第一幕ノ七 仕置きの命令――蒼龍の心痛
ひとしきり苦笑いを浮かべたところで、煉弥が口火をきった。
「ところで、さっきの話ですが」
「うん?」
「本当に、大丈夫なんでしょうね?」
「なにがだい?」
「いや、あの……利位のことですよ。あの野郎の噂は知っているでしょう? あの野郎、女をてめえのもんにするためにゃあ、何をしでかすかわかったもんじゃねえ」
「ふぅん? なんだい、煉弥。そんなに凛のことが心配かい?」
「別に、そういうわけじゃないですけど……」
煮え切らない態度を示す煉弥に、蒼龍は久方ぶりに義弟のほほえましい姿をみとめることができた。まったく、素直じゃないんだからね。ま、それが煉弥のいいところだけどさ。
「大丈夫。絶対に、凛を傷つけたりするようなことはしないと約束するよ」
優しく、そして力強く、蒼龍はなごやかな笑みととも煉弥に投げかけてやった。幼少の頃から、この頼りになる義兄の言葉にいつわりのあった試しはない。だがそれでも、自分が手を出せないことに対する多少の不満が煉弥の心の中にくすぶっていた。それを察した蒼龍が、煉弥の気持ちの矛先をかえるべく、先ほど言いかけて中断していた話の続きをはじめた。
「さて、話を戻そうか。僕が煉弥にここに来てもらった理由というのは、昨夜の辻斬り事件のことに関してさ」
「ですが、それって俺が出張っていくような事件なんですかい? さっきのタツ兄の口ぶりだと、その辻斬り事件の管轄はぐるりに腐るほどいる同心達の管轄のような気がするんですが?」
「普通の辻斬り事件なら、そうだろうね」
煉弥は顔をしかめた。
「と、いうと?」
「昨日の下手人は間違いなく、人間じゃあないね。仮に人間だとして、一夜に三人も斬り殺しておいて、タマの情報網にひっかからないなんて、ありえると思うかい?」
「三人も? そりゃあ無理でしょうよ。一人目がやられた時点でタマが子分どものケツをひっぱたいて下手人探しに江戸中躍起になるでしょうから、そんな状況でタマ達に気づかれずに辻斬りができるとは思えません」
「そうだろう? まあ、正確に言えば、情報網にひっかかってないわけじゃあないんだ。タマが言うには、子分の一匹が凶行現場に居合わせたらしいんだけど……」
言葉を濁す蒼龍。すかさず煉弥が蒼龍に問う。
「そいつが見た下手人が、人間じゃなかったってわけですかい?」
「う~ん……見てくれてたら話が早いんだけどねぇ……いや、まあ、見るには見てくれてたんだよ。ただ、それがねえ……」
この男にしてはなんとも歯切れの悪い言葉であった。そんな蒼龍のはっきりのしない物言いに、さすがの煉弥も少しのいら立ちを覚えながら、
「つまり、どういうことなんですかい?」
「タマの子分が言うには、提灯を持って歩いていた人間が突如立ち止まったかと思うと、いきなり悲鳴をあげてまるで踊っているかのようにその場で暴れはじめたそうなんだ。そして、暴れている人間の服のあちらこちらがまるで刀で斬りつけられたかのように裂けはじめたと思ったら、その切り裂かれた場所から血しぶきが吹き出して、辺り一面を血に染めながら最後には踊りつかれたかのように倒れこんで絶命したそうだよ」
蒼龍の説明を聞きながら、煉弥はその瞬間を想像した。闇夜の中、狂ったように舞い踊り、周囲に血しぶきと死の臭いをまき散らして絶命する、一人の人間。明らかに辻斬り事件で片付けてよい事件ではない。そして、そのような事象を、人間が起こしうるとは到底思えない。
思わず、煉弥は七年前の光景を脳裏に浮かべてしまっていた。忘れたくとも忘れられない忌まわしい記憶は、両親の鮮血によって朱に染まった少女が見せた、最後の涙の記憶でもあった。
「そして、ここが一番重要なところなんだけどね。その人間が歩いている時から絶命するまでの間、タマの子分いわく、その人間以外の人間なんて見ていないし、それどころか見渡す限りその人間以外の何者も見ていないっていうそうだよ。現場は身を隠すところなどどこにもない、ひらけた道端だ。これはもう、間違いなく人の業とは思えないね。だから事件を御上に報告したところ、そのまま御上が僕に全権を任せてくれたというわけなんだよ」
「なるほど……」
事件の大方のあらましを聞いたところで、煉弥は言った。
「しかしタツ兄。七年前の辻斬り事件と今回の辻斬り事件――下手人が人間じゃねえってところが、そっくりじゃあありませんかい? それなのに、どうして――――」
そこまで言ったところで煉弥はハッとした。
「うん。本当のところを言うと、今度の下手人は間違いなく七年前の辻斬り犯人と今回の辻斬り犯は同一犯ではないかと僕は思ってるよ。だけど、それを凛に言ってしまうと、凛のことだから両親のカタキを討とうと、毎夜毎夜下手人を探しに江戸の町を出歩くことだろう。そりゃあ、下手人が人間ならよほどのことがない限り、凛が遅れをとるなんてことはないと思う。でも、ね。この下手人は間違いなく妖怪だ。それも、相当な妖力を持ち、その姿さえ僕らがつかめないほどの狡猾なやつだ。そんな奴が、もし凛と相対するようなことがあったら――――」
蒼龍は煉弥から視線を外し横顔を向けた。沈痛な面持ちに染まったその横顔は、蒼龍が抱いている危惧の大きさを煉弥に知らせているかのようでもあった。
「――――タツ兄の心遣い、心の底まで痛み入りました。凛に、そのことを話さないでくれて、本当にありがとうございます」
頭を下げる煉弥に蒼龍は、
「よしてくれよ。背中がむずがゆくなっちゃうじゃないか。それに、凛は僕にとって妹のようなものだっていったろう? だから、これからはこんな心配をしないで済むように、煉弥と凛がくっついてくれると僕はとっても嬉しいんだけどねぇ」
「それこれとは話が別ですよ」
今度は煉弥が視線を外す番であった。仏頂面の横顔を向ける素直じゃない義弟に蒼龍が、
「ま、冗談はここまでにしておこうか」
と言って、将棋盤をわきにどけた。そして懐から巻物を取り出し、それを先ほど将棋盤のあった場所に広げた。それは江戸の町の全体図であった。ところどころに赤い丸が書かれてあり、その横には漢数字と、武芸者、町人、などの注釈が添えられてあった。
「これが何か、わかるか?」
口調を一変させ、鬼の蒼龍が煉弥に問う。煉弥もかいていたあぐらを解いて姿勢を正し、仕置き人として蒼龍の問いに答える。
「辻斬りのあった現場を記してあるのでしょうか?」
「そのとおりだ。普通の丸印が七年前の現場で、二重の丸印が今回の現場だ」
煉弥はこの全体図から何か事件の紐解きのきっかけを見つけようと、食い入るように注意深く見つめた。そして、その中の一つの丸印の地点に目がいったところで、煉弥は顔をしかめた。そこは、七年前の忌まわしい記憶の場所であった。
脳裏に浮かびかける忌まわしい映像。それを打ち消すように煉弥を頭を振り、その丸印の地点から視線を外した。今は追憶の時ではない。追憶は焦燥を生み、焦燥は勘を鈍らせ、鈍った勘では下手人を仕置きするどころか、その姿を捕らえることすらできぬ。雑念を振り払え!!
「どうだ。この全体図を見たところで、何か感じるものはないか?」
「残念ながら、何も手がかりはありそうにありません。現場は江戸中に散っているし、斬られた被害者を見ても、そこに規則性や共通点も見受けられません」
「それに、死体を食った痕も見られなかった。つまり、この下手人である妖怪は、完全な愉快犯だということだ」
「となれば、罠を張ることもできませんね」
「そういうことだな」
北条義兄弟は、まるで示し合わせたかのように腕を組んで嘆息した。食欲のために襲ったとなれば、その食欲を逆手にとった罠を仕掛けることができる。しかしそうではなく、ただ快楽のために人間をなぶり殺しているとなれば、その出現と被害を予測することは容易ではない。むしろ、不可能なことだと言えた。
「地道な夜回りくらいしか、ありませんね」
「かもしれんが……」
「何か、不都合なことでも?」
「この下手人の妖怪は、おそらくかなり頭の切れるやつだ。となれば、同じ妖怪である仕置き人がうろついているとなれば、決してその姿を見せることはないのではないだろうか?」
この蒼龍の意見には煉弥も賛成だった。この悪党妖怪は間違いなく頭が切れる。だからこそ七年前も仕置き人達――ひいては公儀御庭番特忍組からもこの妖怪は逃げおおせているのだ。相当な曲者である。
「となれば――――」
煉弥の頭に、ある思いつきが浮かんだ。そして、なぜ蒼龍が夜回りに乗り気でないかも理解した。ありがとう、タツ兄。だけど――だからこそ、俺がやらなきゃいけねえんだ。それが、あいつを護ることにもつながるのだから――――。
「俺一人で、夜回りをします――いや、やらせてください」
「……かなり危険な仕事になるぞ」
「ええ。わかっています。でも、これしか方法がないのでしょう?」
蒼龍は苦々しさと
「公儀御庭番特忍組組頭・北条蒼龍が、特忍組所属・北条煉弥に命ずる。江戸界隈を騒がせし、辻斬り事件の下手人である外道妖怪の捜索及び仕置きを本日より開始せよ。これは他のいかなる任よりも優先される特命である。心せよ」
煉弥は、腰に下げていた大小を己の目の前に置き、深々と蒼龍に頭を下げた。
「公儀御庭番特忍組所属・北条煉弥。つつしんで、特命を承ります。組頭様より託されしこの名刀『
「吉報を期待する――――ところで、煉弥。これはちょっとした老婆心だけどね」
まあ、老婆心ってほど僕も歳はとってないんだけどね。と笑う蒼龍の声は、いつもの優しいものへと戻っていた。これからの会話は御役目うんぬんじゃなくて義兄弟としてのものだという蒼龍の意思表示であった。それをうけた煉弥も、
「なんですかい?」
と下げた頭を戻しながらいつものくだけた口調で言った。
「煉弥の気持ちは痛いほどわかってる。それに、もちろん凛の気持ちもね。だけどね、いいかい。決して、気負ったりなんかしないでおくれ。煉弥にもしものことがあったら、僕はもちろんのこと、凛もすごく悲しむことになるんだからね。凛にとって、煉弥は――――」
「わかってます」
最後の言葉だけは口にしてほしくなかった。それを言われてしまうと、俺は逆に気負ってしまうに違いない。だからこそ、煉弥は蒼龍にそれを言わせないように言葉をかぶせてうなずいた。
「うん。それならいいんだ」
蒼龍も煉弥の思いをそれとなく察し、この件に関してはこれ以上、余計なことを言わぬことにしようと心に決めた。僕の大切な義弟だから、信じてあげなきゃね。
「ところで、タツ兄」
「なんだい?」
「一つ、お願いがあるんですが……」
「僕にできることなら」
「……長屋に帰る前に、ここで少し仮眠をとらせてもらうことはできませんかね?」
目の下にハッキリとしたクマを二つ浮かび上がらせた疲れ切った表情でもって、煉弥は懇願した。長屋に帰っても、どうせ部屋はしっちゃかめっちゃかになっていて、おそらく仮眠どころの話ではあるまい。むしろ、部屋として機能しないほどにぶっ壊されている公算が大きい。そんなところに帰ったところで、ゆっくり仮眠なぞできようもないだろう。
「仮眠、かい?」
拍子抜けの声で答える蒼龍だったが、よくよく考えるとこの義弟が昨日から一睡もしていないという事実に思い当った。それに、わざわざここで仮眠をとりたいということは、きっと長屋の阿呆どもがまた騒ぎを起こしているのだろうということにも察しがついた。
「そんなことでいいのなら、ここで仮眠をとっていくといいよ。僕は昼時にならないと外に出る用事はないから、それまでなら、きっと誰にも邪魔されることなく安眠できるはずさ」
「ありがとうございます……それじゃあ、御言葉に甘えて……」
そう言って煉弥は目の前に置いていた大小を手に取り、立ち上がって部屋の隅へと移動して、そこに座って壁へともたれかかって目を閉じた。
「せめて横になればいいのにねぇ」
「横になっちまうと、きっと富士山が噴火しても起きそうにありませんので…………」
そうこぼすと間もなく、煉弥の規則正しい寝息が部屋の中に響き始めた。よっぽど疲れていたと見える。そんな疲れた義弟に、さらに負担を強いるような特命を出さざるを得ないことに、蒼龍は義兄としても上司としてもいたたまれない思いを抱いていた。
「だけど、今回の件に関しては――手を引けといっても、引いてくれないだろうけどね」
七年前の辻斬り事件。蒼龍はその時のことを思い出していた。
凛の父親である
その二人が、一日置きに辻斬りの凶刃にかかり、当時まだ十二の凛を残して絶命してしまったのである。
最初は母の亡骸にすがって泣き――次の日は父の亡骸にすがって泣いていた凛。それを、どうすることもできずに遠くから見つめ、ただただ拳を強く握りしめながら悔し泣きの涙に濡れていた煉弥。
その時、煉弥はかねてより左馬之助から誘われていた妖怪仕置き人という御役目につくことを決心したのだった。もちろん、蒼龍は反対した。だが、煉弥の決意は強固なものであった。
――俺がやらなきゃぁ……凛が……凛が、人殺しになっちまうかもしんないじゃないか!!
義弟の魂の慟哭を、蒼龍は決して生涯忘れることはないだろう。辻斬り犯が妖怪であるということは当時の特忍組でも周知の事実だったのだが、特忍組の掟により、まだ特忍組の所属でない煉弥にそれを口外することはできなかったのだ。今にして思えば、その掟を破ってでも当時の煉弥と凛に告げてやるべきだったと、蒼龍はことあるごとに後悔の念をつのらせていた。
そんな蒼龍と煉弥の想いとは裏腹に、凛は父と母のカタキを必ずやこの手で討ってみせると、その青春の全てをただ剣のみに捧げてきた。その強い決心は、凛にやがて母親の腕を大きく上回らせる程の剣術の腕を持たせることになった。だが、それは純粋な剣の道ではなく、あくまでもカタキ討ちという復讐心のみでもって築き上げたものとも言えた。
「僕もそんな凛を見てられないけど――煉弥はもっと見てられないよね」
復讐――――。
カタキ討ちといえば聞こえはいいが、それはとどのつまり人殺しをしようとしているのにすぎない。そしてそのために、凛は己の全てをかけている。剣術家であった凛の母親が今の凛の姿を見れば、果たしてどのような言葉を凛にかけてくれるだろうか?
いや、それよりも――人殺しの道を極めようとしてきた凛の姿を、この義弟は果たしてどのような想いで見つめてきたのだろうか。
その心痛もさることながら、カタキが妖怪とわかった後には、また違う恐怖が煉弥にのしかかっていたのだった。
それは――凛がいつかその妖怪と相対してしまうのではという恐怖である。
その結果はいうまでもない。というより、その結果を想像もしたくないだろう。ゆえに、この義弟はがむしゃらに仕置き人としての御役目を必死にこなしてきたのだ。
強くなりたい――強くならなきゃ、凛が殺されるかもしれない――!!
そんな呪いのような強迫観念を胸に、ひたすらに煉弥は様々な悪党妖怪共と命の駆け引きを続けてきたのであった。そのおかげで、今では仕置き人の中でもかなりの腕前に成長することができた。
しかし、それでも煉弥がまだ左馬之助の域にまでは遠く及んではいないことを蒼龍は知っていた。だからこそ、今回の事件から煉弥を遠ざけようと蜘蛛駕籠の仕置きを任せたのだが、まさかいつものいらぬ親切心を出して江戸に舞い戻ってこようとは夢にも思っていなかったのである。
江戸に戻ってきたところで事件のことを黙っていてもいいのだが、他の連中(主にタマ)から遅かれ早かれ事件のことは耳にすることだろう。それならば、先手を打ってすべてを話してしまうが良策と、タマを使って煉弥を屋敷に呼び出したのだった。
その結果としては、凛に釘をさすことができたし、凛の縁談の話も煉弥の前ですることができたのだし、やはり良策だったというべきなのだろう。個別に話そうと思っていた厄介ごとを一気にすませることができ、それでいて、凛には自重を、煉弥には激励をしてやることができたのだから。
「僕が――手助けしてやれるといいのだけどね」
しかし、それは叶わぬ願いであった。公儀御庭番を統べる父親がいない今、蒼龍は特忍組組頭という立場と公儀御庭番頭領代理という立場も任されているのだ。そんな立場の人間が、煉弥と凛にとっては大事件かもしれないが、御上からすればただの辻斬り事件にしかすぎない今回の事件に出張っていくわけにはいかないのだ。
それに、辻斬り犯は人間しか襲わない――――それゆえ、蒼龍がもし今の立場を無視して手を貸してやったとしても、辻斬り犯は決してその姿を現さないだろう。
「せめて、煉弥が好きなように動けるようにしてあげないとね」
部屋の隅で寝息を立てる義弟に優しく語りかけ、蒼龍は広げていた江戸の全体図を懐にしまった。そして将棋盤を元の位置に戻し、棋譜を片手にまた一人、小さくうなりはじめるのだった。
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