第一幕ノ六 女剣士への縁談――寝耳に水

 急に蒼龍は何かを思い出したかのようにポンと手を打ち、


「ああ、そうだ。僕も凛に用事があったのだった。うん、ちょうどいい。今、少しいいかい、凛?」


 と言った。おいとましようと腰を浮かしかけた凛だが、失礼にならぬように座りなおして、なんでございましょう? と蒼龍に言った。その美しい所作事は、さながら雪解け水が岩の間を流れるがごとく。武士としても、そして女としても気品満ち溢るるものだった。それに中身が伴ってくれれば……と北条義兄弟は心の中で嘆息した。


「実はね。凛に、縁談の話が出ているんだがね」


「……はい?」


「……はぁ?」


 蒼龍の思わぬ言葉に、凛と煉弥はともにもう一度言ってくれと言わんばかりの声をあげた。


「いやいや、冗談なんかじゃないよ? それどころか、向こうはかなりの熱意でこの話を僕に勧めてくるんだよ」


「その、申し訳ありませんが、わたくしはまだそのようなお話はちょっと――――」


「うん、僕もそう思うよ。だから僕も何度も断ったんだけどねぇ……厄介なことに、断れないように相手方が手をまわしてしまってね」


 そういう蒼龍の表情は苦虫を噛み潰したようなものになっていた。この男がそのような表情をするときは、決まってある人物からの直接のご沙汰が出ていることを意味する。それは、つまり――――、


「……将軍様を動かすようなお家柄の相手ってことですかい、タツ兄?」


「忌々しいことにね。まったく、こういう縁組っていうのは本人たちの気持ちが一番大事だっていうのにねぇ。まあ、お相手のほうは凛にホの字もホの字、ぞっこん至極でどうしようもないといったみたいだけど、それは向こうが勝手に惚れてるだけで、凛の気持ちなぞまったくもって考慮していないからね。ほんと、腹立たしいよねぇ」


 蒼龍の言葉に、凛は眉をひそめた。たとえ絶世の美男子から愛をささやかれようとも、日の本一の商家の跡継ぎから縁談を申し込まれようとも、凛は決して首を縦にふることはないだろう。なぜなら、この凛という女が夫として相手に求める条件はただ一つ。それは、凛より剣術が達者である、ということだけなのだ。ゆえに、凛が蒼龍に次に問うことを、煉弥は手に取るように察していた。


「そのお方は、剣の腕が立つのでしょうか?」


「う~ん……まあ、立つことには立つのだろうけどねぇ……。なにせ、あの柳生の家の人間だからね。だからこそ、断れない事情もあるのだけどね」


「柳生――ですか」


 蒼龍の答えをうけて、意外そうな声を凛はあげた。


 柳生一門――――。


 上泉信綱かみいずみのぶつなより新陰流を相伝し、柳生新陰流としての開祖と名高い柳生宗厳やぎゅうむねよし(号は石舟斎)が、当時はまだ豊臣秀吉が存命し二番手として甘んじていた徳川家康の面前にて披露した秘技『無刀取り』が大いに認められ、家康が兵法指南役として宗厳の五男である柳生宗矩やぎゅうむねのりを迎え入れたことが、この一門の隆盛の始まりであった。


 秀吉が倒れ、家康が天下を取り江戸幕府を開くと、宗矩は将軍家の兵法指南役としても剣術指南役としても重宝され、家康、その息子秀忠、さらに三代将軍家光からも絶大なる信頼を得ていた。


 これにより柳生一門――ひいては柳生新陰流の名声は世に広まり、幕府の中での地位も盤石なものとなっていった。


 宗矩が亡くなった後も、その地位は揺るがず、古今無双の剣術一門としての名声は高まるばかり。それを証明する一例として、現在の将軍の剣術指南役である柳生の宗家が御前試合にて遅れをとったことは一度もなし、と世にその名を轟かせていることからもわかるというものだろう。


 だがそのような家柄ゆえ、凛も、そして煉弥も蒼龍の言う縁談話というものに、納得のいかないおかしなものを感じた。


「タツ兄、ちょいと口を挟ませてもらってもいいですかい?」


「いくらでもどうぞ」


「確かに、タツ兄のおっしゃるとおり、話を断れるような相手じゃあありません。ですが、そもそもこの縁談話ってのは、本当にあの柳生の宗家の方から出てる話なんですかい?」


「いい質問だね。だが、その心はいかに?」


「なぜって、変じゃありませんか? 柳生といやぁ泣く子も黙る剣術一筋の集団で、そしてそれが唯一のよりどころであり柳生の名声のすべてでもあるっつっても過言じゃないでしょう?」


「うん。続けて」


「その前に、おい、り――」


 凛と呼び掛け、すんでのところで思いとどまる。今はこの女に余計な口を出させちゃ面倒だ。


「――姉上。たとえ相手が柳生一門だろうと、この縁談話を進めるにあたって、もちろんいつもの条件を相手に提示するつもりなんだろう?」


「当然だ。聞くまでもなかろう。わたしは、わたしより弱い男に身を預けることなどできん」


「だろう? 剣術で天下にその名を轟かす柳生だが、こちらにおわす藤堂凛も天下と言わずとも江戸にその名を知られた女流剣士。柳生からすりゃあ勝って当たり前、負けりゃあ末代までの恥となるどころか剣術一本でつちかってきた名声も一気に地に落ち、ヘタすりゃあその地位も危ぶまれるってことになりかねません。だからこそ、この縁談話は柳生にとって百害あって一利なしなものにしか俺には見えないんですがね?」


「女に負ける剣術指南役になぞ価値はない、か。フン!! 剣術に男も女もあるものか!!」


 確かに凛の言うことは剣術家としては正しいが、柳生や北条のいわゆる政治やお家柄を深く重んじなければならない立場としてはあまりうなずけない言葉である。武士の全てはメンツと大義にあるといっても過言ではない。それゆえ、それを軽んじたり踏みにじられたりする行為は決して許されるものではないのだ。それを許してしまうと、武士としても、官職としてもその家は終わりを意味し、最悪の場合名声を失うどころか、お家取り潰しという沙汰を受ける可能性だってあるのだ。ここがわかっていないところが、やはり凛が武士ではなく剣術家にすぎず、それでいて女であるという証明でもあるといえるのかもしれない。


 そんな憤慨する凛を蒼龍は優しくなだめ、煉弥の疑問にもその優しい声でもって答えてくれた。


「さすがは煉弥だね。僕もこの縁談話にその点においてキナ臭いものを感じたんだよ。それに、僕の父上は今現在、陸奥国の伊達家に所用で出かけていて不在で、僕が北条家当主の代理という状態になっている。そんな時に、藤堂家の後見人である北条家に、将軍様直々に凛の縁談話を持ち出されたとなれば、僕の立場としては断るわけにもいかないわけだ。偶然にしては、あまりにも出来すぎてると思わないかい?」


 煉弥はうなずいて同意した。凛は相も変わらず不機嫌そうな表情を浮かべたまま蒼龍の話の続きを待っていた。


「だが、煉弥の指摘するように、この縁談は柳生家にとってはたしてどのような得があるのかさっぱりわからない。そこで、僕は直接柳生宗家に話をうかがってきたのだけどね……柳生家に到着するなり、一門総出で平謝りをされてしまったよ」


 ははっ、と笑う蒼龍に凛が切り込む。


「それは、どういうことなのでしょうか?」


「今回の縁談話はなんでも柳生宗家にとっても寝耳に水の話らしくてさ。向こうも僕と同じ日に、突然将軍様から縁談話を持ち出されて非常に当惑したそうだよ。そこで将軍様に聞いてみたんだってさ。いったい、我が柳生家の誰を、あの藤堂殿とご一緒になされようとおっしゃるのでしょうか、とね」


「その、お相手とは?」


 うながす凛の言葉に、蒼龍は刹那、鬼の一面を表情に出しかけた。おそらく、その名を口にするのも腹立たしいのだろう。それほどまでに忌み嫌う相手とは、いかに。煉弥は非常に嫌な予感を抱いて蒼龍の言葉を待った。


「…………利位としつら。将軍様はそう答えたそうだよ」


「利位……?」


「利位ぁ?!」


 うっそだろ?! という声をあげる煉弥に、誰? と首をかしげる凛。明らかに件の人物を知っている素振りの煉弥に凛が問う。


「知っているのか?」


「知っているもなにも……というか、てめえ知らねえのかよ?!」


「知るわけがないだろう? わたしは、男になぞ興味はない」


「興味があろうがなかろうが、有名人の名前くらいは知っとけ!! 利位といやぁ、今や江戸中どこで誰に聞いても、ああ、あのお方ですか、と通じるくらいのもんだぞ!!」


「ほう? それほどまでに腕の立つ御仁なのか? しかし、おかしいな。それほどの御仁とならばわたしが名を知らぬはずはないはずだが……」


「……ったく、てめえは剣のことしか頭にねえのかよ!! いいか、利位ってやつはなぁ――――!!」


 煮えたぎる煉弥を蒼龍が手で制す。


「おっと、それ以上は口に出しちゃあいけないよ。壁に耳あり障子に目ありって言うからね。あとは僕が引き取って話を続けることにしよう」


 もし煉弥がこの先に口にするであろう罵詈雑言ばりぞうごんを、この屋敷以外の人間に聞かれてしまえば、この話はきっと相手優位に進めていかれてしまうだろう。まあ、煉弥の罵詈雑言が外に漏れることは万に一つもないだろうが、相手はあの柳生利位。用心するにこしたことはない。


 そんな蒼龍の意を察し、煉弥は不承不承に口を閉ざして、頭の上にクエスチョンマークを浮かべ続けている女トウヘンボクに目線を向けた。くそったれ。よりにもよって、あの利位がコイツに目をつけるとは……。


「柳生利位――通称『雪の利位』という名を持つほどの白い肌と端麗な顔立ちの持ち主でね。その顔立ちの良さと家柄のおかげで、江戸中の町娘の人気の的になっているよ。相当な数の浮世絵もでているし、その人気は飛ぶ鳥を落とす勢いさ。もし、凛が利位の顔を知りたければ、浮世絵売りのところにいくといいよ」


 蒼龍の言葉に、凛は顔を赤らめながら、失礼にならぬようにやんわりと蒼龍を非難した。


「い、意地の悪いことをおっしゃらないでくださいませ。わたしが浮世絵売りのところに姿を見せたくないことを、蒼龍殿はよくご存じのはずでございましょう」


 凛のいうとおり、凛も江戸の町娘たちの間では熱狂的な支持を得ており、その人気に乗じた浮世絵師が勝手に凛の浮世絵を作ってしまい、それを凛様恋しと焦がれる町娘たちに売りつけているのであった。そんなところに凛が顔を出すなど、カモがネギと豆腐と白菜とダシと鍋をしょって猟師の前に出ていくようなものだ。凛様凛様と収拾のつかぬ大騒動になることは明白である。


「ああ、そうだったねぇ。これは失言だったかな」


 ははっ、と無邪気に笑う蒼龍に凛が問う。


「えっと、その、利位? 殿はどのような方なのでしょうか?」


「そうだねぇ……利位という男を端的に表すと、こうさ。見た目は一流、腕は二流、人間としては三流のごくつぶしの女好きなクズ野郎ってとこだね」


 それを聞くなり、凛は目を白黒させた。だが、凛は気づいていない。これでも蒼龍は利位のことを可能な限り好意的に説明しているのだということを。煉弥はもちろんそれに気づいており、改めて蒼龍の心痛の深さをうかがいしれたような気がしていた。


「そのような、人物と、わたしが、一緒に、なれと?」


 凛の感情が高ぶった時の癖である、一つ一つ言葉を区切るしゃべり方を聞いた蒼龍は慌てて、


「いやいや、会うだけでいいんだよ、会うだけで。将軍様の御言葉はあくまでも、凛と利位を会わせよ、と言っているのであって、一緒になれといっているわけではないのだからね。だから、会ってくれさえすれば、それでこの話は終わりさ。ただ…………」


「ただ?」


「利位という男はね、その地位を利用して今まで自分の思う通りに物事を進めてきた男だからね。凛が利位に剣で勝ったらという条件を出せば、きっと利位は軽い気持ちで受けて立ち合おうとするだろう。でもね、利位の剣の腕は逆立ちしたって凛にかなうようなものじゃあないんだ。これについては僕も柳生宗家も見解が一致していてね。だから、柳生宗家からくれぐれも、何度も念押しされて頼まれたことがあるんだ」


「頼まれたこと?」


「うん。それがね――凛に絶対に利位に剣で勝たないでくれっていうことなんだよ」


「――――」


 絶句という形容がまさにしっくりとくる表情で、凛は蒼龍を見つめた。ってことはなんだ。凛に自分よりも格下の相手にわざと負けてやれというのか。それに、凛が負けるということは、利位に凛と夫婦になる絶好の機会を与えてやることにもなる。冗談じゃねえ。いくらなんでも、そんなこと許せるもんかい!!


「タツ兄、しかし、それじゃあ――――」


「ああ、心配しなくてもいいよ。凛と利位が立ち合うような状況なんて、僕が決して作らせないからね。それに、この話は源流斎殿にも通してあるから、いざというときはあの方が手を貸してくれるはずさ」


「御師様が、ですか?」


「じっちゃんが?」


 煉弥と凛は同時にそう言い、お互いに顔を見合わせた。


「うん。あの方もなかなかのしたたか者だからね。さっそく、明日の道場での全体稽古に利位を呼び出しているみたいだよ。会わせるんならさっさと会わせて終わらせてやるわいとかおっしゃってたから、きっと、何か考えがあるんだと思うね」


「さようで、ございますか……」


「だからね、凛。心配せずに、明日の全体稽古ではいつものように毅然とした態度で利位に接してくれていいよ。あんまり腹が立ったら、なんなら一発ぐらいぶん殴ってやってもいい。たしかに剣で勝つなとは言われているけど、殴るなとは言われていないのだからね」


 むしろその瞬間が見てみたいよと、忌々しげに舌打ちを一つして蒼龍は凛に言った。


「さて、これで僕が凛に話したいことは終わりさ。凛のほうからは何か他に僕に話しておきたいことはあるかい?」


 急き立てられるように蒼龍にそう言われ、凛は少しの間思案の表情を見せ、やがて言った。


「……いえ、特にはございません。その利位という方とのお話に関しても、蒼龍殿と御師様が心配するなとおっしゃっておられるのならば、わたしもその言葉に従いたいと思います」


 そして顔を煉弥のほうへと向け、


「いいか。キサマも明日の全体稽古には必ず顔を見せるのだぞ!!」


 キッ!! と睨みをきかせて釘をさした。


「わかったよ……」


 手を振って煉弥はそれに答えた。ばかやろう。言われなくても行くつもりだよ。


「それでは、蒼龍殿。わたしは、これで――――」


 すっくと立ちあがり、部屋から出ていこうとする凛の背中に今度は蒼龍が釘をさす。


「言っておくけどね、凛。辻斬り犯と立ち合ってやろうなんてことは考えないでおくれよ? こういう辻斬り事件のときは、ただでさえ命知らずのマヌケな武芸者たちが江戸を歩き回って、武芸者が下手人と間違われて捜査がかく乱されたり、武芸者たちが辻斬りに斬られる二次被害とかで僕は頭が痛くなるんだ。だから頼むから、せめて凛だけは僕にそんな手間をかけさせるようなことはしないでおくれよ?」


 凛はびくっ! と背中を震わせ、


「もっ、もももちろんっ、そのようなことはいたしません!! かっかか考えもいたしませんでした!!」


 と背中を向けたまま蒼龍に答えた。まったく、嘘というものがつけぬ女である。ただ、釘をさされた以上、凛は絶対にそのようなふるまいをすることはないだろう。真面目一徹。恩人に迷惑をかけるは外道の所業ぞ。凛とはそういう女でもある。


 凛はそのまま廊下に出て、そこで蒼龍の方へと向き直って座り、頭をさげた。そして頭を上げた時にジロリと煉弥をにらみ、ゆっくりと障子を閉めた。


 凛の足音が遠ざかっていったのを二人は確認したところで、煉弥と蒼龍はお互いに苦笑いを浮かべてみせるのであった。

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