第二幕ノ五 広がる別世界――吉原という隔離世


 老婆と共に吉原の大門をくぐった八重とタマがまず真っ先に思ったことは、吉原という場所がこの世の楽園なんて呼ばれていることはあながち嘘じゃないのかも、ということだった。

 まだ朝時分ゆえに人の気配がせず閑散としてはいるが、そこら一帯に連なる色とりどりの妓楼ぎろう(遊女を置いて、客と遊ばせる店のこと)。それらの妓楼には、大小さまざまな趣向を凝らした提灯ちょうちんがぶらさがっており、きっと夜になれば、幻想的な情景をそこに浮かばせるのだろう。

 そんな妓楼が、大門から続く一本道――ちょうど吉原を二等分するように中心を通る道の両側に所狭しとならんでいるのだ。

 江戸の町の中でも、これほどまでに建物が密集しているところなど、八重の知る限りでは見たことがなかった。それに、辺りの妓楼の豪勢さといったら……。周囲ののどかな田園風景からはまったくもって想像のできぬ別世界。


「はぁ…………」

(にゃぁ…………)


 思わずため息だって出ようというものだ。まさに豪華絢爛ごうかけんらん秀色神彩しゅうしょくしんさい――――世の楽園と称せられるのも、この光景を見ればなるほどなっとくってなものだ。

 吉原のあまりの別世界ぶりに、ほへぇ~……と、あんぐり口をあけて呆ける八重とタマ。そんな二人を見て、老婆がピシャリと一声。


「ぼけぇ~っとしてないで、しっかりついてきな!!」


 はっ?! はいぃ!! と慌てて老婆の後ろに追従する八重。ふぅ~~ん……と鼻を鳴らしながらタマも後に続いた。

 大門をくぐってすぐの右側に小屋があり、どうやら老婆はそこに向かっているらしかった。

 老婆と共に小屋へと歩み寄ると、小屋の前に一人の男が立っているのが見えた。その男は老婆の姿を認めると、半ば呆れたような口調で老婆に話しかけた。


「なあ、梅ばあさんよぉ……仮にも、吉原で一、二を争うってほどにその名を轟かせる妓楼である松竹屋の主人なんだから、もう少しまともな恰好をしちゃあどうだい? そんなぼろきれのような衣服おべべじゃあ、乞食と間違われたってしょうがねえぜ」

「はん!! アタシの恰好なんかより、肝要なのは、アタシの娘達の恰好さね。アタシが汚らしければ汚らしいほど、アタシの娘達が綺麗に見えるし、アタシが醜ければ醜いほど、アタシの娘達が美しく見えるのさ。だから、アタシはこういう恰好をしてるんだよ」


 息巻く老婆――梅ばあさんの言葉に、ちげえねえちげえねえ、と大笑いする男。その男の視線が梅ばあさんの後ろにいる、八重の方へと向けられると笑いを引っ込めて、うぅ~~~ん? と不思議そうな表情を浮かべた。


「おやぁ? その娘っこはどうしたんだい?」

「ああ、この娘はねぇ――今日からアタシんところで面倒をみる八重って娘さ。ほら!! 挨拶しな!!」


 梅ばあさんから促され、はっ、はいぃ~~!! と男の前へと躍り出る八重。


「あ、あの……本日から、そ、そのお世話になることになりました、や、八重と申します……」


 ぺこりと頭をさげる八重。そんな八重を見て、男は目を丸くしながら、


「ほぉ……こいつぁ、たまげたなぁ……。梅ばあさんが、アンタみたいな年頃の娘っこを迎えるなんて、今まで一回もなかったことだぜ。梅ばあさんよぉ、どういう風の吹き回しだい?」

「アタシがどんな娘を迎えようが、アンタの知ったこっちゃないだろう!! 余計な詮索する暇があったら、さっさといっぱしの若衆になりな!!」

「おぉ~こええこええ……。ま、でも梅ばあさんのいうとおり、余計な詮索は吉原じゃあ御法度だからな。うん、その娘っこのツラは覚えたから、もう行ってもいいぜ。お疲れさん、梅ばあさん」


 あいよ。と男に声をかけ、八重の方を振り向きもせずに、さっさと吉原の中へと歩いていく梅ばあさん。ま、待ってくださぃ~~! と、梅ばあさんの後につく八重とタマ。八重が梅ばあさんのすぐ後ろにきたところで、歩きながら梅ばあさんが八重へと話しかける。


「今アタシたちが立ち寄ったところはねぇ、四郎兵衛会所しろべえかいしょって呼ばれてるのさ」

「四郎兵衛会所……ですかぁ?」

「ま、いうなれば見張り小屋みたいなもんさ。吉原から遊女が逃げ出さないように見張ってるんだよ。それだけじゃなく、外からの女客に渡す木戸札きどふだっていう通行手形を出すこともやってるが、主な役割は遊女の見張りさ」

「見張り……」


 見張りという言葉に不吉なものを感じ、八重は、はたとその足を止めた。


(八重? どうかしたにゃ?)


 タマのテレパシーに答えることなく、きょろきょろと改めて辺りを見回してみる八重。

 すると、先ほどは見逃していた、とあるものが八重の瞳の中に飛び込んできた。

 格子窓――牢獄のような、格子窓。妓楼の一番目立つ通りに面したところにとりつけられている、格子窓。

 それも、一つだけではない。

 辺り一帯にひしめく妓楼全てに、その格子窓はあった。

 先ほどは妓楼の美しさにばかり見とれて、八重にはその格子窓が見えていなかったが、見張りという言葉を耳にし、吉原という場所の本質を思い出すことによって、それらの格子窓がやけに目につくようになってしまっていたのだった。


「まるで…………」

「罪人を閉じ込める牢獄のようだ――そう言いたいんだろう?」


 八重が言おうとしていた言葉を、梅ばあさんが不意にひきついだことに驚き、びくりと身体を跳ねさせる八重。


「そう、牢獄さ。間違っちゃいないよ。でもねぇ――牢獄ってぇところは、いつかは出られるもんなんだよ。そう、いつかは吉原から出ていって町人になるために、遊女は――アタシの娘達は頑張ってるのさ」


 その醜怪な容貌とはとても釣り合わぬ、優しい声色だった。今までの梅ばあさんとのあまりのギャップに目を丸くする八重とタマ。そんな一人と一匹の視線に気づいた梅ばあさん、なんともばつが悪そうな様相で、


「はんっ! 柄にもないこと口走っちまったようだねぇ! まあいい、まあいい。これも吉原の魔力がなせる業ということにでもしておこうかねぇ――――ほら! いつまでも立ち止まっちゃいらんないよ! さあ、ついてきな!!」


 ぺっ! と唾を吐き捨て、さっさと歩みを再開する梅ばあさん。その歩みに遅れまいと、慌てて梅ばあさんの後に続く八重とタマ。

 お互いに一言も発さず歩き続けていく。ずんずんずんずんと、吉原の奥へ奥へと歩き続けていく。

 いったい、いつになったら目的の場所につくのだろう?

 八重の頭の中にそんな疑問が浮かび始めた頃だった。


「ついたよ――ここがアタシのやっている松竹屋さ」


 梅ばあさんが早足を止め、どこか誇らしげな口調で八重にそう言った。


 梅ばあさんの声に促されるように、目の前の建物へと目をやる八重とタマ。


「わぁ…………」

(にゃあ……こりゃあ良い趣味してるにゃあ……)


 吉原に来てから幾度となくついてきたため息の中でも、一番大きなため息をつきながら、一人と一匹はつぶやいた。

 吉原の最奥に、デンと構えられた、何やら神妙めいた雰囲気をたずさえた独特な妓楼がそこにあった。周囲の派手やかな色合いの妓楼の中で、落ち着いた色合いによって彩られたこの妓楼は、他の妓楼よりもやや小さめなつくりながらも、まるで周囲の妓楼の元締めといったような印象を見るものに抱かせた。

 そして何より、他の妓楼との大きな違いは、この妓楼には格子窓がないということであった。


(吉原ってところはギンギラギンだらけで、にゃんは正直好みじゃなかったけど、ここなら文句なしにゃ。梅ばあさんも良い趣味してるにゃ)


 おみゃ~もそう思わないかにゃ? と聞いてくるタマに、八重も素直にコクリとうなずいた。ほんとう。この妓楼って、なんだか不思議。初めてくるところなのに、懐かしいような……。


「さあさあ、いつまでも突っ立ってないで、中に入んな。色々と覚えなきゃいけないことがたくさんあるんだからね」


 毎度のことながら、さっさと松竹屋の中へと入っていく梅ばあさんの後を、慌てておいすがっていく八重とタマ。

 わたし、吉原での生活に馴染むことができるのかな。それに、わたしなんかが、皆さんのお役にたつことなんてできるのかな……。

 そんな不安な思いが、松竹屋へと入っていく八重の頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。それが、わかりやすく表に出ていたのだろう。タマが八重の足へとすり寄って、喉をごろごろごろごろ……とならす。

 八重を助けてやらないとにゃ。八重を助けてあげるのが、今回のにゃんの仕事にゃ。

 それにしても、本当に、吉原ってところは、隔離世かくりよのようだにゃ。いや――――幽世かくりよというほうが正しいのかもにゃ。

 拭い去れない不吉な予感が、タマの胸の中をいっぱいにするのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る