第二幕ノ六 おいでませ、松竹屋――八重、運命の出会い
八重たちが松竹屋の中へと入ると、まずは広い土間が八重たちの目に入った。
どのくらい広いかというと、土間の中に井戸や台所があるほどだといえば、この土間の広さがわかるというものだろう。
土間の広さに八重が目を丸くしていると、梅ばあさんが土間の奥の方へと向かって、
「おぉい!! 帰ってきたよ!!」
と、大きな声で呼びかけた。すると、どたどたどたどたという、いくつもの小さな駆け足の音が土間の奥の廊下から響いてきた。その足音を耳にし、梅ばあさんは嘆息を漏らしながらつぶやいた。
「まったく!! いつになったらしとやかさが身につくのかねぇ」
ふぇ? と八重が首をかしげていると、土間の奥の廊下から、
ばばちゃま~~!! ばばちゃま~~!!
という、幼い子供の愛らしい声がいくつも響いてきたかと思うと、その愛らしい声に似つかわしい、愛らしい姿をした幼女たちが、どどどどっと現れて梅ばあさんに抱きついてきたのだった。
「ばばちゃま~~!! おかえりなしゃい~~!!」
「おお。おお。帰ってきたよ。少しの間の外出だったけど、何か変わりや大事はなかったかえ?」
「うん~! ありましぇんでしたぁ!」
「これ、ばばさまがいつも言っているだろう。ありません、ではなく、ございません、だよ。ほれ、言いなおしな」
「はい~! ございましぇんでしたぁ!」
ございましぇんでしたぁ! の大合唱に、梅ばあさんは八重たちが目を疑うほどの優しい笑みを浮かべて、幼女たちの頭を撫でてやった。やがて、八重のことに気づいた一人の幼女が、八重の元へと、ととととっとかけてきて、
「お客しゃまでございましゅかぁ? おひゃやいおちゅきでございましゅ」
ペコリと頭を下げた。この幼女の言葉を皮切りに、他の幼女たちも八重に向かって、お客しゃま松竹屋へのおひゃやいお越し、どうもありがとうございましゅ~! と一斉に頭を下げた。
「ふぇ?! い、いや、あの、わ、わたしは…………」
わたわたとうろたえる八重。梅ばあさんは笑いながら、
「こぉれ、なにを早合点してるんだね。この娘はお客様なんかじゃないよ。この娘はねぇ、今日からお前たちと一緒にこの松竹屋でお勉強をすることになったのさ。ほら、八重、挨拶をしな」
「は、はいぃ。あ、あの、今日から、こちらでお世話になることになりました、や、八重と申します……」
ペコリと八重が幼女たちへと向かって頭をさげる。
「とまあ、こういうわけだから、おまえたち仲良くしてやっておくれよ」
梅ばあさんの言葉に、かしこまりしたぁ! と、満面の笑みを浮かべる幼女たち。そんな微笑ましい姿に、八重とタマは呆気にとられるばかり。吉原に抱いていたイメージがまったくもって当てはまらないこの光景。いったい、どういうことなんだろう。
小首をかしげている八重に、幼女たちがワラワラワラワラと群がりはじめた。そして、八重の身体にベタベタと触れながらまとわりつきながら、
「八重ちゃま? 八重ちゃまって呼んでもいい?」
「八重ちゃま、前髪ながぁ~い」
「八重ちゃま、おめめおおき~い」
「八重ちゃま、おっぱいおおきぃ~~い!」
ほんとだぁ! ほんとだぁ! と幼女たちから執拗に胸を触られ、八重は顔を真っ赤にしながら、
「ひゃっ!? や、やめっ、やめてぇ! さわっちゃだめぇ! のびちゃうっ! のびちゃうからぁ!」
何がのびるのぉ? と、いたいけな笑顔でのたまう幼女たちの執拗な責め苦に、必死の形相で左手で胸をかばい、右手で必死に頭をおさえる八重。八重から少し離れた場所で、そんな微笑ましい状況にニヤニヤ顔(といっても猫の姿なので
(にゃははははは♪ おみゃ~の先行きは大変そうだにゃ~♪)
(そっ、そんなこと言ってないで、助けてくださぃ~~~!!)
あまりの八重の滑稽ぶりに、思わずタマは、にゃあと鳴き声を漏らす――――だが、それがいけなかった。
八重に群がっていた幼女たちが、タマの鳴き声を耳にして、その視線を一斉にタマの方へとギョロリと向ける。
獲物を見つけたと言わんばかりの幼女たちの表情に、みゃっ?! と声をあげて怯えるタマ。やばいにゃ。絶対やばいにゃ。
「ねこぉ~~~!」
きゃぁ! ねこぉ~~! と甲高い声をあげながら、タマへと向かって幼女たちが一斉に突進していく。逃げなきゃきっとやばいにゃ!! 全身の毛をむしられてひどい目にあうに違いないにゃ!!
緊急脱出にゃ!! と身をひるがえそうとしたが、時すでに遅し。あわれタマは逃げようとしたところで尻尾をひっつかまれ、
「ねこぉ~~~!」
「かぁわいぃ~~!」
「真っ白~~~!」
「もふもふ~~!」
「眉毛~~~!」
幼女の群れになぶりものにされはじめてしまった。
(うみゃあぁぁ!! やめるにゃ!! 離すにゃ!! 尻尾をひっぱるにゃ!! きぃきぃやかましいにゃ!! これだからチビは嫌いにゃ~~~~~~~~!!!!)
に゛やぁおおおお!! という猫にあるまじき低い叫び声をあげながら、幼い狩人たちの魔の手から必死に逃れようとするタマ。すると、梅ばあさんという見た目的にはとてもそうだとは言えない救いの女神の手がタマに向かってさしのべられた。
「はいはい、いつまでも騒いでいるんじゃないよ。お前たちのお勤めに戻んなさい」
梅ばあさんの言葉に幼女たちは、はぁ~~~い! という快活な声をあげて、どたどたどたどたと元来た土間の奥の廊下と消えていった。まさに、嵐のように、である。
嵐にあった八重とタマはというと、八重はなんとかギリギリで首の伸びるのを堅守してのぜぇぜぇ顔。タマは柔らかな白毛をしっちゃかめっちゃかにされ、腹を上にして力なく土間に倒れて虫の息。
ほんの少し前まで、吉原は思ったよりもひどいところではないと考えていた一人と一匹だが、どうやら考えを改めなければならぬらしいと、頭ではなく心で悟ることになってしまった一幕である。
「まったく……いつになったら松竹屋の禿らしく振舞えるのかねぇ、あの子たちは……」
ふぅ、と梅ばあさんが深い嘆息を一つ吐いたところで、土間の奥の廊下から、今度はしとやかな足さばきで一人の少女がやってきた。そして、梅ばあさんに向かって三つ指をついて礼儀正しいお辞儀を披露してみせた。
「おかえりなさいまし、
「おや? 今日の早番は
あら、お忘れでございますか? といたずらっぽく笑いながら顔をあげる柚葉。そんな柚葉の、幼さと品の良さが同居した魅力的な顔立ちの笑みが、八重の方へと向けられる。
「こちらの方ですか、楼主様がおっしゃられてました新しい禿の方というのは?」
「ああ、そうだよ。名前は八重だ。ああ、しかし、ちょうどいいねぇ。八重の仕込みを誰に頼もうかと思っていたんだけど、柚葉なら間違いない。そういうわけだ、頼まれてくれるかね柚葉」
「かしこまりました」
今一度、梅ばあさんに三つ指をついてお辞儀をする柚葉。八重も柚葉に向かって慌てて、よろしくお願いいたしますぅとお辞儀をしてみせた。
「うふふ。お声が愛らしい方なんですね。それでは、改めて自己紹介をさせていただきます。私、こちら松竹屋にて
「はっ、はいっ。不束者ですが、こちらこそよろしくお願いいたします……」
うふふ。となんともいえぬ魅力的な笑みを浮かべる柚葉。たぶん、わたしと同じくらいの年齢なのかな? そんなことを思っていると、柚葉が少々困惑さを漂わせた声で、
「あの、楼主様……」
「うん? なんだい?」
「その、八重さんは、禿としてお勉強をなさるには、少々御歳をめされすぎているのではないかと思うのですが……」
「ああ、そうだねぇ。だけど、だからといって禿の下積みもなくいきなり新造として扱うわけにゃあいかないね。その点については、アンタも納得できるだろう?」
「え、ええ。そこはよくわかるのですが……」
「まあアンタが戸惑うのもわかるが、八重はアンタたち以上にちょっと訳ありでね。その時になったら詳しく話してあげるから、ともかく八重のことは禿として教育してやっておくれ」
ちょっと考える素振りを見せた柚葉だが、すぐに魅力的な笑みを浮かべて、
「かしこまりました――楼主様の仰せのままに」
三度目の三つ指お辞儀を梅ばあさんに向かって披露した。それを見て満足そうにうなずいた梅ばあさんが、
「それじゃあアタシもお勤めを始めるから、八重のことは頼んだよ」
と言い残し、さっさと
「あんな感じの楼主様ですが、本当はとってもお優しい方なんですよ。この脱ぎ捨てた草鞋も、私の教育のために、わざと乱暴に脱ぎ捨てていらっしゃるのです。ですから、決して楼主様を誤解なさらないでくださいましね」
はっ、はいぃ~と頷く八重にも、柚葉は、さあ八重さんも草鞋を脱いでおあがりくださいと促した。
柚葉にうながされ、わたわたと草鞋を脱ごうとする八重。すると、柚葉がおやっ? という顔をしているのが見えた。柚葉の視線の先を追ってみると、そこには腹を上向きにして土間の床にびろぉ~~~んと目一杯に身体を伸ばして倒れているタマの姿があった。
「生きている……のですよね? あの猫ちゃんは」
「あ……は、はいぃ……おそらく……」
たはは……と苦笑いを浮かべる八重を見て、事の次第をなんとなく察したらしい柚葉が、
「すみません、うちの娘たちが……」
八重と同じように、たはは……と苦笑いを浮かべてみせる。そんな互いの様子に二人は顔を見合わせ、そして、ふふっ! と吹き出しあった。
年相応の笑みを浮かべ合う八重と柚葉。そんななか、八重は驚いていた。不思議と、先ほどまで八重の心を支配していたどす黒い不安感がなりを潜めていたことに気づいたからだ。
どうしてだろう……。八重は刹那そのことに考えをやろうとしたが、すぐにやめてしまった。不安なんてないほうがいいにきまってる。これからきっと、いっぱい不安になったり怖いことがいっぱい待ってるに違いないんだ。じゃあ、せめて今くらい、不安なんて忘れてしまいたい。
この時、八重は気づいていなかった。
今、自分の目の前にいる少女が、後に八重という少女に多大なる影響を与えてしまうということに。
八重という少女が――――世の哀しみと理不尽と不条理と、人にはどうにもできぬ呪いの烙印があるということを知ることになろうとは――――。
この時の八重には――――知る由もなかった。
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