第一幕ノ二十四 傷つけられた誇り――利位の謀


 

 道場に竹刀が肉を打つ乾いた破裂音がほぼ同時に二つ響く。次いで、


「ぐぁっ!!」


 という柳生門下生のうめき声と、どどどっ! と転がり倒れる柳生門下生の激しい音が道場にこだました。


「……次」


 雪の利位の名にふさわしき、冷たい刺すような一声が門下生達に向かって言い渡される。しかし、門下生達の中に威勢よく応! と答えるような者などおらず、荒れてなさる若の御相手など御免こうむるとばかりにざわめくばかり。


「……聞こえなかったかい? 次だ。次ぃ!!」


 門下生共の腑抜けた姿にイラ立ちを覚えたか、利位という男にしては極めて珍しき荒々しい怒声一喝。しかし、そんな怒声を響かせれば、なおさら門下生共が委縮するは必定である。


「ふぅん……? いいよ。かかってくる気がないのなら、僕のほうから行くからさ――――」


 そう言って、利位が腰を落としたその時であった。


「そこまでぇい!!」


 突如として、如何なる者をも黙らせるような迫力を帯びた重厚なる怒声が、道場内に轟いた。


 道場内にいる全ての者が声のした方向に目をやる。すると、そこにいるのは――――、


「……父上」


 道場の入り口にて仁王立ちの構えをとっている、今代柳生家当主――すなわち、利位の父である利忠としただであった。


「皆の者……思うところは色々とあるであろうが、すまぬが何も言わずに利位と二人だけにしてくれぬか?」


 すまぬも何も、門下生達からすれば利位の父の言葉は渡りに船である。やれやれ助かったと、いそいそと道場から出ていき、道場の中に残ったのは利位と利忠の二人のみ。


「何用――でございますか?」

「何用もクソもあるまい。戒めをやぶりよって……!」


 ゆっくりと利位に歩み寄る利忠。心なしか、周囲の空気がピリピリと張りつめているように感じるのは、利忠の身体からにじみ出る怒気のためか。


「他流派との私闘は禁ずると、あれほどいっておいたのに……よりにもよって、源流斎殿と手合わせをするなど……!!」

「行きがかり上、せん無きことでした」

「ほう? わしが聞いたところによると、キサマが先に無礼を働いたと聞いたが?」

「無礼も何も、僕はただ思っていることを口に出しただけでございます」

「それが無礼なことだと言っているッ!!」


 道場内を揺らすほどの一喝。されど利位は涼しい顔して、


「おや? そうでしたか。それはそれは、僕の不徳の致すところでしたなぁ」


 ヘラヘラと能面のような笑みを浮かべる利位に、利忠は煮えたぎる怒りをなんとか押しとどめようと努めて平静な声でもって、


「ふん……! して、源流斎殿と立ち合ってみて、キサマは何か得るものがあったか?」

「得るもの、ですか?」

「そうよ。キサマも剣士の端くれならば、立ち合ってみることで得るものというものがあるはずだ。それとも、何も得るものがなかったとでもほざくつもりか?」


 この利忠の言葉に、利位は沈黙をもって答えとした。しかし、利位は気づいていないが、利位は自分の身体でもってして、利忠に雄弁に物語っていた。


「ほう? 震えておるか――――」

「これは……武者震いというやつですよ」

「はっ、笑止!! ならばその目はなんだ? そも怯えた目はなんだ?!」

「かような目など……!!」


 言い訳をしようとする利位に、黙れぇい!! と利忠の地がうごめくほどの一喝。そのあまりの迫力に、うっ?! と身を後じさらせる利位。


「得るものなどないだと? なにを見当違いなことをのたまっておる! 得るものがあったではないか! キサマは今、剣士として初めて恐怖というものを感じておるのだ!」


 目が裂けんばかりに見開かせる利位。


「恐怖……?! この僕が……恐怖を感じているというのですか?!」

「そうともよ! 源流斎殿と立ち合った時、キサマは垣間見たはずだ……決して埋めることのできぬ、圧倒的な力の差というものを――人の身にて、神域にまで達した最強の剣客の一振りというものを!」


 利位の脳裏に源流斎と対峙した時のことがよみがえる。己の目でとらえることすらできなかった、源流斎の到達せし、神域の一振りが。


「クッ……!!」


 忌々しげに利忠から目をそらす利位。


「利位よ……キサマは、確かに腕はたつ。才能があるのも認めよう。だが……それがある意味で言えばキサマの不幸であったのかもしれぬ」

「不幸――?」

「そう、不幸よ。キサマは確かに腕はたつ。だがそれは門下生達や二流の剣士どもをいなせる程度の、中途半端なものにすぎん。いいか、キサマは柳生の名を背負っているからこそ、今までキサマと相対する剣士は、常に先に挙げた門下生達と二流の剣士しかおらなんだ。そしてキサマはそれらの剣士共を全て振り払ってきた。すると、剣術のことなど何も知らぬ町人共が、端麗なる美男子であり、柳生の息子の不敗の剣術家などとキサマをもてはやし始めおった――されど、そのような評判などに、何の価値があるものか。一度も一流の――真の剣術家と相対したこともない若造など、剣術家と名乗ることもおこがましいヒヨッコよ! だが、キサマはそれがわからずに、町人達がもてはやす評判をそのまま受け入れ慢心し、さらには柳生の名を笠に着て町娘をたぶらかす放蕩三昧――いい加減、目を覚ませぃ!! 恥を知れぃ!! 源流斎殿の道場での一件は、すでに江戸の町中の噂になっておるのだ!! そんなキサマが、あの源流斎殿の一番弟子の誉れ名高き藤堂家の女剣士を妻に迎えようとするなどと……痴れ者にもほどがあるわ!! よいか!! これ以上、柳生の名を地に堕とそうとするのならば――――息子であるキサマであろうとも、ワシは容赦なくたたっ斬る!! よく覚えておけぃ!!」


 立ち去ろうとする利忠を、利位が一つ! と、呼び止めた。振り向く利忠。


「なんだ?」

「父上――父上ならば、あの源流斎殿に一矢報いること、できましょうや?」

「何を聞かれるかと思えば……まっこと、キサマは痴れ者よ!」


 はっはっはっ! と高笑いする利忠。ああ、やはり柳生宗家を背負いし父上は違う。父上を上手く使えば、あの忌々しい死にぞこないに恥をかかせることが――――と、利位は頭の中で算用を立てはじめたが、それは利忠の次なる言葉で無惨にも打ちくだかれてしまうのであった。


「いくら柳生宗家なるワシとはいえ、神には勝てぬ。ワシはまだ人の身よ。柳生宗家などと呼ばれようとも、ワシも一介なる剣術家。いずれは源流斎殿のような、神域に達することを渇望し、日々研鑽とと精進を続けるしかない未熟者よ」


 呆気にとられている利位を残し、利忠は道場を後にした。この一件で、放蕩息子が少しでもマシになってくれればと、淡い期待を抱く父の思いが果たして利位に届いているであろうか?


 ――――否。届くはずがない。届くような果報者であれば、町娘の心を踏みにじり、壊すことに喜びを感じるようなゲスになってなどいようものか。


「父上も――いざという時は使えないなぁ!!」


 道場の板を踏みぬかんばかりの利位の地団駄。ひとしきり乱れたのち、ぜぇぜぇと肩で息をしながら利位は思案を始める。


 あの死にぞこないめ……!! 僕をコケにしおって、タダですませてやるものか!!


 歯が砕けんばかりの激しい歯ぎしり。握りしめた拳からは、あまりの力で握りしめたばかりに爪が掌に激しく食い込んだことによる出血が、利位からの拳から滴り落ちていた。


 まさに“憎悪”と形容するにふさわしい激しい憎しみ。もし、憎しみという感情によって人を殺せたとするならば、今の利位の憎しみは江戸の町民全てを皆殺しにしても足りぬほどのものであった。


 絶対に――!! 絶対に――!! 思い知らせてくれる――!!


 されど、どれほど憎しみを駆り立てようと、正攻法で源流斎に立ち向かうことは、赤子が巨人に挑むが如き暴挙。いくら誇り高い利位とはいえ、実際に対峙したゆえに、源流斎の剣の腕だけはさすがに認めざるを得なかった。そして、その事実がまた利位の憎悪を激しく燃え上がらせる。


 憎悪、厭悪えんお厭忌えんき、怨恨、宿怨しゅくえん…………。ありとあらゆる憎しみの感情が、利位の心の中を支配し、激流のように荒れ狂っていた。


 どうしてくれよう?! どうしてくれれば、あの死にぞこないを最も苦しめることができよう?!


 それにはあの死にぞこないは花のように愛おしむ、まさに華のような気高きあの女剣士を屈服させ、その清純を糞尿の汚泥のように徹底的に汚してやることだ!!


 ならばどうする?! 真っ向から向かうのは愚の骨頂!! ならばどうする?!


 利位は熟考する。己の全神経をかたむけ、ひたすら熟考する。己の誇りを取り戻すために。己の欲望を成就させるために。


 そして…………剣の神ではなく、智の神が利位に天啓を授けた。


「ふ、ふふ……はははははははっ!!!! 父上!! 名も知らぬ先代達よ!! この利位、生まれて初めて、貴方達に心より感謝する!! 『柳生』という家を作ったことを!! 僕を『柳生』の家の人間として生を受けさせてくれたことをッ!!!!!!!」


 聞く者全ての心を凍てつかせる、まっこと下卑た笑い声が道場内にこだまする。


「確かに……僕はあの死にぞこないに斬られたかもしれない。だが……今度は僕があのクソジジイを斬る番だ!! ただし、僕が斬るのは――――肉体ではなく、心だがなッ!!!!!!!」


 狂乱。その言葉しか浮かばぬような痴態をさらしながら、利位は己の部屋へと駆け出していった。


 部屋に駆け込むと、すぐに利位は筆をとって書状をしたためはじめた。


 その書状の宛名には――――徳川の将軍の名が記されていたのであった。

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