第一幕ノ十五 道場朝稽古――剣の師は柳が如く
八重の部屋から出た煉弥は、凛との約束であった道場の
江戸の町の朝は、たとえどんなときであろうとも活気と生気に満ち満ちている。おそらく、江戸という町が存在する限り、いつの時代もこの活気に衰えがくることはないだろう。煉弥は江戸の町の喧騒を見るたびに、そんなことをいつも思っていた。
道場へと向かう道すがら、かわら版の景気の良い声が町中に響いていた。
「さぁ~さぁ~お立合いお立合い!! 御用と急ぎでない方は、ゆっくり聞いておいで、見ておいで!! 昨夜、久方ぶりにまん丸お月さんがお顔をだして、こいつぁ風流だなんて思っていやがりゃ、まん丸お月さん風流過ぎて狂気を下郎にくれてやったか、
この口上に、やじ馬根性の塊とも言うべき江戸っ子達、押すな押すなとお祭り騒ぎのようにかわら版へと、押し合いへし合いながらたかっていく。
人ひとり死んでるってのに、お気楽なもんだ。明日は我が身かもしれねえってのによ。
そんな浅ましきやじ馬共を横目に歩いていると、煉弥の背中にとある感覚が襲ってくる。
それは、煉弥が江戸の町中を歩いていると、必ず向けられる衆人環視の奇異の視線。
巨大な体躯。巨大な刀。ぼさぼさ頭に、薄汚れた服。
たしかに、こんな格好をした浪人が歩いていれば、町人が奇異の視線を向けたくなるのは仕方がないこととも言える。ゆえに、煉弥自身もそんな視線を向けられることを重々承知しており、慣れたことでもあるから普段なら気にも留めないのだが――――しかし、今日の視線には、いつもとは別な感情が含まれていることを、煉弥は薄々ではあるが、その肌で感じ取っていた。
それは――疑いの視線であった。
――ひょっとして、あいつがやったんじゃねえのか?
人というものは、自分達とは見た目が違う異質な者に対し、自然と迫害の目を向けてしまうものだ。しかし、それは逆説的に考えれば、異質な者に対して抱く恐怖の感情の発露であるともいえた。
それなりに長い仕置き人生活によって、煉弥はそんな人間たちの感情の表裏というものを、まざまざと目に焼き付けてきた。それは醜くもあり、時に美しくあり、そして儚くもあったものだ。
俺が他の仕置き人と違って、人間嫌いにならねえのも、やっぱり俺が人間であり、そしてまた人間のそういう弱さを俺自身が持ってるからなのかもな。
ふっ、と鼻で一つ笑い、己に突き刺さる町人達の疑いの視線を、胸を張って吹き飛ばしながら、仕置き人・北条煉弥は江戸の町を闊歩するのであった。
やがて目的地である道場が見えてきたところで、煉弥は徹夜疲れを吹き飛ばそうと、一度大きく深呼吸をしてから己の頬を両手で張って気を入れ直した。
さぁて。鬼が出るか蛇が出るか――――。それとも、タツ兄が言ってたように、じっちゃんが利位の野郎に一発カマしてやるのか――――。ともかく、気合を入れておかないとな。
道場の傍へと近づくにつれ、イヤァーーーーッ!! トォアーーーーーッ!! といった、朝稽古の活気の良い声が聞こえてくる。声の調子から察するに、どうやら朝稽古はもう半ばまで進んでいるようだ。
やれやれ間に合ったか……という安堵と、やれやれまたお小言か……という感情が入り混じったため息を一つ吐く。
そして“
この道場は剣術の稽古が無いときは、凛が近所の子供に字の読み書きを教えている、いわば寺子屋という側面も持っているのだ。
子供たちから藤堂先生と呼ばれると、すかさず凛は、そんな他人行儀な呼び方ではなく、凛と呼んでくれるといい。と、それこそ見た者の心を一瞬で奪ってしまうような、美しくそして優しい微笑を子供たちに対して浮かべてみせる。
じゃあなんで俺は凛と呼んじゃいかんのだ? と用事ついでに寺子屋に顔をだした時に、凛に何度も問いかけたことがあるが、凛は決まって、キサマは姉上と呼べ!! と目を釣りあげての一喝を煉弥によこしてくれるのがお約束となっていた。
そのせいか、今では寺子屋の子供たちからすら、たいへんだね。と憐みの目で煉弥は見られているのであった。
とまあそれはさておき、道場の玄関口へと入ると、そこにズラリと並んでいる草鞋の量を見て煉弥は思わずうなりをあげた。
「すげえな……あれからまた門下生が増えてんじゃねえか。柳至天流開祖・柳源流斎――老いて益々盛んなりってか」
そうつぶやきながら、煉弥もまたズラリと並んでいる草履の中に、脱いだ己の草履を並べた。そして道場の稽古場の方へと向かう。
稽古場へと続く渡り廊下を歩いていると、煉弥はあることに気がついた。
先程までは外まで門下生たちの威勢の良い声が響いてきたのに、今はやけにシーンとしている。
こいつぁ読み違えたか。稽古はまだ中頃かと思ったが、どうやら終盤にさしかかっているらしい。
柳至天流道場の朝稽古のシメは、門下生同士による一対一の立ち合いと決まっている。このシメの立ち合いは、実戦さながらの様相で行われることで有名であり、気を抜けば稽古とはいえ大怪我を負ってしまうことも珍しくないほどの厳しさなのだ。ゆえに、門下生たちは沈黙をもってこの立ち合いに望むのである。
そもそも柳至天流という剣術は、開祖である柳源流斎が日本全国の剣術道場を渡り歩き、そこで得た経験と源流斎独特の当時では珍しい考え方である“なんでも取り入れて、なんでも応用する”という柔軟な発想の元にて生まれた剣術である。
柳至天流の剣の基礎は一刀流。
されど、その型は決まっておらず。ただただ、人の数と等しく剣の型はあり。型にはまらず、己を見つめよ。されば己の剣の型――おのずと眼前に現れり。
このような訓示からわかるように、ともかく奔放な考えの剣術であるが、そんな柳至天流にも、たった一つだけの――そして唯一無二の決まりごとがある。
柳至天流の決まりごと、それは――二の太刀を考えるべからず。ということだ。
それは先の先の一太刀であっても、後の先の一太刀であろうとも、ともかく相手を一の太刀によって屠ることこそが、柳至天流の極意であると源流斎は定めていた。
この考えは、源流斎が薩摩の示現流に触れた時、その考え方に深く感銘したことが由来となっており、だからこそ柳至天流の剣は、型に重きを置かず、ただ“速さ”というこの一点のみに集約されているといっても過言ではない。
それゆえ、この“速さ”というものを追求するために、柳至天流はこの時代において、道場稽古としては非常に稀である筋力トレーニングを行っているという点から見ても、源流斎がいかに先進的な考えを持っているかが伺いしれるというものだ。
煉弥が稽古場についてみると、案の定、煉弥の予想したとおり、二人の門下生が稽古場の中心で他の門下生達に囲まれている中で、今まさに立ち合わんと相対している最中であった。
邪魔にならぬよう、すすっと足音をたてぬように注意し、身を軽くかがめて摺り足にて稽古場の中へと入る。そんな煉弥を、稽古場の奥からすさまじい殺気を伴った視線が射抜く。
……完全におかんむりだな。
戦々恐々、チラリと視線のほうへと目を向けると、そこには稽古着を身に纏って正座している凛が、それこそ視線だけで相手を殺せそうなほどの厳しい目つきを煉弥に向けていた。その横では、道場主である柳源流斎が、中国の深山の仙人のように伸ばした自慢の白いあごひげを撫でながら、かっかっかっ、と柔和な笑みを浮かべていた。
両手を合わせ、怒り心頭の凛大明神に向けて、遅れてすまんっ!! と拝み倒す。そんな煉弥の願いが通じたか、刹那、――しょうがない奴だ。と凛の口元が小さく動くのが見え、凛は厳しい表情を引っ込めて、立ち合おうとしている門下生二人の方へと視線をうつした。
やれやれ……。とため息一つ吐き、稽古場の隅に座って煉弥も凛にならって二人の門下生へと視線をうつす。
一人は中段――正眼の構え。
一人は上段――天の構え。
背丈は同じくらいだが、年齢の点で違いがあり、正眼の門下生が十代半ばくらいで天の門下生が二十代後半といったところか。
正眼の門下生の竹刀の切っ先が微かに震えているのが見て取れる。武者震いととるか、それとも怯えととるか。
対して天の門下生、微動だにせず獣が如く眼力で、正眼の門下生を見据えている。やはり、正眼の門下生の震えは、怯えによるものと見てよいだろう。
この勝負――始める前からすでに結果は明らかだな。
「では……はじめぃ!!」
源流斎による立ち合い開始の合図が稽古場に響き渡る。
キェェエエエエイッ!! と声高らかに叫ぶ正眼の門下生。しかし、その威勢の良い声とは裏腹に、その両足は地に根が生えたかの如く動かない。
対して天の門下生は、威勢の良い正眼の門下生を迎え撃たんと、ただただ静かに構えを保つ。その姿、さながら悪鬼に睨みをきかす仁王像が如し。
動かぬ二人の門下生に対し、師の源流斎が、
「ほれっ、ほれっ、どうしたどうした?
と愉快でたまらないと言った様相で茶々をいれれば、横に座す凛がすかさず、
「お、お師様……お静かに……」
あぐらをかく源流斎の足をペシリと打つ。しかし、それが呼び水となったか正眼の門下生、
「イヤァァァァーーーーッ!!」
と気合一閃、渾身の突きを放つ。されど天の門下生、それを待ちわびておったぞと、身体を横に向けて突きをかわし、
「ドォォリャァァァーーーーーッ!!」
と雄叫びと共に、見事な上段からの振り下ろしを正眼の門下生の腕へと見舞う。
バシィィィーーーンッ!! という、竹刀が肉を打つ強烈な音が稽古場に響く。
「ぐあっ!!」
打たれた正眼の門下生、竹刀を床へと落とし、自身も床へと崩れ落ちる。それを見た源流斎、大きくうなずき、
「よぉし、そこまでぃ!!」
と立ち合い終了の合図を出した。
天の構えの門下生、崩れ落ちた正眼の門下生に、大事ないか? と、かがんで問えば、正眼の門下生、え、ええ。ご指導、ありがとうございます。と答え、落とした竹刀を震える手で持ち、ゆっくりと立ち上がって立ち合い開始時に立っていた場所へと移動した。それを見守っていた天の門下生もまた、立ち合い開始時の場所へと移動する。
そして、二人の門下生は互いに一礼し合い、次に、師である源流斎の方に向かって一礼した。
「うむ。打たれた方。まずは体をいとえ。後、なぜ打たれたか、何が己に足りぬか熟考せよ。打ちし方。どうじゃ、まだやれるかいの?」
問われた門下生、ゆっくりとうなずく。それを見た源流斎、そうかっ、そうかっ、と嬉しそうにかかかっ、と笑うと、
「ならば、凛。相手をしてやるがよい」
「――御意」
そういうと、凛は膝の上に置いていた白いハチマキを手にし、頭をくいっと動かして長い艶髪たなびかせ、それを手に持ったハチマキでさっと結び、すっくと立ちあがる。その流れるような所作事に、門下生達から思わず、おぉ……という声が漏れた。
門下生の一人から竹刀を受け取り、凛が稽古場の中心へと歩み入って天の門下生に一礼する。凛の所作事に見とれていた天の門下生も、はっ! と我に返ってあわてて一礼を返した。
それを見ていた煉弥の耳に、門下生達のささやき声が聞こえてきた。その方へと目を向けると、武士と思しき門下生同士が、密談を交わしている姿が目に映った。
――あの御仁は、まだ道場にきて日が浅いのであろう?
――然り。ゆえに源流斎殿は、あの御仁と凛殿を立ち合わせて、あの御仁がここを去るかどうか見極める腹積もりなのであろう。
――くわばら、くわばら……。あの鬼女は容赦という言葉を知らぬからのう。
鬼女――それが、武士達からつけられた、凛のあだ名であった。
古くから徳川家に仕える由緒正しき家柄である、藤堂家。その当主・藤堂凛。
そして、江戸にその名を轟かす、女剣士・藤堂凛。
町人達からすれば、凛がまさにその名を体現する凛とした絶世の美女であり女丈夫でもあるとくれば、お祭り好きで粋を追い求める江戸っ子たちが凛をもてはやすは、まさに必定ともいうべきことだが、武士達からすれば、これほど腹立たしいことはないだろう。
江戸時代というものは、男尊女卑が徹底された時代である。それも、現代人が想像もできぬほどの、徹底した男尊女卑。
そのような時代であるからこそ、武士達にとって、凛という存在は目の上のタンコブどころではないほどに目障りな存在といえた。
そもそも、自分達と同じ身分であるというのが気に食わぬ。しかも藤堂家は名家であり、それを女が継ぐというのは、例え他人事とはいえ、武士達にはとても我慢のできることではなかった。女よりも下になるなど、そのようなこと、たとえ仏がお認めになられても、我らは決して認めることなど出来ぬ。
さらに、凛の剣の腕前がまたいけない。そこら辺の武士の剣術など児戯に等しいといわんばかりにいなせるほどの、剣術の腕。武士の存在意義の一つとも言っても過言ではない剣術さえも、武士達は凛の足元にも及ばないのだ。メンツの塊、メンツこそが全ての武士にとって、これ以上の屈辱などあるものか。
トドメは、凛の他に類を見ないほどの美しい容姿と、恵まれた体躯。当時の男子の平均身長が五尺二寸(約一五七センチ)ほどなのに対し、凛のその身の丈は五尺八寸(約一七四センチ)。まさに、見上げてしまうほどの差だ。
もし、凛が
家柄でもかなわぬ、剣術でもかなわぬ、ひいては容貌・体躯でもかなわぬ、さらには町人の人気でもかなわぬとくれば、武士達が凛に反感を持つのは、水が高いところから下に流れるというくらいに当然の成り行きともいえるだろう。
それゆえ、武士達はなんとかして凛のことを仲間内でけなすべく、凛のあらさがしを開始した。実に浅ましい行為であるといえるが、そうでもしなければ、武士達は己のメンツを保つことができなかったのだ。
最初は、あの女に我らが卑下できるところがあるのか? と懐疑的であった武士達であるが、そんな予想に反して、すぐに凛の足りぬところを見つけることができた。
それは――凛の男勝りで非常に荒い気性であった。
すぐに怒鳴り散らす、立ち合いの相手には手加減せぬ、なににつけても男には負けぬと息巻く気性。その天女も顔負けといった容姿とはまったくもって不釣り合いなこの気性が、武士達の目に留まり、これだこれだと大喜びで武士達は陰口を叩き始めたのだった。
その中で、いつしか誰かが言った鬼女、というのが武士達の間で凛のあだ名として定説になったという次第。
凛自身、陰でどうやらそのように呼ばれているようだと薄々感づいている節があるが、腰抜けの雑言など耳に入らぬと華麗に無視を決め込んでいると、煉弥は見て取っていた。
――たしかに、弱い奴ほどよく吠える。
ふんっ、と鼻をならし、相対する凛と門下生に目を戻す煉弥。
いつしか二人は互いに構えをとり、開始の合図を待つばかりとなっていた。
門下生は先ほどと同じく、上段の天の構え。
対する凛は、右足を引き体を右斜めに向け刀を右脇に取り、剣先を後ろに下げた脇構え――すなわち、陽の構え。
二人とも、堂に入ったどっしりとした構えだが、七寸(約二十一センチ)はあるであろうという身長差のせいで、どうも門下生の方が頼りなさげに見えてしまう。
「はじめぃ!!」
源流斎の開始の合図が響き渡る。
先ほどと同じく、二人とも動かない。しかし、先ほどとは大きな違いがあった。
それは、二人を取り巻く空気であった。
一瞬でも気を抜けば、相手を一太刀にて斬り伏せんとする、真剣での実戦さながらの、張りつめた空気。
先ほど茶々をいれた源流斎も、今度は黙って事の成り行きを見守っていた。
しかし煉弥はというと、どうせ凛の勝ちに決まってらぁなと、どのようにして凛が門下生をいなして見せるかと、ニヤニヤしながら見つめていた。
やがて凛が、すすっ、とわずかながら身をずらし、己の左半身を天の門下生にこれみよがしに見せつけた。どうぞ打ち込んでくださいと言わんばかりの隙だ。そしてそれはまた、罠であるとも見て取れた。
束の間逡巡した天の門下生であるが、このままでは埒があかぬ、ええいままよ!!
「ドォォォリャァァァーーーーーッ!!」
と、咆哮と共に生涯一番の振り下ろしにて凛の隙を狙ってみるが、振り下ろされた凛、ここに打ち込むことなど先刻承知と、わずかに身を引き、紙一重で門下生の振り下ろしを交わし、
「ハァッ!!!!」
の気合一閃、天の門下生の胴を薙ぐ。
またしても響く、バシィィィーーーンッ!! という竹刀が肉を打つ強烈な音。
「ぐぅぅっ?!」
打たれた天の門下生、刹那、身体をぐらつかせたが、歯を食いしばってそれに耐え、振り下ろした竹刀を己の脇へと戻した。
凛もそれにならい、打ち込んだ竹刀を己の脇へと戻す。
「それまでぃ!!」
源流斎の終了の合図が響く。互いに一礼を交わす凛と天の門下生。次いで、源流斎の方へと向き、二人同時に源流斎へと一礼する。
後ろでそれを見ていた煉弥、頭を下げている天の門下生が果たしてどのような表情をしているかと、少し不安になった。女に一方的に負けたのだ。武士ならば、切腹ものの恥辱である。
しかし、そんな煉弥の不安は、頭をあげた天の門下生の清々しい表情を見たことによって雲散霧消していった。どうやら、あの天の門下生は根っからの剣術家であるらしい。
「かっかっかっ……どうじゃ。剣に必要なモノとは…………」
源流斎のありがたくも眠っちまいそうな御言葉が始まりだしたところで、煉弥は稽古場の中を改めて注意深く見まわした。そして、重大なことにきがついた。
……あのスカし野郎がいねえぞ?
そう、利位の姿が見えないのである。
昨夜、俺に凛を手籠めにするなどと大見得を切ったクセに、どういうことだ?
不審に思った煉弥が首をかしげていると、
「キサマッ!!」
と、耳をつんざく凛の一喝が稽古場に響き渡る。
うん? と煉弥が凛の方へと目を向けると、凛が稽古場の中心で煉弥を睨みつけながら、わなわなと身を震わせていた。
「お師様の御言葉をうわのそらで聞くとは、なんたるたわけものか!!」
この凛の言葉に、周囲の門下生達から小さな忍び笑いがいくつもあがる。また始まったぞ。鬼と鬼との痴話喧嘩じゃ。
「別に俺はじっちゃんの門下生じゃねえし、関係ねえだろ」
「じっちゃんとは誰に向かって言っている!! 朝稽古には遅刻してくる!! 礼儀もなっておらぬ!! 相変わらず身なりが小汚い!! 今日という今日は断じて許さぬ!! キサマの性根、今ここで叩き直してくれる!!」
「はぁ? ふざけんなよ。誰がお前なんかと――――」
そういう煉弥に周囲の門下生たちが、
「こちら、竹刀でござりまする」
「どうぞどうぞ、一手御指南のほどを――」
「立ち合いに背を向けるは恥でござりまするぞ」
などと面白半分に、あれよあれよと煉弥に竹刀を握らせ、稽古場の中心で待ち構えている凛の前へと連れだしてしまったのだった。
「ちょ、ちょっと待て!! 俺は立ち合う気なんざ――――」
しかしそんな煉弥の訴えむなしく、にっこりと悪そうな笑みを浮かべた源流斎の、
「はじめぃ!!」
という開始の合図が響き渡る。こうまでおぜん立てされてしまった以上、もう逃げるわけにもいかぬ。
先ほどと同じく陽の構えをとってみせる凛。対して構えをとらぬ煉弥。
「どうした?! 早く構えぬか!!」
咎めるように煉弥へと叫ぶ凛。しかし、煉弥は先ほどの言葉通り、凛と立ち合う気など、微塵もないのである。というより、そもそも煉弥は未来永劫、凛と立ち合うつもりなどない。
なぜなら、煉弥は凛という女の心を傷つけたくなかったからだ。
凛は確かに優れた剣術家であることは間違いのないことである。
だが、それはあくまでも“人間として”優れているのであり、人知をはるかに超えた外道妖怪共と生死を分かつ争いを繰り返してきた煉弥にとっては、凛の腕前はそれこそ児戯に等しいものとも言えた。
ゆえに、煉弥が凛と本気で立ち合えば、指一本触れられずに軽くいなすことができるだろう。しかし、それをやってしまうことは、凛の心を深く傷つけてしまうことになることは自明の理。そんなことをしてしまうほど、煉弥という男は鈍感ではないし非道でもない。
それに――もし、煉弥が凛に勝ってしまえば、凛が夫の条件としていつも口にしている、自分より剣の腕が立つこと、というのを煉弥が満たしてしまうことになってしまう。
それだけは――――避けなくてはならない――――。
くるりと凛に背を向ける煉弥。この煉弥の思わぬ行動に凛が煉弥の背中に、
「キサマッ!! 逃げるのかッ!!」
と怒声を浴びせる。しかし、そんな怒声を無視し、周囲に座して成り行きを見ていた門下生達をかき分けて、稽古場の壁へと歩み寄った。そこには、稽古に使う木刀がいくつもかけられている。それを手に取れるだけ手に取って、煉弥は凛の方へと振り向いた。
「別に――逃げやしねえよ――っ!!」
そう吐き出し、手に取っていた木刀全てを凛に向かって投げつける。
「なっ?!」
予想だにしなかった木刀の飛来に、凛は構えをといて慌てて飛来してくる木刀を打ち払っていく。そんな凛に、煉弥は疾風が如く勢いで向かい、木刀の最後の一本を打ち払った、無防備な凛の頭に手刀をコツンと一つ。
「あっ……」
呆気に取られて思わず愛らしい声を出してしまった凛に、煉弥はにっこりと笑みを浮かべて、
「はい、一本」
と一声。途端に、稽古場は門下生達の割れんばかりの拍手と、見事見事という大笑いによって満ち溢れる。
しかし、そんな拍手と大笑いを消し飛ばすかのような、
「ふ、ふふふ、ふっ、ふっ、ふざけるなぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!!!」
という顔を真っ赤にした凛の活火山の大噴火ともとれる大絶叫と、煉弥に向かって、当たれば怪我どころではすまぬといった、すさまじい太刀筋の竹刀の風切り音がビュンビュンと響きわたりだす。
「お、おいっ! やめろ! 勝負はついてるだろうが!!」
「何が勝負はついているだこの卑怯者がッ!! あんなもの、立ち合いと呼べるかこの痴れ者めッ!! その腐った根性、このわたしが叩き直してくれるッ!! そこになおれぇぇぇッ!!」
稽古場内を逃げ回る煉弥。それを竹刀を振り回しながら追いかける凛。色々変わってきた世の中で、唯一、昔から一つも変わらぬこの光景に、刹那、孫のような二人の成長に微笑みを浮かべる源流斎であったが、すぐに道場主としての威厳を取り戻し、
「しずまれぇぇぇぇい!!!!!!!」
と稽古場が揺れ動くかのような一喝。たちまち二人は追いかけっこを止め、二人とも源流斎の方へと顔を向けた。
「まずは、座れ」
「しかし、お師様――――」
「よいから、座れ」
やれやれ助かったと座る煉弥。不服そうな顔をして座る凛。
「よいか、凛。先の煉弥の行いを卑怯と断じておるが、その心はなんじゃ?」
「卑怯に決まっております!! あのような武士道に反すること――――」
「じゃが、あれが真剣勝負なら、お主は斬られて
ぐっ……と、うなる凛。
「よいか皆の衆。武士道を重んじるのも結構。されど、武士道と剣の道は似て非なるモノ。人の生き方を教える武士道と、いかに人を斬り捨てるかということを追求する剣の道では、そもそもの本質が違うということを、今一度思い直すべし。武士道は、太平の世であってこそ生きるもの。剣の道はいつの時代であっても、修羅の道。これら相反せし教えを、いかにして融合させ、太平の世に剣の道を究めていくか、それを追求せしが柳至天流――――
はいっ!! と門下生達が答えたその刹那、
「クククッ……中々に興のある見世物だったよ」
という、聴くもの全ての神経を逆なでする忍び笑いが稽古場に響いた。
稽古場の中にいる全員が声のした方へと目を向ける。そこには、おかしくてたまらないといった様子で笑っている、利位の姿があった。
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