第一幕 向き合う二人――重なる想い


「凛のやつ……よりにもよって、ここにいるこたぁねえじゃかよ……」


 源流斎の道場の入り口の前で、煉弥は大きなため息を吐きながらそうこぼした。

 煉弥は楓の部屋からでると、すぐその足で凛の屋敷に行ったのはいいが、屋敷の玄関先にきたところで、いつものヘタレぶりを発揮してしまったのだった。

 あいつに、なんて声かけたもんか……。いや、そもそも、帰れ!! と怒鳴られたらどうすりゃいい? 帰らねえ!! と言い返しゃあいつもの口喧嘩になっちまうだろうし、そうなっちまうと、また面倒なことに……ああ!! どうしたもんか!! クソッ!!

 そんな葛藤を抱きながら藤堂家の玄関先で、うろうろと行ったり来たりしていた不審な貧乏浪人を、たまたま屋敷の外に出ていた大袖が見咎め、ずかずかと煉弥に近づき、


 ――凛嬢なら源流斎様のところだよ!! さっさと行って、男を見せな!!


 と一喝し、一喝された煉弥はというと、その場から逃げるように走りさり、そのまま走って源流斎の道場へと来たという次第。


「できれば、じっちゃんには会いたくねえけど、かといって黙って道場の中に入り込むわけにはいかねえし……」


 先ほどの凛の屋敷の玄関先と同じように、ウジウジと葛藤する貧乏浪人。そんな貧乏浪人の背後から、気配を完全に消し去って近づく一つの影。


「ほれぇっ! 隙ありぃっ!」


 掛け声と共に、ドスンッ!! と煉弥の尻にぶち込まれる神域の速度の三年殺かんちょう


「ううおわぁ?!」


 脳天まで突き抜けるすさまじい衝撃に、煉弥の巨躯が刹那、宙に浮き、着地と同時に転げまわって悶絶する。そんな煉弥を見下ろしながら、かっかっかっ! と笑う一人の好々爺こうこうや


「ワシの大事な孫娘を悲しませた罰じゃい」


 ぐおぉぉおぉぉぉ……と、ひとしきり転げまわり、痛みが引きだしたところで、煉弥が源流斎に問いかける。


「な……なんのことですかい……」

「なんのことも馬のクソもあるかいな。わしの目が節穴とでも思うとるのか、このクソボウズめ。凛が、稽古場の縁側に座り込んで、庭のアジサイを寂しげに眺めとる。どうせ、お前が凛になにかしくさったのじゃろうが」

「い、いやぁ……その……」

「ワシにごちゃごちゃ言う前に、さっさと凛にうてこい」


 尻をおさえてうずくまっている煉弥の背中を、どげしっ! とけたぐる源流斎。


「わ、わかりやしたよ……」


 完全に痛みがひいたところですっくと立ち上がり、転げまわった時についた汚れを手ではたく。そして源流斎の方へと振り向く。源流斎の表情には、実に穏やかなものが浮かんでいた。


「じゃあ――いってきます」

「応――男を見せてこいや」


 かっかっかっ! と笑う源流斎を背に、煉弥は道場の玄関口へと入っていった。

 玄関の三和土たたき部分にぽつんとある、一足の草鞋。まるで、今のあいつの心情を表しているようだ。そこはかとない、寂しさをおぼえつつ、煉弥はその草鞋の横に、自分の草鞋を並べた。俺達も、この並ぶ草鞋のように、なれればいいのだが。

 自然と、音をたてぬように、抜き足差し足忍び足になりながら道場の稽古場の方へと向かう。稽古場の入り口は開け放たれていた。ささっと、稽古場の中から見えぬ位置に身体を隠し、開け放たれた入り口から、そぉ~~っと中の様子をうかがう煉弥。まるで忍者じゃねえかよ、と思ったが、一応自分が公儀御庭番の一員であったことを思い出し、声を立てずに苦笑した。

 道場の縁側のところに、凛はいた。

 白い稽古着を身にまとい、長い髪を束ね、庭の方に身体を向けて縁側に座り込んでいる。今にも泣き出しそうな表情には、玉のような汗が浮かんでおり、そのすぐそばには竹刀が置かれていた。おそらく、ついさっきまで稽古をしていたのだろう。

 そんな凛の寂しげな姿に、煉弥の心が痛む。気が強く、誰にも弱った姿など見せようともしなかったあいつが、あんな姿を無防備にさらすとは。そこまで、あいつは傷ついているのか。そこまで、俺は、あいつを傷つけたのか。


 早く、傍に行ってやりたい。

 だが、なんて声をかければいい?

 またもウジウジとヘタレさを発揮する煉弥の尻を、何者かが思いっきりけたぐった。


「おぉわっ?!」


 予想もしていなかった一撃に、思わず大声をあげてしまいながら、道場の中へとたたらを踏んで入っていく煉弥。一体、誰だと振り向くと、そこには玄関先で別れたはずの源流斎が、あんまし世話を焼かせるでない、といった呆れた表情を浮かべて立っていたのであった。……じっちゃん、なんか、ほんと、すんません。


「……何の用だ」


 か細い声のした方へと煉弥が向き直ると、煉弥に背を向けた凛の姿が目に入った。凛のその背には、形容のしがたい、複雑な感情が宿っているように煉弥は感じた。


「い、いや、なんというか……アレだよ! アレ! そう! 今日は良い天気だよな?!」


 ノープランがゆえの、すっとんきょうな一言であった。馬鹿か、俺は。自己嫌悪に陥りかける煉弥だが、


「……そうだな。良い天気だな」


 と、思いもがけず、凛が普通に応対してくれたのだが、しかし、逆にそのせいで二の句がつげなくなってしまった二人に、重い重い沈黙が流れる。

 むう……どうしたものか……。このままでは、らちがあかぬ。しかたがない、こちらから口火をきるしかないか。

 二人同時にそう思い、そして、二人同時に、


「昨日のことだけどよ――――」

「昨夜のことだが――――」


 と投げかけあい、互いが互いの機先を制してしまった。


「おっ、お前からどうぞ……」

「きっ、キサマから言え……」


 互いに譲り合うが、もちろん、譲られてじゃあ話そうかとすんなりいくわけもない。何度か互いに、いや、お前が、いや、キサマがという押し問答を繰り返したのち、


「――いったい、昨夜の女子おなごはなんなのだッ!!」


 と、凛がしびれを切らして背を向けたまま怒号一喝。それにつられて、ついつい煉弥も、


「八重さんとはただの知り合いだ!! それ以上でもそれ以下でもねえ!!」


 いつもの口喧嘩の調子で、声を荒げて応酬する。


「ただの知り合いだと?! 公衆の面前で、あのように抱き合うような仲のくせに、そのような戯言ざれごとをよくも言えたなッ!!」

「実際、顔見知り程度の仲なんだから、そうだと言うしかねえだろうが!! 戯言や嘘でそんなこといって、何の得があるってんだよ!!」

「顔見知り程度の仲で抱き合うなどと、かような戯言が信じられるかッ!! 仮に、顔見知り程度の仲だという、キサマの言葉を信用するとして、顔見知り程度の仲であるあの女子となぜ抱き合っておったのだッ?! 説明してみろッ!!」

「そ、それは、だなぁ……」


 口ごもる煉弥。そりゃあそうだ。八重さんから告白されようとしていた決定的瞬間でした、などと言えるものか。


「それ見たことかッ!! 説明できぬではないかッ!! キサマも男なら、言い訳などせず、ハッキリと言えばよいのだッ!!」

「な、なにをだよ?! なにを、ハッキリと言えってんだよ?!」

「それは――だな……ッ!!」


 刹那、凛の怒号が止み、凛の背中が大きく動くのが見えた。大きく深呼吸を一つしたようらしい。


「キサマが――あの……あの、女子と良い仲であると――そう、ハッキリと言えばよいのだッ!!」

「だぁ・かぁ・らぁ――違うっつってんじゃねえかよ!!」

「では、なぜあのように抱き合ってなどおったのだッ?!」

「そ、それは、だなぁ……」


 振出しに戻る、である。このまま永遠と押し問答が続くかと思われたが、


「……わかっている。わかって……いるのだ……」


 と、突如として凛がしおらしい声を出したことで、事態は急展開の様相をみせはじめた。


「な、なにがだよ?」


 予想もしていなかった、凛の急激な変化に、煉弥の口調も妙にあらたまったものになってしまった。


「…………」


 煉弥の問いかけに凛は答えず、ただただ、その背を小刻みに震えさせるばかり。

 まさか――泣いているのか?


「……キ、キサマも、もう十八だ。男子の十八といえば、所帯をもっていてもおかしくない歳。ゆえに、キサマが女子とお付き合いをするのも、当然のことだ。いわば、自然のなりゆきとでも言ってもいいだろう」


 いや、俺が十八かどうかはわかんねえって。実際は、お前より年上かもしれねえんだぜ? まったく、意地でも自分のほうを年上にしてえのか。

 と、いつもならば間髪入れずに口ごたえをするところだが、さすがに今は口ごたえをすべきではないと、口をつぐんで凛の話を続きを待つ煉弥。


「それに、だ――昨夜の女子の愛らしさは、江戸広しといえども、比類なきほどに愛らしい少女であった。あのような女子であれば、キサマでなくとも、江戸中の年頃の男子ならばお付き合いを願いたいと誰もが思うことであろう」

「…………?」


 こいつは、いったい何を言わんとしてるんだ?


「そのような女子と、キサマがお付き合いをしているということに、姉である私の立場からすれば、キサマが女子とお付き合いをすることを非難する前に、祝福してやるのがスジというものだが…………」


 おいおい、だから勘違いだって言ってるだろうに。こりゃあ、このままだと話が妙な方向にいっちまいそうだ。


「おい、り――――」


 凛に呼びかけようとして、煉弥はすぐにそれを止めた――いや、止めざるをえなかった。なぜなら――――、


「しかし――――それが、できんのだッ!!」


 と、突如として凛が感情を爆発させたのだ。


「私は……私は……キサマの姉であろうとした。七年前――父上と母上が、辻斬りの凶刃にかかってから、なおさらそうなろうと尽力した。さすれば、余計な世迷い事に目をくれずに、私はカタキ討ちという本懐に向かって邁進できると思っていたからだ」

「世迷い事……?」

「そうだッ!! 世迷い事だッ!! いつもいつも、私の心をかき乱してきた世迷い事だッ!!」


 凛の肩が大きく揺れていた。それはさながら、凛の心が大きく揺れているようにも見えた。


「カタキ討ちを志してから、私は必死にその世迷い事を振り払おうとした。五体に鞭打ち、剣術の稽古にひたすら打ち込み、勉学にもいそしみ、武士の心も学び、果てには仏の教えにも手を出した。しかし……しかし……如何にその世迷い事を忘れようとしても、それは決して、私の心から離れてくれなかったのだッ!!」

「そりゃあ……苦しかったことだろう。お前がそんなに悩むなんて、その世迷い事ってのは、よっぽど苦しいことに違いねえ」

「そうだ……ッ!! 私のその苦しみの根源は――私が抱く世迷い事の原因は、全て……キサマのせいだッ!!」

「はぁぁっ?! 俺のせいだぁ?!」

「そうだッ!! キサマのせいだッ!! キサマこそ、私の心の平穏を乱す諸悪の根源であり、私の狂おしいほどの苦しみの原因でもあるのだッ!!」


 背を向けたままそう言い放つ凛に、煉弥はイラ立ちを覚えた。誰でも、わけも分からず罵倒されて、いい気分でいられるはずがない。ましてや、ずっと前から自分のせいで苦しんでいたなどと聞かされて、黙っておれるはずがない。


「あのなぁ……たしかに、昨夜の件に関しては、お前から何を言われてもしょうがねえ。だがなぁ、お前の言い分だと、まるで俺が生きてることが悪いみてえな言い方じゃねえか!! いくらなんでも、俺が生きることにお前から文句を言われる筋合いなんてねえぞ!!」

「いいやッ!! キサマが悪いのだッ!! キサマが――キサマが悪いのだッ!!」


 だだっこのように言い張る凛。まったく、ガキの頃から癇癪かんしゃくを起こしたら人の話を聞かねえところは変わらねえな。だが、さすがに生存権にまでケチをつけられたとあっちゃあ、こっちだって黙っちゃいられねえ。


「あのなぁ――――」


 と、煉弥が息巻こうとした、その刹那であった――――、


「きぃ、きさ……まが……わっ、わる……い、のだ……きさ……ま……が……」


 突如として響く、しゃくりあげる涙声。凛という少女を知る者にとって、もっとも凛という少女にふさわしくない、涙声。


「凛…………」

「わっ、わた……しが、どれほど苦しんでも、キサマは、気づきもしない……初め、て……会った、とき、から……そうだ……藤堂家に、来てからも……そうだ……。だっ、だから……わた、しは……姉で、あろうとしたのだ……姉で、あれ……ば……弟に、妙な……想いを、抱かずに……すっ、すむと……思って……だが……だが……!! 昨夜の……光景を、みた、時……やはり、わたっ、しは……姉で、あること、は……できぬと……おっ、おっ、思って……」


 凛の声には嗚咽が混じり、背中の震えも徐々に大きくなっていく。


「わた、しは……わっ……わた……しは……ッ!!」


 鈍感の極みの童貞浪人である煉弥にも、凛がこの先に言わんとしている言葉がなんであるかを察した。それもそのはず、煉弥は昨夜、同じような経験を八重から学ばせてもらっていたのだ。

 つまり――――凛は、己の想いを、煉弥に告げようとしているのだ。

 ここで凛に言わせてしまっては、男がすたらぁ。左馬之助のおっちゃん、ツバメさん、それに楓さんにタツ兄にじっちゃん――ともかく、俺と凛に関わってくれた、全ての人たちに対して顔向けができねえ。じっちゃんの言葉じゃねえけど、ここは男を見せなきゃいけねえよな。

 大きく震える凛の背中に近づく煉弥。凛の背中に近づくほど、凛の押し殺した泣き声が聞こえてくる。


 ああ――そうだった。

 俺は――この子を護ろうと誓ったんだ。

 七年前の、あの時に――そう、誓ったんだ。

 俺が藤堂家から出ていく時、決して、涙を見せようとせず、小さな背中を震わせて、必死に耐えていた強がりな少女を――俺は、護ろうと、誓ったんだ。

 凛の震える背のすぐ後ろにまで煉弥は近づいた。遠くからではわからなかったが、今では、凛が両手で顔を覆ってすすり泣いているのが見て取れた。

 そっ……と、凛の両肩に両手を置く煉弥。ピクリ、と身体を震わす凛。


「……悪かった。凛」

「うっ……しっ、痴れ者が……ひっく……あ、姉上、と……呼べぇ……ぐすっ……」

「お前を、姉上などと呼ぶもんかよ。凛を――姉上なんか、呼んでやるもんかよ。姉上なんて呼んじまってたら――お前のことが好きだって――そう、言えなくなっちまうじゃねえかよ」

「……ッ?! し、痴れ者が……ッ!! 痴れ者がッ!! 痴れ者が、痴れ者が、痴れ者が、痴れ者が、痴れ者がぁ~~~~~~~~~~ッ!!」


 両手で顔を覆ったまま、大声をあげて長い艶髪を振り乱しながらイヤイヤをする凛。


「ああ、そうだ。俺ぁ痴れ者だ。凛の気持ちに気づかずに、勝手に凛のことを気づかって凛を遠ざけていた俺は、とんだ痴れ者だ」

「わ、私の……気持……ち……だと……?」

「そうだ。凛の気持ちだ――――」


 煉弥がそう言うと、凛の両肩に乗せていた手に力を込め、ぐるりんっと凛の身体を反転させた。


「なっ、なにをするッ?!」


 凛がまたしても背を向けようとするのを、


「だから、俺にもわかるように!! お前の気持ちも――俺に教えてくれよ!!」


 と、煉弥が凛の両肩を強く握って押しとどめた。


「なんだとッ?!」


 両手で顔を覆ったまま叫ぶ凛。煉弥は凛の両肩から手を外し、


「だから――お前の……凛の気持ちも教えてくれよ」


 凛の顔を覆っている凛の腕に、優しく手を添えた。ビクッ! と身体を大きく震わす凛に、


「イヤだったら、いい。だが――イヤじゃなければ、教えてくれ。凛は――俺のことを、どう思ってくれてるんだ……?」


 そう投げかけ、凛の腕に添えた手に力をいれ、凛の顔を覆っている凛の手をゆっくりとはがそうとした。

 最初は腕に、ぐっ! と力をいれて抵抗していた凛だが、やがて観念したのか、凛の両手は煉弥にされるがままに、顔から離していった。


「凛……」


 現れた凛の顔は、煉弥の思っていた以上に愛おしいものであった。

 瞳は涙できらめき、羞恥によって染まった真紅の頬。なにやら懇願しているかのような、そんな表情でうつむき、小さくすすり泣く様は、凛が常日頃そうあろうとしていた武士の姿ではなく、すぐにでも抱きしめてやりたくなるほどに愛おしい十九歳の少女の姿であった。


「凛……教えてくれ。凛は、俺のことを……どう思ってくれてるんだ……?」

「わ、わたっ……しは……。わたっ……し……は……」


 顔が見えぬほどにまでうつむきを強め、大きく身体を震わせる凛。

 思わず凛の両肩を、ぎゅっと握りしめ、力強く呼びかける煉弥。


「凛!!! 答えてくれよ!!!!」


 もう――ダメだ。

 今の私は――武士にはなれぬ。

 今の私は……私は……。

 武士ではなく……一人の――女だ。


「――決まっておるだろうッ!! 私だって――キサマのことが――煉弥のことが好きだッ!! いくら藤堂家の名を存続させるためとはいえ、私は、煉弥以外の男となどと一緒になりたくはないッ!! 一緒になるのなら――煉弥じゃなければイヤだぁッ!!!!!!!」


 うつむかせていた顔を勢いよくふりあげ、恥も外聞もなく、ただ、愚直に己の感情に素直になって、大粒の涙と共に愛おしい相手の名前を叫ぶ凛。もう、お互いにこれ以上の言葉は必要ない。

 何も言わず、凛を抱き寄せる煉弥。凛も抵抗することなく――むしろ、自分からしがみつくように、煉弥に抱擁される凛。


「うっ……うぅ……ほっ、ほんとぉに……わっ、わたしなぞで……よい、の、かぁ……」


 煉弥の胸の中で、涙ながらに訴える凛。


「お前じゃなきゃ……ダメだ」


 しっかりと凛を抱きしめながら、凛の耳元で囁く煉弥。


「わっ、わたしは……昨夜の、女子のように……愛らしくも、ない、し……そっ、その……ちっちちちち、乳房も……大きくないぞ……ほっ、ほんとうに……それ、でも……よいの、かぁ……」


 えぐっ、えぐっ……と、さめざめ泣きながら煉弥に問う凛。まったく、てめぇを卑下するのも大概にしろってんだ。お前は気づいてないだろうが、お前はお前なりに、十分可愛いんだぜ。


「あのなぁ。自分を謙虚に言うのはいいが、度が過ぎちゃあ卑下してることになっちまうぜ。お前にだって、愛らしいところはいっぱいあるんだ。たとえば、そうだな――実はお前は甘味が死ぬほど好きで、隙を見ては行きつけの甘味処に足しげく通っているところとか、女の子らしくて愛らしいじゃねえか」

「なッ?! キ、キサマッ!! なななな、なぜそれを知っているッ?!」

「俺だけじゃなく、江戸中のやつらが知ってるぜ? お前は知らないだろうが、お前の一挙手一投足は江戸のかわら版の手によって、江戸中に流布されてるんだからな。良くも悪くも、お前は目立ちすぎるんだよ」

「そっ、そんな……私の知らぬところで、そのような……ことが……」


 茫然とした声をあげる凛。


「でも、いいじゃねえか。天下の女剣士・藤堂凛が、実は甘味が大好きで、その中でも飴湯が特に好きだっていう子供っぽい可愛い一面を江戸中の人間に知ってもらえてるんだ。よかったじゃねえか、り・ん・ちゃ・ん」


 ぽんっぽんっ、と凛の頭を軽くなでてやる煉弥。わなわなと震えている凛に、さらに煉弥が追い撃ちをしかける。


「それとな、お前は自分のことがよくわかってねえようだが、お前の胸は一般の町娘のそれより、かなりでかいほうなんだぜ? お前は八重さんと自分を比べているようだが、そもそも、それが間違いなんだよ。八重さんが異常なだけで、お前は十分大きいから、もちっと自分の女らしいところに自信をもてよ」


 さすがにこの一言には凛もすえかねた。


「きっ、キサマッ!! 黙って聞いていれば言いたい放題言いおってッ!! わっ、私の、その……む、むむむむ胸も見たことないくせに、知ったふうな口をきくなッ!!」

「おぉ? なんだ? じゃあ、俺にお前の乳房を実際に見せてくれよ。そうすりゃあ、ちゃんとした正当な評価をくだせらぁ。ほら、見せてくれよ」


 ぐりぐりと凛の頭を撫でまわしながら言う煉弥。


「ふっ……ふふふふっふふふ……ふざけるなぁッ!!」


 煉弥の腕にガブリッ!! と噛みつく凛。


「いってぇ?!」

「ひれものふぁッ!! ほもいひふぇッ!!」

「わかった!! わかった!! 俺が悪かった!! だから噛むのはやめろ!!」


 ふんッ!! 思い知ったかッ!! とでも言いたげに、勝ち誇った笑みを浮かべて煉弥の腕から噛みついていた口を離す凛。いってぇなぁ……と、自分の腕にくっきり残った凛の歯形に視線をやると、煉弥は思わず、ふふっ……と笑みをもらしてしまった。それを見咎めた凛、


「……何がおかしい」

「いや、な。お前って、俺とのケンカでどうしようもなくなった時に、最後の切り札としてよく噛みついてきたよなぁって思いだしたんだよ。そういや、よく噛みつかれてたよなぁってな」

「そうだったか?」

「そうだったんだよ。で、お前が噛みつき始めた時に、ツバメさんがやってきて何をしているかッ!! と激怒して、その騒ぎを聞きつけたおっちゃんがやってきて、俺とお前にゲンコツ一発ずつくらわせて、喧嘩両成敗ってことで、よく場を収めてくれてたよな……」

「……そう……だったな……」


 温かい過去の追憶が二人の脳裏によぎった。そして、きつく互いに抱き合う二人。そう、もうあの時には戻れない。だから、俺達は前に進まなければならない。一歩。一歩。


「……凛」

「……なんだ」

「俺は、お前にずっと隠していたことがある。今、その隠していたことをお前に伝えたい。でも、それをするには、タツ兄や楓さん達の許可がいるんだ……」

「そうか……。それならば、深くは聞かん。だが、一つだけ、教えてくれ」

「答えられる範囲でなら、な」

「その、キサマのいう隠し事というのは……七年前に、キサマが私のそばから去っていったことと、関係があるのか?」


 上目づかいに煉弥を見る凛。


「……ああ。関係があるどころか、それが理由で、俺はお前のそばから去ったんだ」

「…………そうか」


 少しの沈黙。そして、凛がささやくように一声。


「わかった……しかるべき時がきたら、話してくれ……」


 煉弥の腰に回した手をほどき、煉弥から離れようとする凛。それを、煉弥は逃がすもんかよと、ひしと抱き寄せる。


「きっ、キサマッ?! い、いいいい、いつまで抱きとめようとするつもりだッ?!」

「減るもんじゃなし、いいじゃねえかよ。こうやってお前を俺の腕の中に抱きとめことを、ずっと俺は夢見てたんだ。せっかく夢が叶ったんだから、もう少し、俺の腕の中にいてくれよ」

「きっ、ききききキサマッ!! そんな、歯の浮くような言葉を、よくも臆面もなく言えたなッ!!」


 顔を見事なまでに真っ赤に染め上げる凛。


「イヤ――か?」

「イヤか……だと? ……卑怯な言い方をするな。……イヤなわけ、ないであろう」


 自らも歯の浮くような言葉を吐きながら、しおらしく煉弥の腰に手を回す凛。


「キサマがそこまで言うのなら致し方ない――もう少しだけ……だぞ」


 ははっ。その言葉も、ケンカの時によく言ってたよな。俺が謝ったら、キサマがそこまで言うのなら致し方ないっつって、折れてくれてたよな。

 嬉しいぜ。お前は、昔と何も変わってないみてえだな。

 どうやら――変わっちまっていたのは――俺だけのようだったらしい。


「凛……今から俺が言うことは、誰にも口外しないでくれ」

「……なにゆえだ?」

「俺の、御役目に関わることだからだ。本来ならば、誰にも漏らしてはならんだが、お前だけにはどうしても知っていてほしいことがある。それを――お前に伝えたいんだ」

「……わかった。約束する。誰にも、口外はしない

 すまんな。とこぼし、小さく咳ばらいをして、煉弥は凛の耳元でささやいた。


「件の辻斬りだが――やはり、七年前の辻斬りと大いに関係がありそうなんだ。んでもって、今回の辻斬り事件はもう少しでケリがつこうとしている」

「……そうか。やっぱり、関係があったか……」

「ああ……だから、もう少しだけ、待っててくれ。必ず――必ず、俺が七年前のことの真相をつきとめてくる」

「……わかった。だが、私からも、一つだけキサマに――煉弥に約束してほしいことがある」

「なんだ?」

「必ず……私のもとへ、帰ってきてくれ。もう……七年前のように……私を、一人にしないでくれ……」

「わかった……約束する。あぶねえ時は、すたこらさっさとトンズラかましてでも、凛のもとへと必ず帰ってくるからな。タツ兄たちと比べりゃあ、俺は腕っぷしはそうでもねえが、なあに、逃げ足だけなら自信があらぁな」

「ふふ……そうだな。煉弥は、昔から、逃げ足だけは早かったな」


 柔和な笑みを浮かべる凛。


「ああ、そうだ。だから、怖い怖い辻斬りの下手人と立ち向かう勇気をもらうためにも、もう少し、このままでいさせてくれよな」

「ふっ、ふんッ!! すっ、好きにしろ……!!」


 ついに、お互いの想いを打ち明けあった二人。

 この二人を知る者からすれば、二人が抱き合うこの光景は、長年待ち望んでいた瞬間であり、そして、そのために色々と気を回したりもしてきたものだ。

 それは――二人の今のやりとりを遠巻きから見守っていた源流斎も例外ではなかった。


「ほっ……蛙の子は蛙、かの」


 左馬之助の奔放な性格とよく似た煉弥と、ツバメの実直な性格と美しさを受け継ぎ、そして昇華させた凛。

 この二人が一緒になるは、どこか運命めいたモノを感ぜずにはおられんわい。

 さて……なれば、全てにケリをつけなければなるまいよ。

 凛のためにも――ケリをつけねば、のう。

 そうして、源流斎はとある場所へと向かうために、支度をはじめた。

 源流斎が向かおうとしているとある場所というのは――――江戸城。それも、将軍の元であった。

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