第二幕ノ七 松竹屋の売り――稀有なる妓楼
「しかし、八重さんの猫ちゃんって、すごく八重さんに懐いていらっしゃるのですね。猫は人には懐かないなんてよく言いますが、八重さんと猫ちゃんを見てると、そんな言葉なんて嘘なんだって思います」
廊下を歩いているにもかかわらず、絶妙なバランス感覚で八重の頭に力なくびろぉ~~~んと伸びたまま乗っかっているタマを見て、ふふっと品の良い笑みをこぼしながら柚葉が言った。
「そ、そう、ですね……」
懐く……とはちょっと違うのだけどなぁ、と苦笑いを浮かべる八重に、柚葉が笑みを維持したまま問いかける。
「ところで、その猫ちゃんにはお名前をつけてあるのですか?」
「あ、は、はいぃ。タマさんとおっしゃいますぅ」
「まあ。ふふっ。八重さんったら、とても礼儀正しい御方なんですね。猫ちゃんに対しても、さんづけでお呼びになるくらいですから」
「ふぇ? あ、あの、そのぉ……」
実はこの猫は化け猫で、わたしなんかよりもい~~~っぱい長生きされてる方なんですぅ。なんて、口が裂けても言えるわけがない。八重に出来ることといえば、たはは……と苦笑いを浮かべながらなんとか誤魔化すことくらいだ。
(まあ、この柚葉って娘がいうように、八重は礼儀正しい部類に入るんじゃないかにゃ? 実際、にゃんのことをさんづけで呼んでくれるのはおみゃ~くらいのもんだにゃ)
長屋の連中は、にゃんを馬鹿にしくさってるにゃ! ふん!! と鼻息荒く念じるタマの言葉に、八重はなおさら苦笑いを強めた。
そんな折、廊下の奥から、先ほど聞いた恐ろしいきゃぁきゃぁ声が響いてくるのが八重とタマの耳に入った。思わず、構えてしまう一人と一匹。
「あら。八重さん、申し訳ありません。少し、廊下の道をお開けになってあげていただけませんか?」
「は、はいぃ」
廊下の壁際へと移動する柚葉と同じように、八重も廊下の壁際へと身を寄せて、廊下の真ん中が空くように道をあける。
すると、どどどどどどどっ! という小さな揺れを感じさせるような勢いで、先ほどの幼女たちが、
「おしぇんたくぅ~~!! おしぇんたくぅ~~!!」
甲高い歓声をあげながら、それぞれ様々な洗濯物をもって土間へと走っていった。それを見送ると柚葉が、
「はい。もうよろしいですよ」
と微笑みながら言って、廊下の中央へと身体を戻した。それにならう八重。
「元気でしょう?」
「は、はいぃ。と、とてもお元気だと思いますぅ……」
(……ありすぎるの考えものだけどにゃ)
一人と一匹は嘆息したが、それを柚葉は感嘆の息だと勘違いしたらしい。ふふっ、ですよね。と慈しみの笑みを浮かべて言い、前に向き直りしとやかに歩みを再開した。
どうやらこの
「それでは、どうぞこちらへ――――」
流れるような所作で廊下に座り、部屋の障子を音もなく開ける柚葉。そして、あっ! という表情をして苦笑いを浮かべた。
「ど、どうなされたのですかぁ?」
「い、いえ……つい、いつも調子で、松竹屋のお客様としてお越しになった方と同じ応対をしてしまいまして……」
たはは……とばつが悪そうに笑い、こつんっ、と自分の頭をこづく柚葉。
柚葉のその仕草に思わず八重は、くすっ! と吹き出してみせた。柚葉は、いっそう苦笑いを強めたが、こほんっ! と咳ばらいをして、
「そっ、それでは、改めてこちらへどうぞ」
と、八重に促した。
八重は、は、はいぃ。とおっかなびっくりの様相で部屋の中へと踏み込んだ。
八重が部屋の中に入って驚いたのは、その広さ。広い。とにかく広い。
四十人くらいは余裕で収容ができる広い部屋だった。だが、部屋の中自体はひどく殺風景で、畳だけしか部屋の中には存在していなかった。例えるなら、旅館の大広間に舞台がなくなった部屋といった感じだ。
(ほぉ~広い部屋だにゃ~~。一体、何に使う部屋にゃ?)
八重の頭からずるりと滑り落ちて、とてっと畳の上に着地するタマ。
ほんとう、何に使う部屋なんだろう? 八重もタマと同じようなことを思っていると、柚葉も部屋の中へと入ってきて、障子戸をまたしても音もなく閉めて、部屋の隅へと摺り足で歩いていった。そして、部屋の隅に積み上げられていた座布団の山から、座布団を三つ抜きだし、それを部屋の中央へと持っていき、一枚の座布団に二枚が向かい合うように置いた。
「どうぞ、こちらにお座りください」
そう言って柚葉は二枚の座布団の方に八重が座るようにとすすめた。どうやら、一枚は八重で、もう一枚はタマのために持ってきてくれたらしい。
(おぉ~♪ この柚葉って娘、気が利くにゃ♪)
タマは上機嫌で座布団の上へと飛び乗り、ふかふかの感触にご満悦の様子で、ごろごろごろごろと喉を鳴らしながら身体を丸めた。それを見た柚葉が、ふふっと笑みを漏らす。そして、八重に空いている方の座布団を指し示し、
「さあ、どうぞ」
と、促した。は、はいぃ。と柚葉の促しに応え、八重も座布団の上へとちょこんっと座る。
「では、なにはさてより――松竹屋にてお勉強をしていく前に、この松竹屋について、いくつかのご説明をしていきたいと思います」
「は、はいぃ」
(八重、しっかり聞いておくにゃ。もう、情報収集の御役目ははじまってるにゃ)
釘をさしてくるタマにも、八重は頭の中で、は、はいぃ。と答えた。そう、タマの言う通り、御役目はすでに始まっているのだ。
「まず松竹屋を語るにあたって、最も肝要なことがございまして――それは、松竹屋と他の
「違い、ですかぁ?」
「ええ。とぉ~~~~っても大きな違いです」
小さな胸を誇らしげに反らせる柚葉。そんな柚葉の愛らしい仕草に微笑む八重。それに気づいた柚葉が、こっ、こほんっ! と姿勢を正しなおして話を続けはじめた。
「そもそも、吉原という場所は、殿方の御相手をして、そ、その……え、えっと……は、春を売るのが通例となっている場所なのですが……」
顔を赤らめながら説明する柚葉に、八重が小首をかしげながら疑問を投げかけた。
「は、春を売るのですかぁ? 春って売れるのですかぁ?」
「あ、いや、そ、その……ここでいう春は、季節の春ではなくて、その……」
わたわたと顔を赤くしながら、どういえばいいのでしょうと、もじもじする柚葉。そんな柚葉を、ふぇ? と、さらに首をかしげて見つめる八重に、さぁ~てこの娘がどういう風に説明するのかにゃ♪ と意地の悪い思いでほくそ笑むタマ。やがて、よ、よしっ! と意を決した素振りを見せる柚葉。そして、いっそう顔を赤くさせながら、
「つ、つまりですね……そ、その、春を売る、というのは……そ、その……と、殿方に対して、そ、その……女性が、お布団を共にして……えっと……」
柚葉は意を決したつもりだが、口にしようとするとやはりどうしても口にするのがはばかられるらしく、なんとも回りくどい言い回しとなってしまった。
「お、男の人と……女の人が……」
そこまで口にしたところで、ボンッ!! と顔を真っ赤に染め上げる八重。さしもの奥手なおぼこ娘も、察したようらしい。顔をうつむかせ、柚葉に向かって、す、すいませぇん……と自分の鈍感さを謝った。
「い、いえいえ! 八重さんが謝られるようなことではございませんから!」
ぶるぶるぶるっ!! と、タマが心配になるほどの物凄い勢いで柚葉が首を振る。そして今一度、こっ、こほんっ! 咳ばらいをして気を静め、説明を再開した。
「と、とまあ、他の妓楼ではそういうことが主な売りなのですが、松竹屋では逆にそういうことを一切行っておりません」
(うん? どういうことにゃ? 吉原で春を売らずして、何を売っているにゃ?)
タマが疑問に思うのももっともだった。
そもそも吉原という場所は、御上公認の色町――
それなのに、売春をすることのない妓楼があるなど、タマはまったくもって想像をしていなかったし、それで松竹屋が成り立っている――それも、先ほどの男が言うように、吉原でも一、二を争う妓楼だなんてそれこそ吉原を知っている者からすれば
(じゃあ、この妓楼は何を売ってるにゃ? 八重、柚葉って娘に聞くにゃ!!)
早く話の先を聞きたいタマが、八重にはやくはやく! とせっつく。わ、わかりましたぁ、と頭で念じて答え、八重は柚葉に聞いた。
「そ、それでは、ここではいったい何を売っていらっしゃるのですかぁ?」
「松竹屋がお客様にお売りいたすモノ――――それは、風流でございます」
「風流?」
(風流?)
「はい。風流でございます」
よどみなく答える柚葉とは裏腹に、なんのこっちゃ? と首をかしげる八重とタマ。そんな八重の様子に、柚葉がくすっと笑みを浮かべ言葉を続ける。
「私も、松竹屋へと来た時、八重さんとまったく同じように首をかしげました。えっと、ここで言う風流というものはですね、芸事や詩歌などの芸術的な事を指します。世にいらっしゃいます芸術家の方々は、自分がたしなんでいらっしゃる芸術についての知己を求めたがるものです。ですが、世には中々そういう芸術に深い知識をお持ちでいらしゃる方々は、ごく少数。そこで松竹屋では、そのような方々のための御話の御相手や、時には共に芸事をたしなむ知己とならせていただくことによって、日々の糧を得ているのです」
つまりは、芸術サロンのようなものだ。いつの時代であっても、芸術家がもっとも喜ばしいことは、自分が関与している芸術のことを理解してもらえることだ。松竹屋は、そういう芸術家の手合いのみを対象とした、サロンとして吉原に君臨していると、柚葉は述べているのである。
(ほぉ~~……にゃ~~るほどにゃぁ……。あのばあさん、目の付け所がすごいにゃぁ……)
ネコ目を白黒させるタマ。ただ、柚葉の話を聞いて、八重には気になるところもあった。
「ゆ、柚葉さんのおっしゃるとおりですと、そ、その、柚葉さんも、芸術に御詳しいのですかぁ?」
「まだまだ稚拙な未熟者ではございますが、詩歌をたしなんでおります」
柚葉はそう言うと、ふふっと上品で優しい笑みを浮かべた。なるほど、この少女の品の良さは詩歌――ひいては勉学からきているらしい。ふぇ~……と八重が感心していると、
「この部屋は、私達、松竹屋でお世話になっている娘たちのお勉強部屋なんですよ。そして、夜には見習いの娘達――
(にゃるほど。だからこんなだだっ広い部屋なのに調度品らしいものが一つもないわけだにゃ)
納得した声を念じるタマ。
「なので、しばらくはここが八重さんの寝所にもなりますし、八重さんの日々の御勤めの場所にもなるわけです。ですから、こちらへと八重さんをご案内させていただいた次第でございます」
柚葉から言われ、改めて部屋の中を見回す八重。ここが……当分の間のわたしの部屋……。
「さて、ここまでで、何かご質問はおありでしょうか?」
柚葉から問われ、はっと我に返る八重。
「い、いえ、特には――――」
(にゃ~にを言ってるにゃ!! おみゃ~の寝床はここかもしんにゃいけど、にゃんの寝床はどこになるにゃ!! ちゃんとそれをハッキリさせるにゃ!!)
「あっ! あぁ! ひ、ひとつだけございますぅ!」
「はい、なんでしょう?」
「え、ええっとぉ……た、タマさんは、そ、その、どちらでおやすみになればいいのかなぁって……」
八重のこの質問に、刹那、きょとんとした顔になる柚葉。しかしすぐに、くすっ! と吹き出し、
「そうですね。タマさんも、こちらでおやすみになってくださってもけっこうですが、こちらですと先ほどの禿の娘たちと相部屋になってしまいますので、いくらか不都合がございましょう。ですから、個室で寝起きしていらっしゃいます御姉様方に、タマさんと一緒におやすみになっていただけませんかとお願いしておきましょう」
と申し出てくれた。助かったにゃ。あのチビたちと一緒に寝るなんて、毛がいくつあっても足りんにゃ。
「あ、ありがとうございますぅ」
頭を下げる八重。いえいえ、と柚葉が笑みを浮かべて答えると、部屋の障子戸がすすっと開き、九~十二歳くらいの少女たちがひょこひょこと顔をのぞかせた。
「柚葉御姉様。そろそろ
言葉遣いは丁寧ではあるが、その口調は実に元気いっぱいだ。
「あら、もうそんな御時間なのですね。それでは、八重さん。早速でございますが、松竹屋の禿として、これから私たちと御一緒に朝餉の御仕度をしていただきましょう。私についてきてくださいませ」
すっくと立ちあがる柚葉。それに続いて、はっ、はいぃ! と声をかけてきた少女たちに負けないようにと、八重なりに元気な声をだしながら、柚葉に続いてすっくと立ちあがる。それをタマは、座布団の上に丸まったまま見上げる。
(さて――ここから、本格的に御役目開始だにゃ)
タマの言葉に少し気おくれをしつつも、八重もここまできたからには腹をくくらなきゃいけないと覚悟を決め、部屋の障子戸へと歩んでいく柚葉の後を、八重なりの力強い足取りでついていくのであった。
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