第二幕ノ九 吉原の頂点に座する者――謁見、双葉太夫


 二階の一番奥にある、明らかに他の部屋よりも格式が高そうな部屋の前へとついたとき、柚葉は、すぅ~~はぁ~~……と大きく深呼吸をした。そして、なにやら緊張を帯びた顔を八重へと向ける。


「ここが、双葉御姉様のお部屋でございます」


 顔も緊張しているが、口調も緊張している。よっぽど、双葉御姉様とやらは怖い人なんだ。八重は身体を小さく震わせ、これからの謁見に対して恐れの気持ちを無意識に柚葉に示してしまった。そのことに気づいた柚葉が慌てて、


「あ、これは、その、別に双葉御姉様が恐ろしいとか、そういうことで緊張しているのではなくて、そ、その、双葉御姉様は、とても素晴らしい――言うなれば、女神様のような方でして、そ、それで、つい、緊張してしまうのです」


 八重の気持ちを和らげようとしてくれた。ただ、一つ気になる言葉があったので、八重は柚葉に問いかけた。


「め、女神様……ですかぁ……?」

「はい。そうとしか形容のしようがございませんから、双葉御姉様は。ともかく、案ずるより産むがやすしと申しますし、実際に双葉御姉様にお会いしていただければ、私の言っていることが御理解いただけると思いますよ」


 ふふっ、と笑みを浮かべて、ちょこんっと部屋の障子戸の前へと座る双葉。それに八重もならう。


「双葉御姉様、柚葉でございます。本日、松竹屋にいらっしゃいました新しい娘――八重さんをお連れしてまいりました」


 柚葉が呼びかけて、少しの沈黙が流れた後、部屋の中から威厳たっぷりの美しい声が響いてきた。


「お入りなさい」


 声を聞いただけでわかる。きっと、すごい美人さんだ。きっと、すごい素敵な人だ。八重はそう直感した。


「失礼いたします――――」


 ペコリと頭を軽く下げ、柚葉は障子戸へと手をかけ、ゆっくりと障子戸を開いた。

 先ほどの紅葉あかねの部屋とは比べ物にならないほどの部屋の広さに、八重は目をみはった。それに、調度品の絢爛けんらんさも、紅葉の部屋の比ではない。


「ささっ、八重さん。双葉御姉様のお傍へとまいりましょう」

「はっ、はいぃ~……」


 自然と、しゃちほこばってしまう八重。だが、それは八重だけではなく、柚葉も同様らしく、歩くために立ち上がろうとしたところで後ろ向きに倒れそうになってしまって、あわわわわわ!! と両手を振りしだいてどうにか倒れずに立ち上がった。


「でっ、ではまいりましょう」


 苦笑いを浮かべる柚葉のおかげで、八重は少し緊張をとくことができた。柚葉に向かって微笑を浮かべてうなずいて見せ、先を歩く柚葉の後について部屋の中へと入っていく。


「ふわぁ~~……」


 部屋に入ったところで、自然と声をあげてしまう八重。広さもそうだが、部屋の中心から垂れ下がっているすだれの壁を見て、思わず声をあげてしまったのだ。まるで、将軍様との謁見の場のようだ。

 簾の近くまで歩いていく柚葉。そして簾の近くまできたところで、ちょこんっと腰をおろし、八重に手招きをする。柚葉の手招きに招じて、柚葉の近くに同じように、ちょこんっと座る八重。


「双葉御姉様――八重さんをお連れいたしました」

「ありがとう、柚葉。貴女は下がって、皆のお手伝いをしてきなさい」

「かしこまりました」


 簾の向こうにいるであろう双葉御姉様に対して、お辞儀をする柚葉。そして八重の方へと振り向いて、がんばってくださいねっ!! と、八重に向かって、ぐっ! と両手を握るジェスチャーをし、柚葉は立ち上がってそそくさと部屋から出ていってしまった。

 展開の速さについていけず、ほけ~っとした表情を浮かべていた八重だが、一人でこれから件の双葉御姉様と会わなければいけないことに気がついて、はっ?! と身体を小さく跳ねさせた。

 ど、どどど、どうしよう……どど、どうすればいいのだろう……。

 はわわわわわ……と狼狽する八重だが、そんな八重の狼狽を打ち消してくれるような優しい声が、八重に向かって投げかけられた。


「そのように怯えなくてもいいのですよ。でも、怯えるなというほうが難しいのかもしれませんね。一人で急にこんなところに連れてこられて、さぞかし心細いことでしょうから――――」


 この声を皮切りに、簾がゆっくりと上がり始めた。そして、簾があがりきったところで――――、


「わぁ…………」


 思わず息をのんでしまう八重。それもそのはず、簾の中から姿を現した双葉御姉様という人物を見れば、誰であってもきっと息をのむことであろう。

 腰あたりまで伸びている、光を反射するほどにつやを帯びた黒髪。どこからが襦袢でどこからが肌なのかと見分けがつかぬほどの純白の肌。襦袢が今にもはちきれてしまいそうなほどにふくらんでいる胸元。唇は肌とは対照的に血色がよく、上品そうな笑みをたたえ、それを引き立てるような慈愛に満ち満ちた優しい瞳が八重を覗き込んでいた。

 そして何よりも、この女性が身にまとっている雰囲気――オーラとでも言えばいいだろうか、それがまた形容のできないほどの圧倒的な存在感を周囲に発散させていた。柚葉の言っていた迫力があるということはこのことかと、八重はぽかんとした表情のまま心の中で納得した。


「さあ――お傍においでなさい。貴女の顔を、私によぉく御見せください」


 双葉の言葉をうけ、無意識に近い感覚でうなずく八重。そして、まるで双葉の存在感に吸い込まれるように、夢遊病患者のごとき足取りで双葉のそばへと歩み寄った。


「さあ、私の前にお座りください」

「は……はいぃ……」


 ちょこんっと双葉の前に座る八重。近くで見ると、双葉の美しさが並大抵の形容の言葉で片付くようなものではないということを、八重はなおさらに思い知った。女神。たしかに、そうとしか形容のしようがない。ともすれば、双葉の後ろに後光がきらめいているようにも見える――そんな人智を越えた美しさであった。

 双葉の雰囲気に気圧され、いつも以上に相手から視線を外してうつむく八重。しかし、そんな八重の心の壁の象徴も言うべく前髪を、双葉がガラス細工のような繊細な指先で優しくかきあげた。


「ひゃっ……!」


 びくりっ! と身を跳ねさせ、双葉の指先から逃げようとする八重の頭を、双葉は優しく両手で自分の視線の先へとつなぎとめた。そして、ハープの音色を思い起こさせる美しく優しい声色で八重に語りかけた。


「御話をするときは、お互いに瞳を見て御話をいたしたほうが、お互いをより深く理解しあえます。恥ずかしがらず、私の瞳を見てくださいませんか、八重さん」


 双葉からそう言われても、人見知りの赤面症である八重からすれば、それはかなりの勇気のいる所業だ。いつもならば、そんなことできません~……としおれてしまう八重だが、不思議と今の八重にはそれができるような気がした。きっと、双葉の声色のおかげなのだろう。とても心和む、優しい声。慈しみを帯びた、聖母のような声。まさに、一種の妖力ともいうべき声であった。

 うつむいていた視線を、ゆっくりと、それこそカタツムリが這うくらいの様相で、おずおずと双葉の瞳へと視線を向かわせていく八重。やがて、八重と双葉の視線が交差したとき、双葉が品の良い微笑みを浮かべて、八重に言った。


「そう――こうやって、お互いの瞳を見つめあうと、その人のことがよくわかるのですよ。それに、貴女は不思議な瞳をしていらっしゃいます。貴女の大きな瞳にのぞきこまれれば、きっと人は貴女に自らの隠していた思いのたけをいずれ話してしまうことでしょう。それほどまでに、貴女の瞳は魅力があります。ですから、いつかはその前髪で貴女の瞳を隠すことがなくなるときがくればいいですね」


 真っすぐに今まで自信の持てなかった自分の瞳を褒められ、赤面してしまう八重。いつもならばここで瞳をそらしてしまうのだが、今日の八重はそれをしなかった――いや、できなかった。なぜなら、八重も八重で双葉の瞳に魅入ってしまっていたからだ。

 溢れんばかりの気品の良さと慈愛が、双葉の瞳に宿っていた。なぜ、このような人が吉原にいるのだろう。八重は不思議で不思議でならなかった。


「では、貴女から手を離させていただきますね。私が手を放しても、その素敵な瞳を私に向けていてくださいますね?」


 コクコクと小さくうなずく八重。


「ありがとうございます。では――――」


 八重から手を放し、正座をしている自分の膝の上へと手を置く双葉。そして、ふぅ、と一つ息を吐き、八重に言った。


「お待ちしておりました、八重さん。初め、北条様と楓様から御話があった時は、どのような方がこちらにいらっしゃるかと少々不安ではございましたが、貴女のような方がいらっしゃってくれて、とても嬉しく思っております」

「えっ……?」


 ということは……。先ほど八重が感じた、人智を超えた美しさ、というのはあながち間違いではなかったようだ。そんな八重の思いを裏付けてくれるかのように、双葉が八重に笑みを向けながら言った。


「そう。私は人ではありません。妖怪です。昔は、飛縁魔ひのえんまと呼ばれておりました」


 いともたやすく八重に正体を明かしてみせた双葉。


「八重さんもこちらにいらっしゃってから少々窮屈な思いをしたことでしょう。今は大丈夫ですから、どうぞ、お好きなように」


 八重の心を見透かしてか、双葉は八重に首でも伸ばしてリラックスしたら? と促してくれた。となれば、話は早い。


「あ、あのぉ……で、では、失礼いたしますぅ……」


 みょぉ~~~んと、じわじわ首を伸ばす八重。そして天井付近まで伸ばしたところで、はふぅ~~! と大きく息をつき、シュルシュルシュルシュルっと首を元の大きさへと戻した。首を戻した八重の顔といったら、清々しいほどのすっきり顔を浮かべていた。


「ふふっ……正体をひた隠しにすることほど、我々にとって肩の凝ることはございませんものね」


 八重のきらめくすっきり顔を見て、双葉は思わず吹き出して言った。八重も、エヘヘ……と愛らしい笑みを双葉に返す。


「さて、八重さん。大まかな御話は楓様からお聞きになっていらっしゃっているかと存じますが、いかがでしょう?」

「は、はいぃ~」


 うなずく八重を見て、双葉も小さくうなずく。


「本来は、吉原の事件は吉原の者が始末するしきたり。ですが、今回の事件は、吉原の者ではない方――それも、やんごとなき御身分の方が犠牲になってしまいました。それだけではなく、此度こたびの事件、まず間違いなく我らの同士――すなわち、妖怪が事件に一枚かんでいると私は考えております。ゆえに、吉原の者だけではどうにも手に余る事件です」


 双葉の言葉にじっと耳をかたむける八重。


「ですが厄介なことに、一枚かんでいるであろう妖怪の姿がどうにも見えてこないのです。私は妖怪の中でも、それなりに力があるほうであるとは思っております。一階にいらっしゃる化け猫ちゃんも、そうなのでしょう?」

「ふぇっ? あ、はっ、はいぃ~……タマさんは、とても頼りになるお方ですぅ」


 気づいてたんだ……。双葉の力の大きさの片鱗を見せられた気がし、八重は驚愕の表情を浮かべた。


「今、八重さんがわかってくださったように、私の同族に対する気配察知の力は、この吉原全体を網羅できるくらいでございます。それなのに、最初の事件が発生し、今日の今日まで一度も私は私以外の妖怪の気配を察知することができませんでした」


 ふぅ……と深いため息をつく双葉に、八重は疑問を投げかける。


「あ、あのぉ……それだと、ひょ、ひょっとして、妖怪が関係していない……なんてことも……」

「いえ、それはないでしょうね」


 きっぱりと断定する双葉。はうぅ……と落ち込む八重を見て、双葉は八重に質問する。


「そうですね。もし、八重さんのおっしゃるように、この事件に妖怪が関連していないとすれば、大きな疑問があるとは思いませんか?」

「お、大きな、疑問……?」

「そう、大きな疑問です。ねえ、八重さん。今回の事件の被害者の方々は、皆一様に血を抜かれて絶命しております。とすれば――下手人は、なぜ被害者の血を抜くのでしょう? そして――その抜かれた血はどこへ行ったのでしょう?」

「そ、それはぁ……」


 そんなことを聞かれても、八重にわかるわけがない。だが、双葉の言う疑問というのは、今回の事件の一番の謎であり、一番の鍵とも言える疑問である。これがわかれば、自然と下手人の動機や正体もつかめようというものだ。


「これは、私の経験――いえ、私の忌まわしい過去から言えるのですが、おそらく、今回の事件の下手人は、血を食しているのではないとかと思うのです。私も以前は、血を食す妖怪であったのですが、楓様と楓様の娘であるココノエとの出会いによって、今では血を食すこともなくなりました。ですが、例え今がどうであろうと、血を食するために人を何人も殺めた私の過去が消え去るわけではございません」


 ふぅっ……と悲しそうに表情を浮かべてため息をつく双葉。しかしすぐに慈愛の表情を取り戻し、


「なので、私は今回の事件の下手人は妖怪であると確信しております。ですがそうだとすると、どうして私の気配察知にひっかからないのか? それがどうしてもわかりませんでした。しかしそれは、先日のやんごとなき御身分の方の事件が起こった後、ずっと思慮を続けていた際に、一つの仮定が思い浮かんだのです。それは――おそらく、人間の共犯者がいるのではないか? それも、この吉原に、です」

「共犯者……」

「はい、共犯者です。そうと仮定すれば、全ての疑問が氷解いたします。私が気配察知ができぬも道理、妖怪本人は吉原の外で人間の共犯者に指示を出し、被害者の血をすすりながらほくそえんでいるに違いありません」


 強い断定の口調で言い切る双葉に、八重がおずおずと疑問を呈する。


「あ、あのぉ……と、ということは……吉原の方が、そのぉ……」

「貴女は優しい方ですね、八重さん。無論、私も吉原の人間がそのようなことを――妖怪の手先になってしまっているとは思いたくはありません。ですが、私は妖怪ゆえ、妖怪がいかに狡猾こうかつ悪辣あくらつであるかを理解しております。以前の私がそうであったように、ね。妖怪の甘言は、人間の欲望を燃え上がらせてしまう。一度燃え上がった人間の欲望は、とめどもないものです。そして、吉原は欲望の町――これ以上に、妖怪にとって扱いやすい人間のいる場所は他にはございません」


 欲望の町……。でも、柚葉さんやさっきの紅葉さんを見る限り、そんな欲望とか感じなかったけどなぁ……。複雑な表情になる八重を見て、双葉は八重の胸中を察し、八重に言った。


「八重さん。貴女はまだ、吉原という場所がどのような場所かをご存じないのです。さしあたって、八重さんにお願いしたいことは、まずは八重さんが吉原という場所を理解してくだってほしいのです。それにはきっと、八重さんの純粋な心に鞭打つような現実がそびえたつかもしれません。ですが、そういう現実に目をそらさず、吉原という場所を理解し、そのうえで、ここ松竹屋という場所を理解してほしいと思います」

「よ、吉原を理解……ですかぁ……?」

「ええ、吉原を理解していただきたいのです。醜いところも、美しいところも、全て含めて――――」


 ふぅ……と息をつく双葉。


「そのためにも、まずは松竹屋での日々に慣れていただかなくてはなりません。八重さんが松竹屋での日々に慣れていただけたら、その時は私がしかるべき方法でもって、八重さんを他の妓楼ぎろうへとご案内いたします。もちろん、それは一日だけの出張という形にいたしますが…………」


 そこまで言ったところで、双葉は唐突に八重に向かって深々と頭を下げた。


「……本当にごめんさいね、八重さん。本来ならば、私が動いて事件を解決に導きたいのですが、私はここ吉原ではあまりにも顔が知れすぎておりまして、自由に動くことができません。ですから、このような大任を、貴女のような優しい方に背負わせてしまって、本当にごめんなさい」


「ふぇ?! ひゃ?! あっ、あのっ?! い、いえいえっ! そっ、そんなっ! おっ、お願いですから、頭をあげてくださいぃ~!」


 はわわわわわわわわ!! とあたふたする八重に気づき、頭を下げたまま、ふふっと吹き出す双葉。本当に、この娘は優しいわ。それに、とても愛らしい。将来、きっととんでもない美女になるに違いないわ。ゆっくりと頭をあげ、八重の大きな瞳を真っすぐに見据える双葉。


「それでは――行動に移るといたしましょう。さしあたっての情報収集は、下にいらっしゃる化け猫ちゃんと後で打ち合わせをさせていただくことにいたします。では八重さん、朝餉あさげへまいりましょう。皆も待っていることでしょうから」


 ふわっと、まるで宙に浮くかのごとき軽やかな所作で立ち上がる双葉。双葉が立ち上がると共に、かすかな甘い香りが八重の鼻孔びこうをくすぐった。なんだか妙な気持ちになってしまうような甘い香りにドギマギしながらも、八重も慌てて立ち上がり、双葉の後に続いて部屋からでて、一階の朝餉の場へと向かうのであった。

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