第一幕ノ九 在りし日のこと――仕置き人と差配人との出会い
煉弥と楓の出会いは、およそ十年前に遡る――――。
煉弥は物心ついたころから両親がおらず、捨てられたのかそれとも元々そこに住んでいたのかもわからぬまま、深い山の中にて鳥獣達を父とし母とし友として、愉快活発、足の向くまま気の向くままよと、まさに
のどがかわけば小川に顔を突っ込んで清水をすすり、腹が減ればそこらの木の実をもいで食べ、時には魚をとって鳥獣達とともに食卓を囲んだりと、人から見れば哀れ極まる野生の子だが、本人からすればそれは物心ついてからの当然の理とさしたる疑問もはさまずそれなりに幸福な日々を送っていた。
だが、自然を相手に生きている以上、自然はその寵児達に幸福な時間だけではなく、時には厳しい重大なる試練を与えるものでもある。
この時、煉弥に与えられた試練は『
とにもかくにも、食いものがない。木の実は食い尽くし、魚もほぼ食い尽くし、残る食いものといえば、父母代わりであり友でもある山の鳥獣達。
だがいくら煉弥が畜生に近い生活を送っていたとはいえ、父母を殺してまで腹を満たそうということは思いもよらぬことだ。畜生にだって、親子の情がある。たとえ、それが歪なものであっても、だ。
ひたすらに空腹に耐える日々。だが、空腹に耐えていたのは煉弥や山の鳥獣達だけではなかったということを、この時の煉弥はまだ知らなかった。
ある日、煉弥がいつものように食糧を探しに山の中を駆けめぐっていた時、突如として煉弥の耳に鳥獣達の悲鳴が聞こえた。
急いで悲鳴の聞こえたほうへと飛んでいくと、そこには大勢の人間の姿と血にまみれた鳥獣達の姿がそこにあった。
煉弥からすれば、生まれて初めて見る自分以外の人間の姿である。それも大勢となれば、たとえ父母がわりの鳥獣達が殺されていたとしても、人間たちに対する怒りよりも驚きと警戒の色のほうが強く煉弥の心を支配したとしても無理のない話であった。
煉弥は注意深く、大勢の人間たちを観察した。
目はくぼみ、頬はやせこけ、立っているのがやっとといった印象。そこで煉弥は気づいた。
そうだ、こいつらも自分達と同じように飢えているのだ。だからこいつらは獲物をとりにここまでやってきたのだ。
気づいてみれば、なんということはない。いくら山の中で鳥獣達同士が仲が良いとはいえ、肉食獣が他の獲物をとることは自然の摂理。
つまりこの人間たちがおこなったことも、生きるために狩りをおこなって獲物をとったというだけのこと。野生の中にある絶対的な自然の摂理である弱肉強食。
野生児である煉弥はすぐにそのことを自然と理解し、人間たちへの怒りはすぐに消えていった。変わりに煉弥の中には人間たちに対する好奇心がめきめきとわいてきた。自分と同じ姿をしたこいつらは、いったいどこからやってきたのだろう?
煉弥は細心の注意を払いながら、狩った獲物をそれぞれ手にし弱々しい笑みを浮かべながらフラフラとした足取りで山を下っていく人間たちの後をつけていった。
何度も休憩を挟みながら人間たちが山を下ったその先には、人間たちの村があった。
ここって、こいつらの巣なんかな? と感覚で理解した煉弥は、人間たちに気づかれぬよう、村の家の屋根によじ登ってこれからの成り行きを見守ることにした。
すると、煉弥の感じたとおり、村の家々の中から人間たちが足を引きずるようにして出てくると、狩りに出ていた人間たちの成果を見て大歓声をあげながらお互いに抱き合いながら喜び始めたのだった。
なぁにやってんだろ、こいつら。人間の言葉がわからぬ煉弥は、ただただ首をかしげて不審な目を向けるばかり。そうこうしていると、自分が登っている家からも人間たちが出ていくのが煉弥の目に入った。となればきっと、今はこの巣の中はからっぽのはずだ。
そう思うと、やはりそこは好奇心の塊である幼子の心理。よぉし、この巣の中がどうなってるのか見てみるか、と煉弥は屋根からひょいと下りて家の中へと入っていった。
恐る恐る中を見回してみると、そこには今まで煉弥が見たこともないようなものがそこかしこに点在していた。
普通の人間からすれば、ただの貧乏所帯の生活用品が散らばっているだけなのだが、今の今まで人の世になど接したことのない生活を送ってきた煉弥からすれば、それはまさに古代神器の宝物庫を覗いているかのような厳粛さを感じさせるものがあった。どうやって使えばいいかわからないが、なんとなくすごいものなんだろうな、というあの感じである。
だが、そんな中にもどうやって使うものか、なんとなくわかるものもあった。童子の服である。きっとこの家には煉弥と同い年ほどの子供がいるのだろう。
カラスの羽で作った粗末な服を脱ぎ、ぎこちなく童子の服を身に纏いながら改めて部屋の中を見回していると、煉弥の野生の嗅覚がある匂いに反応した。匂いのもとに近づくと、はたせるかな、そこにはいくつかの干し魚があった。きっと、この家に残された最後の食糧なのであろう。
しかし、そんなことなど煉弥からすれば知ったことではない。こいつはいい! と干し魚をひっつかみ、他の巣にもなにかあるんじゃねえかと、別な家へとその小さな体を滑り込ませた。
煉弥の予想通り、他の家々にも最後の貯蔵食料と思われる様々な干し物があり、それら全てを両手に抱え、ほくほく顔となって煉弥は山へと帰っていった。
やがて歓声も止み、各々の獲物を手に村人たちが家の中へと戻ってみれば、家の中は煉弥の傍若無人によって見るも無残な有様。
これは何事と、手に持っていた獲物を放り投げて部屋の中を調べてみれば、これが最後の頼みの綱と秘蔵にしておいた干し魚がなくなっているのに気がついた。
やられた!! と、村民達は少しの間、互いに疑心暗鬼になりかけたが、それも煉弥の脱ぎ捨てたカラスの服が見つかることで晴れ、これはきっと山の獣をとったバチがあたったにちげえねえ、山の神様がカラス天狗を遣わしてオラ達にバチさ与えなさっただ、と村民達恐れおののくが、されど背に腹は変えられぬと狩った獲物にナムアミダブツとねんごろに唱え、その日は久方ぶりの馳走にありついた。
そんなことになっているとはつゆ知らず、煉弥は山に戻って干し魚をしゃぶりながら考えた。
あいつらも山に来て獲物をとるんなら、こっちがあいつらんとこに行って獲物をとってもかまわねえよな。
煉弥の考えもまた自然の摂理。あちらだけ許されてこちらだけは許されぬなど、そんなことがあってはならぬ。
そうと決まれば、そこは自然の子。迅速に行動を開始しなければ厳しい自然の中では生きてはいけぬという教訓のもと、その日から人間たちに対する煉弥のこそ泥人生の幕開けと相成った。
近くの村に獲物がなくなれば、少し遠出して他の村から獲物を奪い、その村に獲物がなくなるころにはまた近くの村にも貯えができはじめ、それを奪ってはまた遠出という、やりたい放題の好き放題。
被害にあった村人たちは寄り合ってどうにかできねぇかと相談をしてはみるものの、相手がカラス天狗とあっちゃあ、オラ達の手におえるもんじゃねえよとの泣き寝入り。貯えては盗まれ貯えては盗まれ――まさにお先真っ暗とはこのこと。
そんな現状をなんとか打開しなければ村が滅びてしまうと、村の庄屋が代表して決死の覚悟にて御上のところへ嘆願に行くと、すると庄屋の日頃の行いがよろしかったか、その嘆願は見事に聞き入られ、件の村に一人の仕置き人が派遣されることになったのであった。
その派遣された仕置き人こそ、当時はまだ長屋の差配人の役職についていなかった楓である。
カラス天狗がそんなことするかしらぁ? と首を傾げつつも、村に到着するなりその惨状を目の当たりにして思わず目を覆って嗚咽。これは可及的速やかに対処をしなくちゃいけないわっ! と腕をまくって早速山の方へとその足を向けた。
山の中へと入った楓は、とりあえずは近くの仲間に聞いてみましょうと黄金色のキツネの姿に戻り、山の鳥獣達に、この山にカラス天狗さんがいらっしゃると聞いたのだけど? とお伺いをたててみた。
しかし戻ってくる答えは異口同音に、そんなやついないよ、というもの。
ふぅん? とすれば、これは聞き方を変えるべきね、と楓は機転をきかせて、それじゃあここにあなたたち以外の生き物っているかしら? と聞いてみた。
すると鳥獣達は的を射たりとばかりに、いるよ――獣でもねえ人でもねえ哀れな小僧っこがいるよ、と哀しげに楓に告げた。
なんだかややこしそうねぇ、と思いながらも鳥獣達にその小僧っこのところへと案内してもらうことにした。
そうして案内された先にいたのは、ボロボロの童子服をまとって木の上でグースカ高いびきをかいている煉弥の姿。この予想外の野生児の姿に、さすがの楓もどうしたものかしらと頭を抱えた。
楓が御上に言われたことは近隣の村を苦しめているカラス天狗の仕置きであって、哀れな小僧っこの仕置きではない。かといって、このまま小僧っこを放っておけば、近隣の村々は飢えで全滅してしまうのは必定だ。さて、どうしたものか。
そんな葛藤で楓がうんうんうなっていると、煉弥が目を覚ましてするすると木から降りてきた。見知らぬキツネの姿に訝しむ煉弥に、楓は物は試しにと人の言葉で話しかけてみた。
何言ってんだこのキツネ? と警戒の色を強める煉弥を見て、これは筋金入りの野生児のようね、と合点した楓は、コンコンと今度はキツネの言葉で話しかけてみた。
なんだぁこいつ。わけのわからねえこと言ったかと思うと今度はちゃ~んとキツネの言葉でしゃべりやがった。うさんくせえ。こんな奴は何しでかすかわかんねえ。ここは逃げるが勝ちだ、と身をひるがえしかけた煉弥を見て楓はドロロン!! と人の姿になって逃がすものですかと煉弥の腕をつかんだ。
キツネから人間に変わった楓の姿に、いったいこいつはどうなってやがんだ?! と煉弥は心臓が口から飛び出るほどに驚いた。
そんな煉弥の怯えた表情を見て、ついに楓の心は決まった。この子を仕置きするなんて、できるもんですかっ!
そうと決まれば、すかさず楓は煉弥に当身を食らわせて気絶させ、気絶した煉弥を背中にかついで山をくだった。そしてその足で嘆願をした庄屋のもとへと向かい、背中の煉弥を庄屋に見せ、このとおりカラス天狗は仕置きいたしましたわ、と呆気にとられる庄屋を無視し、さっさと江戸へと煉弥を連れ帰ってしまったのだった。
途中何度も目を覚ましかける煉弥に、ごめんなさいねぇ♪ と何度も当身を食らわせつつ、江戸に到着するなり煉弥を北条家の屋敷に連れていき、奇妙な手土産を持ってきたなと首をかしげる北条親子に事の顛末を説明した。
それで、どうするつもりだ? と問われた楓は腕まくりして、楓さんが保護して差し上げますっ! と啖呵をきったかと思えば、その場で仕置き人の任を解いてくれと北条親子に泣いて頼みはじめた。
これは困ったことになったのは北条親子。楓は当時の仕置き人の中でも指折りの実力者。隠居するには早すぎると蒼龍がうなっていると、横でどっしりと目を閉じて鎮座していた父・
ならば楓殿には長屋の差配人になっていただくのはどうか? 楓殿の優れた化け術を生かしてくれれば、長屋の在り方も良いほうに転じることができようというものぞ。
なるほどそれは妙案、と蒼龍は早速そのように取り計らった。この瞬間こそ、楓という化け物長屋史上最強の差配人が誕生した瞬間である。
それはさておき、長屋に戻った楓は煉弥に意識を取り戻させてキツネの言葉で語った。
さあ、今日からここがあなたのお家ですよっ♪
満面の笑みで楓はそういうが、突然そんなことを言われても煉弥には何が何やらさっぱりわからない。
木の上がおいらの巣だよ、と獣の言葉で楓に言えば、楓はそれに答えず袖口からしゅるりと長い布を取り出しそいつで煉弥をグルグルとふんじばって畳の上に転がした。
何しやがんだ!! と息巻く煉弥を見下ろしながら、楓は世にもおぞましい不敵な笑みを浮かべてこう告げた。
さあ――今日から人としてのお勉強をはじめていきましょうねっ♪
身の毛がよだつ、という言葉を、煉弥はこの時その総身でもって体現して見せた。おいら、とんでもねえとこに連れてこられたんじゃあ…………。
煉弥のこの嫌な予感は見事に的中し、それこそ筆舌にしがたい指導という名の艱難辛苦の日々を送ることになったのであった。
一年間の楓の指導によって半死半生の目に合うこと数十度。しかし、そのかいあって、少し乱暴のきらいはあるものの煉弥はそこら辺の童子と遜色ないほどの人間として生まれ変わることができたのだった。ちなみに煉弥という名はこの時に楓から拝命した名である。
もうこれなら心配はないわ、楓さんとしては寂しいけれど、あなたはこれから北条様の家で人としてちゃんとした生活を送っていくのよ、と涙ながらに煉弥を送り出し、当の煉弥はというと、これでやっと解放される……という心からの安堵を覚えながら北条家へと養子に出されたという次第。
つまり楓にとって煉弥は自分の子供と同然であり、煉弥にとって楓は育ての親であり人としての知識を与えてくれた先生でもあるのだ。
さらに言うと、煉弥の仕置き人としての指導も楓がおこなっており、そういう点でおいても、煉弥にとって楓は頭の上がらない大恩人であるとも言えるのであった。
ただ、もう少しお手柔らかに指導してほしかったもんだけどな。煉弥が苦笑いを浮かべてみせると、煉弥の心のうちを察したかのように、楓も、うふふぅ♪ といたずらっ子のような笑みを浮かべるのであった。
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