第一幕ノ八 恐るべき差配人――昼時の長屋



「まあ……そうだろうとは思ってたけどよぉ……」


 あれだけ騒いでいた妖怪共の姿は消え、妖怪共が夢の跡ってな具合に見事な廃墟になってしまっている自分の部屋の前で、煉弥は大きく肩をすくめていた。もうため息すらでやしない。


 時刻は昼時。昨日のうっとうしい天気が嘘のように、カラリと晴れた青空の中、お天道様がさんさんと笑っていた。


 とりあえず部屋の中でまともに使えそうなものを引っ張りだそうと、煉弥はボロボロになった部屋の中へと入っていった。


「ひっでぇなぁ……」


 中に入ると、部屋のありさまのあまりの凄惨さに目をそむけたくなるほどであった。


 床は穴だらけ、布団はズタズタに切り裂かれ、障子はカマドの薪にすらならないほどに細かくボロボロになっており、茶わんや食器類などにいたっては塵は塵にと言わんばかりに粉々になって辺りに散らばっていた。


 さらに腹立たしいのが、あれだけの騒ぎであったにかかわらず、部屋の中の壁が傷一つついてないことだ。クソネコとクソオオカミはケンカしながらも、てめえの部屋には被害が及ばないように気を使っていたと見える。ふざけやがって。


 イラ立ちと昼時の暑さもあいまって喉が渇いてきたので水を飲もうと、水がめのあったところに煉弥は目を向けたが、そこに水がめはなく、おそらく水がめであったろう陶器の破片と砕けたひしゃくが散らばっているのみであった。


「冗談きついぜ……」


 こんな状態では、当分の間、ここに住むことなどできそうにない。まあ寝るだけならなんとかできなくはないが、このままでは自炊ができない。江戸のはずれである化け物長屋から町の中の飯屋までは結構な時間がかかるし、行ったら行ったで煉弥のバカ高い身長と長い刀は人目を引き、その都度奇異の目で見られることになる。あまりいい気分ではない。


 とはいえ、昨夜から今の今まで何も口にしていないので、そろそろ腹の虫が癇癪かんしゃくを引き起こして臓物を食い破ってしまいそうになるほどに煉弥は腹が減っていた。とすると、やはり頼るべきはあそこしかないだろう。


「……行くっきゃねえなぁ。かえでさん、機嫌が悪くなけりゃあいいが……」


 戦々恐々とした心持ちになりながら、煉弥は楓の部屋の方へと歩みを進めはじめた。


 途中、集落の中央広場にて黒コゲになった化け猫とオオカミが縄でぐるぐる巻きにされて宙づりのさらし者になっているのを見つけて、煉弥の心中はまったく穏やかでなくなった。文字通り、楓の雷が落ちている。引き返そうかとも思ったが空腹に耐えることができず、煉弥はそのまま楓の部屋への歩みを速めた。


 楓の部屋の前へと到着したところで、煉弥は障子越しに耳をそばだててみた。中からは昼餉ひるげ(昼食のこと)でも作っているのであろう、トントントントンという包丁がまな板の上で踊る音が聞こえる。どうやら、今はそこまで機嫌が悪いようではないらしい。


 だが、用心にこしたことはない。煉弥は障子越しにできるだけ丁寧な口調で楓に呼びかけてみた。


「楓さん――今、ちょっとよろしいでしょうか?」


 返事がない。まずい。やっぱりご機嫌ななめなのかもしれん。だが呼びかけた以上、もはや後にもひけん。


「楓様――今、お時間のほどをちょうだいさせていただいてもよろしいでしょうか?」


 すると中から、ぷぷぅ~~! と吹き出す音が聞こえたかと思うと、


「ぷぅ~~くっくっくっ!! なぁに、レンちゃんそんなかしこまっちゃって!! もぉ、やめてよね!!」


 という楓の笑い声が聞こえてきた。やれやれ、どうやら機嫌は上々のようらしい。楓はその笑い声のまま、


「どうぞ、お入んなさいっ♪」


「それじゃあ、御言葉に甘えて――――」


 と、煉弥が障子を開けたその刹那――部屋の中から五芒星が記された大量の護符が、煉弥に向かってまるで嵐の中で吹きつける雨のごとく勢いで襲いかかってきたのである。


「うおぁっ?!」


 その場で身をかがめなんとかやりすごしたが、宙に舞い上がった護符達は今度は真っ逆さまに煉弥の元へと降り注いでくる。


「わっ! とっ! とっ!」


 地を転がりながら護符達の雨アラレをかわす煉弥。容赦なくシュカカカカッ!! と地面に突き刺さっていく護符達。普段はただの紙にしか過ぎぬ護符だが、今は楓の力によって研ぎ澄まされた刃に匹敵する切れ味と強度を有している。まともにくらえば、ただではすまない。


 急いで立ち上がって態勢を立てなおす煉弥のもとに、残りの護符達が一斉に襲いかかってきた。ちくしょう!! やっぱり不機嫌だったんじゃねえかっ!!


 腰の小太刀を抜き、襲い掛かってくる護符達を高速で切り払っていく。切り払うごとにキィン!! と甲高い音を立てる護符達の姿に身震いしつつも、それをなんとか全部切り払い終えた煉弥に部屋の中から茶目っ気たっぷりな笑い声が響いてきた。


「うふふふふふっ……おぬし、まだまだ修行が足りぬぞっ♪」


 ぜいぜいと肩で息をする煉弥がそれに答える。


「か、勘弁してくださいよ……い、命がいくつあってもたりゃあしませんぜ……」


 うふふふふ、と愉快でたまらないといった様子の笑い声をあげながら、部屋の中から楓がその姿を現した。


 紺の上下の着物の上に白い割烹着をつけ、右手にはつい今しがた使っていたであろう菜箸を持っている。いたずらっ子のようなそれでいてどこか艶美な趣を持つ口元と、ほんのりと赤みがさした頬に見事なまでのキツネ目が、楓の一見すると少女のような見た目の中にそこはかとない老獪ろうかいさを感じさせた。


「だぁ~いじょぉ~ぶっ! 死にかけても楓さんがすぐに治療して差し上げますから、余計な心配なんかせずに気軽に死にかけてくれちゃってもいいのよっ♪」


 黄金のような色をした背中まで伸ばした長髪を、初夏の陽光によって宝石をちりばめたようにかがやかせながら楓は言った。そのにこやかな表情と愛らしい声色とはまったく似合わぬ話の内容に思わず煉弥は、


「そんな散策気分であの世の旅路なんざぁ踏みたくありませんよ!!」


 と不満をあらわにしながら楓に抗した。


「あらあら? だって、かわいい子には黄泉路を行かせよって言葉があるでしょ? だからぁ、これはぁ、レンちゃんに対する楓さんの愛情表現なぁのだぁ♪」


「重いんですよ愛情表現が!! それにかわいい子には旅をさせよですよ!!」


「あらあら? 黄泉路も旅路には違いないじゃない?」


「いや、黄泉路行っちゃうと戻ってこれませんから!! 俺はまだ現世でやりたいこといっぱいありますから!!」


「うふふふふふっ。レンちゃんってば、ほんっっとぉにかわいいんだからぁ♪」


 ニッコリとキツネ目をいっぱいに細めて微笑みかける楓に、煉弥は頭を抱えた。まったく、この人の言葉はどこまで本気でどこまで冗談かわかったもんじゃねえ。


「さっ、今度こそお入んなさいなっ♪」


 そう言って楓は左手で、さっと空中を薙いだ。すると、先ほど煉弥を襲った護符達が、楓の着物の袖口の中へといっせいに吸い込まれていった。


 すべて吸い込み終えると楓は部屋の方へと身をひるがえして、ふんふんふふ~~んっ♪ と鼻歌交じりで部屋の中へと入っていった。


 それに続いて煉弥も部屋の中へと足を踏み入れた。少々、潔癖のきらいのある楓の部屋の中は、じつにキッチリと機能的かつ効率的に整理整頓されている。煉弥の部屋と同じ間取りであるはずなのに、やけに空間が広く感じられる楓の部屋に、煉弥は思わず感嘆の息をもらした。


 すると、玄関口に足を踏み入れたところで、煉弥の本能がその足を止めさせた。刹那思案したところで、ババッ! と玄関口から飛び出て、さっき転がった時についた砂埃を丁寧にはたいた。あぶねぇあぶねぇ……あと数秒遅かったら、それこそ黄泉路に行ってたぜ。


 身をきれいにしたところで、改めて部屋の中へとお邪魔する。そんな煉弥の様子を見た楓は、


「よろしいっ♪」


 と、弾んだ声で煉弥を迎えいれてくれた。もし、砂埃を落としていなかったら陽気な声で無慈悲なお出迎えを受けていたに違いないだろう。


 身を震わせ、もう一度入念に砂埃が体に残っていないか点検する。よし、大丈夫だ。草鞋を脱ぐときにも最善の注意をはらいつつ、煉弥は部屋の中へと入って腰を落ち着けた。


「実は……」


 煉弥が申し訳なさげに切り出そうとすると、


「何も言わなくていいのよ、レンちゃん。楓さんはぜぇ~んぶわかっているつもりよ」


 という、柔らかな陽光のような優しい声で楓が言った。


「レンちゃんさえ嫌じゃなければ、しばらくはここで寝泊まりするといいわ」


「嫌なんてことはありませんが……それより、本当にいいんですか?」


「もっちろんっ! 楓さんに任せなさいなっ♪」


 誇らしげに胸をそらして、ポンっと胸を叩いて楓は言った。


「この長屋の住人の問題を解決してあげるのが楓さんのお仕事ですからっ♪ それに、レンちゃんはいうなれば被害者なわけでしょう? それならなおさら保護してあげなくちゃねっ♪」


「すみません。それじゃあ、お言葉に甘えさせていただきます」


「甘えなさぁい、甘えなさいっ♪ なんなら、おっぱいでもあげちゃってもいいのよ?」


 と座っている煉弥に向かって前かがみになって、うふふと熱っぽい艶やかな笑み。慌てて煉弥、


「け、けっこうです!!」


 と残像が発生してしまうほどの速さで頭を振ってご遠慮した。


「じょぉ~だんよっ、じょぉ~~だんっ♪ ほんっと、レンちゃんってかわいぃんだからぁ~♪」


 うふふと心底愉快そうな笑みをもらしながら楓は煉弥に背を向け、お台所のほうへとむかった。そして右手の菜箸で調子よく音頭を取りながら、


「わぁたしなぁがやの差配人っ♪ 面倒・厄介・心配ごぉとはぜぇんぶわたしにお・ま・か・せ、あれっ♪ お仕事の邪魔する悪い子にぃ~は、ぴしゃぁんと雷光一閃、お仕置きよっ♪」


 自分で作詞作曲したという、長屋の差配人の歌を口ずさみながらまな板の上の色とりどりの食材をかまどの鍋の中に放り込んでいった。時刻的に、昼餉ひるげを作っているのだろう。


 ちなみに楓の役職である差配人というのは、おおざっぱに言えば大家みたいなものだ。ただ、住民の管理だけをする大家とは違うところもあり、その最たるものは、住民の仕事の斡旋に関しても差配人が面倒を見ることになっている点であろう。


 つまり楓は化け物長屋の住民の管理をしながら、蒼龍の要請に合わせて、それに適した妖怪達の派遣もしているのだ。それゆえ、さすがの蒼龍も楓には頭があがらないようらしく、蒼龍が楓に向かって相当かしこまって話をしているのを何度か煉弥は目撃したことがある。まあ、蒼龍が楓に頭があがらないのには、別な理由もあるのだが……それはまた別の話である。


 ふんふんふ~ん♪ と歌から鼻歌へと移行した楓が袖口から護符を一枚取り出し、それをかまどに向かってピシュッと飛ばす。護符がかまどの中に消えると、ボォゥッ! と勢いよく炎が燃え上がり、かまどの上にのっている鍋を温め始めた。


「いつ見ても思うんですが……ほんっと楓さんって便利がいいですよねぇ」


「なんですってぇ? 悲しいわぁ……楓さんってば、レンちゃんにとって都合の良い女なのね……」


 背中を向けたまま、ヨヨヨ……と、袖を口元に近づけて悲しんでるような素振りを見せる楓を無視して、


「ところで、楓さんは昨日の辻斬り事件の話は聞きましたか?」


「もちろん。聞いているわよ」


 煉弥の方へとふりむき、ウソ泣きを無視された不満からか、これ見よがしにぷくぅと頬を膨らませながら楓が答える。それに気づいた煉弥は、めんどくせぇな……と思いながらも小さく、すんません、と非礼を詫びつつ先を続けた。


「どう思いますか?」


「どう思う、って言われてもねぇ……逆に楓さんがレンちゃんに聞いてみたいわ。レンちゃんは、どう思っているのかしら?」


「そう、ですね――」


 座した脇に腰の大小を置きながら煉弥は思案した。俺は、果たして、どう思っているのだろう。どうしようと、考えているのだろう。改めて考えてみると、どうもうまく言葉にできない。というより、どうにも考えがまとまらない。自然と小難しい表情になってしまっていく。


「俺は――――」


 どうにか考えをまとめて口にしようとした時、どんっ! と、溢れ出すほどに味噌汁が満載された鍋が煉弥の前に置かれた。


「おわっ?!」


 不意をつかれた格好になった煉弥は思わず声をあげて驚いた。それを見てうふふっといたずらっ子の笑みを浮かべながら楓は、


「そぉ~んなしかめっ面してないで、まずはご飯でも召し上がりなさい。お話しや考え事なんていうのは、ご飯を食べながらやると言葉もはずむし名案も浮かぶものよっ♪」


「そうかもしれませんが――ってか、その前に一つお聞きしてもよろしいですかい?」


「なぁに?」


「今、素手で鍋を掴んでいやしませんでしたかい?」


「さぁねぇ~♪」


 笑ってごまかしてはいるが、楓の手には鍋つかみになるようなものは持たれておらず、ガラス細工のような繊細な柔肌の指をひらひらさせているばかり。間違いなく、素手で鍋を掴んでいたことは明白だ。


 ま、今更そんなこと気にしてもしょうがねぇか。なんてったって、相手は楓さんだ。気にするだけこっちが疲れちまわぁな。


 余熱で未だくつくつと泡立つ味噌汁を眺めながら煉弥は、ふぅと一息。そんな折、楓のパンパンという柏手が室内に鳴り響く。すると室内の物陰や置かれている調度品の陰から、


 ――なの! ――なの! ――なの!


 という童子のような愛らしい声がいくつもあがりはじめたかと思うと、すぐにその声の主たちがひょこひょことその声に負けず劣らずといった愛らしい姿を見せ始めた。


 親指ほどの大きさの体躯に少しぶかぶかの巫女服をまとい、その顔と髪色は楓と瓜二つといった姿を持つこの小人たちは、楓の妖力によって作られた式神達。なりは小さいが、主人である楓によく似て、炊事、洗濯、掃除などなど、ともかく何かと便利なお手伝いさん達として長屋の住人達から重宝されている。


「さぁ、し~ちゃんたち。お手伝いよろしくねぇ♪」


 楓の掛け声に、なの!! と式神達が手を挙げて応える。そしてちまっこい姿ながら迅速に部屋の中を縦横無尽に駆け巡り、テキパキと役割分担しながら仕事をこなしていく。


 お膳を煉弥の前に持ってくる者、おひつを懸命に運んでくる者、食器類をお膳の上に投げ込む者、おひつにしゃもじを投げ込む者、しゃもじに乗って飯をお椀に移す者――その一糸乱れぬ団結力によって、煉弥の昼餉の準備はあっという間にすんでしまった。


「はい。ご苦労さん」


 煉弥のねぎらいに、なの!! と嬉しそうに式神達は声をあげ、さささっとまた物陰のほうへと帰っていった。さすがに味噌汁は式神達がつぐことができないので、それを楓がおたまでお椀に移して、これにて昼餉の準備は完全に終了とあいなった。煉弥はうやうやしく合掌し、


「いただきます」


「どうぞどうぞ、たぁ~~んと召し上がれっ♪」


 とりあえず味噌汁を口元へと運び、ずずずっと音を立てて飲み下す。うまい。しっかりと出汁だしをとられた具沢山の味噌汁は、尋常ではないほどにうまかった。腹の虫達も今頃は、めぐみの雨じゃぁ!! と狂喜乱舞していることだろう。ならば、その期待に応えてやらねばなるまいて。


 白飯を勢いよくがっつく煉弥の姿に、うふふっ♪ と嬉しそうな微笑みをもらしながら楓が言う。


「ところで、レンちゃんが言いかけたことって何?」


「ふぁい?」


 白飯で頬をふくらませる煉弥に楓が、まずは飲みこみなさい、と軽くたしなめる。いわれたとおり白飯を飲み込んで、今一度楓に問いかけなおす。


「で、なんですかい?」


 煉弥のこの間抜けな受け答えに苦笑しつつ、楓もまた今一度問いかけなおす。


「だからぁ。さっき、レンちゃんが言いかけたことってなぁに?」


「言いかけたこと――――」


 思い出そうと思案したが、どうにも思い出せない。あれ、何を考えてたんだっけか? 俺にしては、ちったぁ気の利いたことを言おうとしたつもりだったはずなんだが……ダメだ、思い出せん。


「……楓さんのせいで言おうとしたことが空の彼方に吹っ飛んでいっちまいましたよ」


「あらぁ? でも、そんな簡単に飛んでいっちゃうことなんだから、忘れちゃってもいいんじゃないかしら?」


「そうはいいますけどね――――」


「いい? レンちゃん」


 先ほどまでのおちゃらけた空気を一変させ、真っすぐと煉弥の目を見据えながら楓が言う。


「浅薄な考えには気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。言葉には気をつけなさい。それはいつか行動になるから。行動には気をつけなさい。それはいつか習慣になってしまうから。習慣には気をつけなさい。それはいつか性格になってしまうから。性格には気をつけなさい。それはいつか運命になってしまうのだから――――」


「楓さん…………」


 ゲフンと大きく咳ばらいを一つして、煉弥は楓のくりっとした瞳を真っすぐに見つめ返しながら、


「それっぽいことを言ってごまかそうとするの、やめてくれませんかい?」


「あらあら? レンちゃんにはまだ難しすぎたかしらぁ♪」


 本気で言っているのか、はたまた煉弥の言う通りごまかそうとしているのかわからぬ飄々ひょうひょうとした態度で、楓はキツネ目をいっぱいに細めながら笑みを漏らした。まったく、この人とは長い付き合いだが、どうにもよくわからん。まあ、悪い人ではないのだが、とにもかくにも本心というものが見えてこねえ。


「まぁ、良いご忠告をもらったのだと思っておきますよ」


「うんうん♪ 素直でよろしい♪」


 それじゃあ、ご褒美っ♪ と楓は自分の袖口に手を突っ込んで、そこから煉弥の好物である白菜の漬物が入った小鉢を取り出して煉弥の昼餉に色を添えた。ほんっとに、この人だけはよくわからん。あの袖口の中はいったいどうなってんだよ。異次元にでもつながってんじゃねえのか。


「ありがとうございます」


 箸で漬物をつかみ、それを眼前に持ってきてしげしげと眺める。


「なぁに? 何をそんなに訝しんでいるのかしら?」


「いや、この漬物って本物なのかなって」


「本物にきまってるでしょぉ~? もう疑り深いんだからレンちゃんってばぁ♪」


「そうは言いますけどね。一月くらい前に、オオガミにおいしいお肉を焼いてあげるとかいって、化かして馬糞を食わせた性悪キツネがいましてね」


 あれは本当に見るに堪えないもんだった。化かされてる証である焦点のあっていない霞がかった瞳をして、うめえうめえと一心不乱に馬糞をつかんでは食うあのオオガミの姿。


 楓の妖力がすさまじい分、化かされてるオオガミは本当にうまい上等な肉を食ったのだと満足していたため、だれもオオガミに真実を伝える勇気がなく、それから一月ほど長屋の住人達が――ひいてはあのタマでさえオオガミに優しく接してやっていたほどだ。


「あれは化かされるほうが悪いのよ。それともなぁに? キツネが人を化かしちゃあいけないっていうのぉ?」


「オオガミは人じゃありませんよ」


「じゃあ、なおさら化かされるほうが悪いのよ」


「ともかく。これは本物の漬物なんでしょうね?」


 煉弥の念押しに楓は、きゅっと持ち上がったお尻を煉弥に向けて、パチンと指を鳴らした。すると、ぼむっ! とくぐもった爆発音と煙が楓のお尻からあがる。煙が晴れると楓のお尻からふさふさの金色の尻尾が生えていた。


「この尻尾に誓って、その漬物は本物よっ♪ キツネにとって、尻尾に誓うということは、武士の約束事なんかよりも重いものなんだからぁ♪」


 いったいどういう理屈でその誓いが重いのかわからないが、とりあえず信用はしていいだろう。楓は人は化かすがウソはつかない。そういうキツネだ。


「じゃあ、遠慮なくいただきます」


 眺めていた漬物を口の中へと放り込む。季節もいよいよ夏といった気候ゆえ、塩が多めに効かせられ、それでいてほのかにピリッとした隠し味の鷹の爪が煉弥の飯をかきこむ速度をさらに速めさせた。


 それを見て満足そうにうなずきながら楓が、


「いい塩加減でしょう? 今日の漬物は特別な漬け方をしてるのよっ♪」


「へぇ? また新しい秘訣でも見出しましたか?


「そうよぉ♪ その白菜はね、楓さんのお小水(小便のこと)に漬け込んでみたのっ♪」


 楓のこの言葉にぶふっ!! と煉弥は豪快に飯を吐き出してむせ始めた。それを見た楓はケラケラと大声で笑いながら、むせる煉弥の背中をたたく。


「冗談に決まってるでしょ? ほんっと、レンちゃんってば可愛いわぁ♪ 人を疑うことを知らない純情硬派って感じね♪」


「げほっ! い……いいように言ってげほっ! ますけど……つまりそれってげほっ! バカってことでしょうが……」


「あらぁ? 変に利口な人間より、ちょっとバカぐらいが人生楽しくやれるものよ♪ 本人も、周りの人も、ね♪」


 パンパンと柏手を打って式神達を呼び出す。呼び出された式神達は、なの!! と軽快に返事をあげながら煉弥が吐き出して畳の上に散らばった白飯を手早く片付けてまた戻っていった。


 はぁ、と煉弥がようやく人心地ついたところで楓が、


「でも、こうしてレンちゃんにごちそうしてあげてると、昔のことを思い出すわねぇ」


 と、遠くを見るような目で宙を見つめながらしみじみと言う。


「……俺にとっちゃあ、あんまりいい思い出とは必ずしも言えませんがね」


「あ~ら、お言葉ねぇ? 楓さんのおかげでレンちゃんがここに居つくことができたっていうのにぃ?」


「まぁ……そりゃそうでしょうがねぇ……」


 煉弥は遠い目を宙に向け、在りし日の憧憬を頭の中に浮かべるのであった。




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