや押し込み強盗より、もっとおそろしいものが流行ってるっていうぜ? 流行ってるっていっても、そいつは流行り病とかそんなたぐいじゃねえ。もっともっと始末の悪いもんさ。実はな……妖怪変化の化け物どもが人をとって食っちまうってぇもっぱらの噂なんだよ。ほら、あそこの爺さんだって、実際は化け物に食われちまって…………。


 母親はこの噂話を耳にしたとき、心底アホらしいことだと思った。母親は、昔からそんな物の怪や妖怪の類を一切信じていない人だったからだ。


 ――――そんな世迷いごとなんかより、本当に恐ろしいのはやっぱり人間さ。


 噂話を耳にしては、そう言って母親はしょせん噂話なんてのは噂話にしかすぎないのさと一蹴してきたものだった。


 しかし、ここにきて己の身に妙な怪異らしきものがふりかかり、母親はそんな己の信念が恐怖とともに揺らぐのを感じていた。


 だからといって、ここであからさまな恐怖の素振りを見せてしまえば、そばにいる娘にもその恐怖が伝染してしまうことは必定である。ともかく、ここはつとめて毅然とした態度で臨まなければならぬ。怪異が迫ってるとすれば、なおのこと。まずは落ち着くことが必要だ。


 ひょっとすると、あまりに急いでいたから提灯を落としてしまって、それで提灯を持たずに走っているのかもしれないじゃないか。母親は自分にそう言い聞かせ、声のする方向に自分の持っている提灯の明かりを向けた。



 そして――――戦慄した。



 漆黒の闇の中、薄く浮かび上がってきたのは、早駕籠の駕籠。しかし、その駕籠には持ち手の人間がいないのだ。それにもかかわらず、えっほえっほ、という軽快な声とともに駕籠は左右にその身を揺らしながら母娘の元へと迫ってきているのだ。


 ひっ……! と母親は息をのみ、きゃっ!! と娘は短い悲鳴をあげた。そんなことにはお構いなしに、駕籠はどんどん母娘の元へと近づいてくる。このままでは、母娘の身に災いがふりかかることはまず間違いのないことだろう。


「逃げるのよ! さあ、早く!!」


 そういって母娘が駆けだそうとすると、駕籠から勢いよく、しゅるしゅるっ、といくつもの糸が飛び出してきて母娘の足元に巻き付き、きゃぁ! と母娘はたたらを踏んで地面に転がった。


 娘は恐怖のあまり、足に巻き付いた糸に気づかず必死に地面を這うようにして逃げようとしていた。母親はせめて娘だけでもと、娘の足に巻き付いた糸をどうにかしようと頑張るのだが、その糸はもろい薄絹のような見た目とは裏腹に非常に頑強で、ほどこうとしてもまったくもって歯がたたない。ならばと提灯の火で燃やそうと試みても、一向に燃える気配すら見せなかった。



 えっほ――えっほ――えっほ――えっほ――。



 声と共に駕籠が近づいてくる。先ほどまではお客を運ぶ軽快な声だと思えた声も、今となっては恐怖と絶望を運んでくる、この世にあらざる物の怪の声にしか聞こえなかった。


 やがて、必死にもがく母娘の手の届く距離に、その駕籠が迫った。


「もし! どなたかはわかりませんが、このようなお戯れはおやめくださいませ! 御覧ください! 娘も恐ろしさのあまりに気がふれそうになっておりましょう?! どうか、おやめくださいませ!」


 せめて、この駕籠の怪異が人の手によるものだったら、身ぐるみはがされたとしても、命まではとらないだろう。母親は最後の希望を目の前の駕籠に向かって投げかけてみた。しかし、駕籠からの答えはそんな母親の希望を打ち消すおどろおどろしいものであった。


『かかった――かかった――今宵は、二匹も、かかった――やれ、うれしや――やれ、うれしや――娘っ子の肉はやわらかなるぞ――母の肉はしまりがあるぞ――今宵は宴じゃ――饗宴きょうえんじゃ――』


 地の底から這い出てくるかのような、おぞましい声であった。そんな声が、母娘のこれからの運命を暗喩あんゆするようなことを、調子づけて歌っているとなれば、母娘の心中が地獄の鬼にでも救いを求めるような阿鼻叫喚地獄あびきょうかんじごくにおちいってしまうことも無理のないことだといえよう。


 喉がつぶれるほどに泣き叫ぶ母娘。


 どうか、御許しを……! せめて、娘だけは、どうかお許しを……!


 いやだ。怖い。怖い。助けて! 助けて! おとっつぁん、助けて!


 しかし、駕籠はただ一言、


『やかましいのは、すかん――』


 と発し、またも糸をしゅるりと伸ばし、泣き叫ぶ母娘の口に巻き付けふさいでしまった。


『息の根止めて食らうと、美味くない――活きのよいまま、食らうが一番美味い――』


 ゲッゲッゲッ、と身の毛のよだつ笑い声をあげながら、駕籠がその真の姿を現し始めた。


 ぶちぶちぶちっ、と強い繊維が引きちぎれる音を発したかと思うと、駕籠から八本の毛むくじゃらの足が生え、駕籠の担ぎ棒部分が駕籠の中へと引っ込んでいく。それが完全に引っ込むと、今度は駕籠がどんどん肥大化いき、相撲取り三人分ほどの大きさになると、駕籠は八本の足でカサカサカサっ、と横を向いてすだれのかかった駕籠の昇降部分を母娘のほうへとむけた。


 そして、そのすだれが勢い良く開け放たれると――――そこには見るもおぞましい顔が母娘を覗き込んでいた。


 赤く光る巨大な丸い昆虫のような二つの目。母娘など一呑みにできそうな巨大な口には、それに釣り合う二本の牙がついており、その巨大な口元からは母娘をからめとっている無数の糸が伸びていた。


『宴じゃ――饗宴じゃ――やれ、うれしや――』


 ニタァ~~ッ、と下卑な笑みを浮かべるその姿は、まさに噂話に聞いていた、人を食らうという物の怪にふさわしい姿であった。


 そのおぞましい姿に恐怖の絶頂を迎えた娘は気を失い、母親はせめて最後の抵抗にと提灯を駕籠の物の怪の顔へと投げつけた。


 しかし駕籠の物の怪はその提灯を八本の足のひとつで無慈悲に払いのけ、母親の手にしゅるりと糸を吐きつけ、後ろ手にして拘束した。


『活きがよい――まずは、お前じゃ――』


 下卑な笑い声をあげながら、駕籠の物の怪は母親の体をその巨大な口の前へと手繰り寄せた。そして手繰り寄せた母親の体を八本の足のうちの二本を使い、まるで誇っているかのように高々と掲げた。


 母親は血を吐くような絶叫をあげた。しかし、口をふさがれているので、それはくぐもった唸り声のようなものにしかならなかった。


『安心、せい――娘っ子も、すぐに、食らう――ワシは、腹が、すいておる――』


 大口を開けて笑う駕籠の物の怪の姿に、もはやこれまで!! と母親が覚悟を決めかけた、その刹那――――。



 ひゅう――――さわさわ――――。



 と、この修羅場に似つかわしくない、街道の草花を撫でる爽やかな風が吹いた。


 すると、その風が吹き終わるや否や、その風に勝るとも劣らない、なんとも清々しい男の声が闇夜の中から響いてきた。


「ちょいと、ごめんよ――――」


 駕籠の物の怪が声のした方へと視線を向ける。そこには、地に落ちた提灯の弱々しい明かりによって照らし出されている、一人の浪人の姿があった。


『むぅん――?』


 その浪人の姿に、駕籠の物の怪は思わず怪訝な声をあげた。


 六尺五寸(約一九五センチ)という堂々たる身の丈に、それに合わせたかのような大振りの大小を二本腰に差しており、そのうちの本差の長さは四尺(百二十センチ)に近いものであった。そんなものを腰に差していれば、駕籠の物の怪でなくとも、誰でもこの浪人に対して怪訝と不審の声をあげるに違いないだろう。いくら巨躯の体をもっているとはいえ、はたしてそのような刀をまともに振れることができるものであろうか。


「あぁ、かわいそうに。年頃の娘さんにゃあ、こいつはちときつい仕打ちというもんだぜ」


 そういって浪人は、倒れている娘のもとへと歩み寄り、膝をついて身をかがめ、娘の口元へと顔を近づけた。どうやら息はしているらしい。それを確認した浪人は、まずは一安心ってとこかね、とつぶやいて立ち上がる。


 それを聞いた母親は安堵の息を吐いたが、すぐに己のおかれた状況を思い出し、う~~!! う~~!! と、うめき声をあげながら必死に身をゆすった。


「うん。おっかさんも元気そうでなによりだ」


 ははっ、と笑う浪人に、駕籠の物の怪も同調するかのように、醜怪しゅうかいな笑みを浮かべる。


『ワシも、運がよい――食い物が、自ら飛び込んで、きよったぞ――今宵は――――』


「いいや、お前さんは、運が悪いぜ――――」


 駕籠の物の怪が言葉を言い終える前に、浪人は言葉をかぶせてさえぎった。


 その刹那、ヒュゥン――――っと、風切り音がしたかと思うと、母親を掲げていた駕籠の物の怪の二本の足が吹き飛んだ。


『ぬぅ――?!』


 後じさり驚きの声をあげる駕籠の物の怪。突如として、己の体が落下しだしたことにわけがわからず呻き声をあげる母親。


 そんな母親を、浪人は両手でしっかと受け止め、母親の体を優しく娘のそばへと寝かせてやった。


「ごめんよ。しばらくそこで待っててくれや」


 ぼさぼさ頭をかきながら、浪人は屈託のない笑みを浮かべて母親にそう言った。母親は壊れた浄瑠璃人形のように頭を何度もカクカクと動かし、そのままそこで気を失ってしまった。


「気丈なおっかさんだぜ。てめえの娘ぇ守るために、バケモン相手に大立ち回りしてたんだからなぁ。この世で一番つええのは、母親の愛情っていうが、それはあながち間違いじゃねえのかもなぁ。なあ、そう思わねえかい、アンタも?」


 浪人は笑いながら、ふしゅるるる、と息巻く駕籠の物の怪の前へと進み出た。


『ようも、ワシの足を吹き飛ばしてくれた――それは、まだよし――じゃけんど――キサマ――ようも、ようも、ワシの食事の邪魔をしてくれた――』


「そいつは悪かったな」


『悪いでは、すまん――キサマ、ワシを誰だと、心得ておる――ワシは――――』


 浪人はまたも駕籠の物の怪の言葉にかぶせて言った。


「妖怪・蜘蛛駕籠くもかご


『うぅん――?』


 駕籠の物の怪――すなわち妖怪・蜘蛛駕籠は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。浪人がまさか、己の正体を知っているとは夢にも思わなかったのだろう。しかし、そんな蜘蛛駕籠の思いなど意に介さず浪人は言葉をつづける。


「名前だけじゃなく、色んなことを知ってるぜ? たとえば、テメェのきたねぇやり口とか、よ」


 浪人は腰の小太刀を抜き、蜘蛛駕籠から少し離れて街道の地面をヒュゥンと薙いだ。すると、薙いだ地面からいくつもの絹のような極薄の白糸が現れ、それが提灯の薄明りを受けてきらめきながらひらりと宙を舞った。


「これ、テメェの糸だろう? こいつをテメェの縄張りんところにまき散らしておけば、その上を人が通りゃあ糸が震動してわかるってしかけだ。それで、夜の人けがない時を見計らって、この二人のような獲物を探してるってんだろ? まったく、きたねぇやり口だぜ」


 わざとらしい芝居がかった口調であざけるように、浪人が蜘蛛駕籠に言った。


『キサマ……!!』


「図星だろう? 図星だからそうやってプンプン鼻息荒くして怒っているんだろう? って、くっせえな。テメェの鼻息、まるでこえだめのような臭いがしやがるぜ? ああ、くせぇくせぇ」


『ゆ、ゆるさん――!! ワシは、男を食らうのはすかんが、キサマは別じゃ――!! 食ろうてやる――!! 今、今すぐに――!! 食ろうてやろうぞ――!!』


 オォオオオオォォオォオォォ!! と大地が震動するかのようなけたたましい雄たけびをあげ、蜘蛛駕籠が浪人へと向かって、その巨大な口を裂けんばかりに開きながら襲い掛かる。


「そいつは光栄な話だ。だが、御免こうむらせてもらうぜ――――」


 そう言って浪人は腰を落とし、大きく息を吸い込んだ。そして、蜘蛛駕籠を迎え撃つべく準備を開始する。




 その左手は本差のさやを持ち――――。

 その右手は本差の柄へと添えられ――――。

 その腰は力をためるために限界までひねられ――――。

 その両足は腰のためた力を的確に地面へと伝えるため、根が生えたかのようにどっしりと構えられ――――。

 その心臓は数秒後に来たる力の奔流を全身に瞬時に巡らせるために力強く鼓動をきざみ――――。

 その両目は一瞬の機会を逃さぬために、射貫くような視線で相手を凝視する――――。

 すべてはただ――――外道をほふる、神域に迫らんとする一閃が為――――。




 目の前に、見るものを戦慄させる醜怪しゅうかい極まる妖怪が迫ってきているというのにかかわらず、浪人はこれらの動作をゆっくりと、さながら渓流の清水が流れるかのようによどみなくおこなった。


 だが、それも当然というべきことであろう。なぜなら、この浪人がこのような妖怪を相手にしたことは、一度や二度のことではないのだ。もちろん、浪人も一度目や二度目の時は手間取りもしたが、今となっては妖怪共に慣れ親しみすぎて、妖怪なんぞより町中を歩いているでっぷり太ったお歯黒女のほうが恐ろしい、と愚痴をこぼす始末である。


『食ろうてやるっ――!!』


 蜘蛛駕籠の巨大な口が、浪人の目と鼻の先に近づいた、その刹那――――。



 ――――北条流剣技後ノ先ノ型――――鬼哭閃きこくせん――――!!!!



「カァッ!!!!」


 浪人の溜めていた力が、気合一喝とともに闇夜に爆ぜる。


 四尺にわたる本差が、闇夜を切り裂く雷光がごとく一筋の閃光を伴い、漆黒の闇夜もろとも蜘蛛駕籠の体を真一文字に切り裂いた。


『ぐげがぁっ――?!』


 蜘蛛駕籠は真っ二つに切り裂かれ、緑色の血を吹き出しながら突進していた自らの勢いのまま吹っ飛んでいった。


「かぁ~~~……息がくせぇとくれば、血もくせぇときやがる。こいつぁ、手入れが骨だぜ。まったく、やってらんねえなぁ……」


 浪人は、ぶつぶつと不平を漏らしながら刀についた蜘蛛駕籠の血を振り払い、いまやもう虫の息となりつつある蜘蛛駕籠のそばへと歩み寄った。


「な? やっぱり、運が悪かっただろう?」


 血の泡を吹きながら、蜘蛛駕籠は必死に浪人に問いかけた。


『キ……キサ、マ……な、なにも……の……』


「俺か? テメェのようなクズに教えてやる義理はねえが、せめてもの情けだ。冥途のみやげに覚えておきな」


 本差をチン、と鞘へとおさめ、浪人は蜘蛛駕籠の今わの際の問いに答えてやった。


「公儀御庭番・特忍組所属・妖怪仕置き人、北条煉弥ほうじょうれんや――今宵も人に仇なす、悪辣非道あくらつひどう、外道極まる悪党妖怪、仕置きし、たてまつりてござそうろう――――」


 その時、空を覆っていた黒雲の切れ間から、わずかばかりの月光が地に落ち、妖怪仕置き人・北条煉弥の堂々たる涼やかな姿を淡く照らし出した。


 そしてそれが、蜘蛛駕籠がこの世で見た最後の光景となったのだった。

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