第一幕ノ十六 道場朝稽古――羞恥の利位

 ……きやがったか。


 一抹の不安を感じ、煉弥は凛の表情をうかがってみる。凛の表情は、どうしたものかという困惑の色に染まっていた。そんな凛の困惑など意に介さず、利位はずけずけと稽古場の中へと入ってきながら、


「ああ、凛殿。粗末な稽古着も、貴女が身に纏えば、それはすでに天女の羽衣――否、天照大御神の正装にすら感ぜられる。まったく、貴女のその神々しい美しさこそ、まさにボクの妻としてふさわしいものだよ――――」


 じとっとした蒸し暑さが体にまとわりつく初夏だというのに、稽古場にいた利位以外の全ての人間は、その背筋につららを押し当てられたかのような寒気がおそった。その後、門下生達の、妻? なんのことだ? というざわめきがあふれ出す。


 凛に歩み寄ろうとする利位。座ったまま思わず身をひきたじろぐ凛。その間に立つは、煉弥。そんな煉弥に利位が、


「おや? キミは昨日の浪人だねぇ。なんだい、やはり凜殿が心配かい?」


 この利位の言葉に、凛が、えっ――? と頬に淡い紅をさして上目にて煉弥を見上げる。


「てめえの知ったことかよ」

「クククッ――学がないねぇ。昨日と一言一句変わらぬ罵倒ときたか」

「学はねえが、人を見る目はあるつもりだぜ。そしてその俺の目には――てめぇがお釈迦様も激怒しちまうくらいのクズ野郎だってことがよぉ~く見えてるんだ」

「ふぅ~ん……言ってくれるじゃないか?」


 不穏な空気をかもしだす二人によって、稽古場の温度が一気に冷えていく。まさに、一触即発。しかし、そんな空気を打ち払うは、源流斎の一声。


「のぉ、柳生の愚息よ。ワシの覚え違いでなければ、ワシはそなたに朝稽古を共にと言うたはずじゃがのぉ? なにゆえ、このような遅い刻限に現れたのかの?」


 クククッ、と忍び笑いを浮かべて利位が答える。


「確かに、源流斎殿からのお誘いをいただきましたが、失礼ながら、ボクはもう、他人から剣を指南などしてもらわずともよいと考えておりますゆえ……ですから、ボクは稽古をやりにきたのではなく、近い将来の妻である、凜殿のお美しいお姿を拝見しにきただけでございます」


 ぶるるっ! と両手で体を押さえながら身震いする凛。きっと全身に鳥肌を立たせているのだろう。それほどまでに、利位の声は甘ったるく、そしてそんな声を出す利位を、凛は昨夜の初対面の時から生理的に嫌悪していた。


 へなちょこな腕前のくせして、でけえ口叩きやがる……!!


 そんな煉弥の心を代弁するかのように源流斎が、


「かっかっかっ……! 吠えるわ、吠えるわ! 柳生の威光なければ己に何も残らぬ、上っ面のオカメイヌが、よう吠えておるわ!」


 と利位を大いにコケにすれば、利位その表情を憎悪にゆがませ、


「へぇ……そこまでおっしゃるからには、一手御指南をお受けいたしましょうか」

「ほっ!! ワシの指南が欲しいとな? よかろう、よかろう! 言っておくが、ワシの指南は柳生のそれとは比べ物にならんぞ?」


 源流斎がすっくと立ちあがる。五尺(約一五十センチ)になるかどうかという小柄な老人が、その自慢のあごひげと手でもてあそびながら稽古場の中心へと歩み寄りはじめると、稽古場の門下生達が慌ててその行く手を開く。


「お、お師様……」

「じっちゃん……」


 煉弥と凛の異口同音の呼びかけに、源流斎は微笑を浮かべて小さくうなずいて見せた。そして門下生の一人から竹刀を受け取ると、


「ほれ? どうした? さっさとこっちにこんか」


 と、利位を手招く。利位はクククッ、と忍び笑いを浮かべ、腰の大小を床に置き、二本の竹刀を門下生から受け取り、不遜な歩き方で源流斎の前へと歩み寄る。


「名高き源流斎殿がお相手とあっては――手加減など、失礼にあたりますねぇ?」

「かっかっかっ……! ほんに、口だけは達者じゃのう!! 余計なことを考えず、ワシを殺す気でこいや。そんかわり、ワシも――おぬしぃ殺す気でいくからのぉ?」


 そう言う源流斎、陽の構えをとってみせれば、それに応じて利位、腰を軽く落とし、両手をだらりと垂らし、下段の構えをとってみせた。


「合図じゃ、凛」


 源流斎の言葉に凛、事の展開の速さに飲まれ気味であったが、すぐにいつもの平静さを取り戻し、


「では……はじめっ!!」


 と高らかに開始の合図を出した。


 すると、その刹那――――、


 パシィィーーーーンッ!! という強烈な破裂音が一つしたかと思えば、利位の左手の竹刀が壁に向かって吹き飛んでいった。


「なっ――?!」


 驚愕の声をあげる利位。


「なんじゃぁ? 立ち合いの最中さなかに竹刀を取り落とすとはどういう了見かいのぉ?」


 そういう源流斎の手元が刹那、ブレて見えた。そしてまたしても響く破裂音。吹き飛ぶ、利位の右手の竹刀。


「そっ、そんな……!」


 利位の表情に、明らかな狼狽の色が浮かぶ。竹刀を吹き飛ばされ、空手になってしまった利位に向かい、源流斎が問う。


「どうじゃ? 実戦ならばこれでお主はたたっ斬られてあの世行きなわけじゃが――よければ、今の気分を教えてくれんかのぉ?」


 かっかっかっ! と笑う源流斎。わなわなと身体を震わせる利位。おそらく、人生で初めての敗北であったのだろう。それも柳生宗家から禁じられていた他流試合を勝手におこなったうえ、さらには相手流派の道場において衆人環視の前での圧倒的な実力差でもってしての敗北。


「――――!!」


 刹那、何かを口にしようとする素振りを見せたが、結局何も語らず、憤懣やるかたないといった様相でくるりと身をひるがえし、早足でもって利位は稽古場から出ていった。


 構えをとき、ほぉ、と一息ついて周囲に問う源流斎。


「皆の者。学びなさい。そして、常に謙虚でありなさい。驕りは剣を鈍らせ、驕りは魂を腐らせ、驕りは周囲に伝染する。謙虚であれ。されど、己を卑下するなかれ――――では、本日の朝稽古はこれにてしまいとする」


 呆気にとられていた門下生達、この言葉に我に返り、そして師の衰えぬ剣の腕に兜を脱いで感銘し、はいっ!! と今日一番の大声でもって源流斎の言葉に応えた。そんな中、煉弥の耳に凛の問いかけが聞こえた。


「……お師様の剣――キサマは見えたか?」

「……いや。おま――姉上は?」

「……見えなかった。どうやら、まだまだ互いに精進が足りぬようだな」


 ふふっ。と煉弥に無邪気な表情を見せる凛。そんな凛の表情に、煉弥の心がうずく。


「凛よ。すまんが、茶を一杯いれてくれんかのぉ?」


 源流斎の声に、はい、ただいま。と凛が答える。そして凛が稽古場から出ていったところを見計らい、源流斎が煉弥においでおいでと手招きをする。


「なんですかい?」

「これでしばらくあの阿呆は大人しくなるじゃろう。その間に、ワシと蒼龍が柳生となんとか話をつけてきてやるから、心配せずともよいぞ」

「すみません」


 頭を下げる煉弥。


「よい。よい。凛は、ワシのかわいい孫じゃ。そしてお主も、ワシにとってはかわいい孫じゃ」


 そう――凛の母親であるツバメは、源流斎の義理の娘だったのだ。ツバメは源流斎のもとで剣を学び、そして今またその娘である凛も源流斎のもとで剣を学んでいる。蛙の子は蛙、というが、まさにその通りかもしれぬと、ツバメの事を知る人間は凛を見てよく口にするものだ。


「ところで――昨夜、また辻斬りがでたそうじゃな?」

「ええ。ですが、相変わらず下手人の姿をとらえることはできぬそうです」


 真実は、やっと下手人の姿が見えたところだが、それを源流斎に話すわけにはいかなかった。


 北条家と昔から仲のよい源流斎であるが、だが源流斎は北条家の役職についても、特忍組についても、化け物長屋についても、一切関知していないのだ。ゆえに、特忍組の鉄の掟より、一切の事情を源流斎に話すわけにはいかないのである。


 そして、それは凛についても同じことであった。


 そしてそれが、煉弥の大きな悩みの一つでもあった。


 どんな理由であれ、凛を騙していることが――そして、凛がもっとも知りたいことを知っていながらダンマリを続けて顔を会わせることが、煉弥には何よりもつらいことであった。


「そうか……まあ、お主がそう簡単に後れをとるとは思わぬが、夜道には気をつけぇよ? いや……気ぃつける必要はないか。なんせ、お主にゃあ、暗い夜道を忍び歩いて逢引するような相手ぇおりゃせんからのぉ」


 かっかっかっ! と高らかに笑う源流斎。


「こいつぁ、手厳しい――――」


 その時――――チリリン。という鈴の音が煉弥の頭の中で響いた。タマからの緊急連絡の合図である。鈴の音が響き終わると、


『蒼龍が今後のことについて話し合いの場を持ちたいといってるニャ。おみゃ~も用件が済んだら、楓の部屋へと急いでこいニャ』


 と、タマの声が頭の中で響く。わかったよ。と頭の中で念じて答える。そして、源流斎に向かって、


「では、俺はこれで――――」


 振り返り、稽古場から出ようとする煉弥の背中に源流斎が投げかける。


「凛と、話していかぬのか?」


 話したいことは山ほどある。今まで隠していたことを凛にぶちまけることが出来れば、どれほど気が楽になるだろう。しかし、それをやってしまえば――凛は果たして、煉弥と今までと変わらぬように接してくれるであろうか?


 ……きっと、今まで通りとはいかぬだろう。


 だから、俺は決めたのだ。


 俺が知りうる秘密は墓まで持っていこうと。


 そして――――凛とは離れて生きていこうと。


「ええ……別にございません」


 複雑な感情が込められたこの一言を残し、煉弥は稽古場から出ていくのであった。

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