第二幕ノ三 八重とタマ――入楼、吉原遊郭


「ほれ、なぁにちんたら歩いているんだい!! もっとキビキビ歩かなきゃぁ、吉原に着く前に日が暮れっちまうよ!!」

「はっ、はいぃ~~!!」


 前をさっさか歩く醜怪な老女からののしられ、八重は必死に歩くその足を速めた。それを見て、老女がふんっ!! と大きく鼻息一つ吹かせ、忌々しそうに愚痴をこぼした。


「まったく、楓の紹介じゃなけりゃあ、こんなとろっこい娘なんざアタシの松竹屋しょうちくや禿かむろになんぞ絶対にしないのにねぇ……!! それになんだい!! 猫つきで御奉公させてくださいなんてふざけたこと言ってくれて!!」


 ジロリ!! と老女から凄まじい眼光で睨まれ、思わず、ひっ?! と小さな悲鳴をあげてしまう八重。そして条件反射的に、ごめんなさいぃ!! ごめんなさいぃ!! と何度も何度も老女に向かって頭を下げて見せるが、それがまた老女の気に障ったらしく、


「謝る暇があったらさっさか歩きな!!!!」


 江戸の町中を道行く人々が思わず足を止めてしまうほどの大声を八重に叩きつけるのであった。老女の醜い容貌と相まって、その迫力は尋常ではない。

 ひゃっ?! ひゃいぃぃぃぃ~~!! と涙声になりながらも、八重はこれ以上怒られてしまわないようにと、必死に歩みを速めるのであった。そんな八重の足元には、全身真っ白な新雪のような柔らかい毛に覆われた、特徴的な麻呂眉毛がちょんっとついた猫――タマが寄り添うようにして付き添っていた。


(おお~おっかないにゃ~~……。長屋にいる山姥なんかより、この婆さんのほうがよっぽど山姥っぽいにゃ)


 と、タマがテレパシーで八重に問いかける。八重も心の中でタマへと答えを返す。


(はいぃ……こ、怖いですぅ……)

(まぁ~おみゃ~は婆さんなんかより、これからのお勤めのほうのことを考えるとよっぽどおっかないだろうけどにゃ~。ほんっと、災難としか言うしかないにゃ、おみゃ~は……)


 かわいそうににゃ~、と八重の足に身体を擦りつけ、ごろごろごろごろ……と喉を鳴らすタマ。

 ほんとう……どうして、こんなことになっちゃったのかなぁ……。うつむいて歩きながら、八重は先日の一幕のことを思い出していた…………。




 楓から頼まれていた召し物を楓の部屋へと持って来た八重であったが、部屋へと入った途端、これ以上ない最上の宝を見つけたり!! というような勢いで楓にとっつかまり、部屋の中へとひきずられていった。

 そして蒼龍の前へと座らせられ、八重ちゃんなら適任よぉ♪ と楓が嬉しそうに蒼龍に言うと、蒼龍は刹那、呆気にとられた表情を浮かべたが、だがすぐに思案顔になって、ふむ……たしかに……盲点だったかもしれない。と誰にでもなく呟いて、八重を真っすぐに見据えて、こう言った。


「すまない――どうしても、君の力を貸してほしいんだ」


 蒼龍はこう言うが否や、八重に向かって土下座をし、まるで神に許しを請うかのごとき勢いで八重を拝み倒しはじめた。

 しかし、八重からすれば一体何がなんだかさっぱりわからない。わたし、縫物をお届けにきただけなのに、どうして偉い人に拝まれてるの? それに、煉弥さんや凛さんもいらっしゃるし……あぁ?! またわたし、きっと皆さんの気に障ることを知らず知らずのうちにやってしまってたんだ!! だから、凛さんがあんな険しい目つきになってるんだ!! そうです!! きっとそうに違いありません!!

 あわわわわわわわ…………!! と涙目になる八重。ちなみに凛の目つきは普段通りなのだが、その鋭い目つきが災いして、気が動転している八重にとっては、凛が怒ってると勘違いさせてしまい、それがまた八重の気の動転を悪い方へとおしすすめていってしまった。


 その結果、ごめんなさいぃ!! ごめんなさいぃ!! と涙目になってびぃ~~びぃ~~と謝る八重と、それに対して、頼む!! これこの通り!! と拝む蒼龍というなんとも珍妙な光景が繰り広げられてしまうことになったのであった。

 このままじゃ収集がつきそうにないわねぇ、と判断した楓が、謝る八重のうなじめがけて、えいっ♪ と当て身一発。

 ひゃうっ?! と、八重は小さいうめき声をあげて、見事その場にバタンキュー。たしかに場は収束したが、これでは話が進まぬ。

 蒼龍が、楓殿? なにをなさるおつもりですか? という視線を楓に向けたが、当の楓は涼しい顔して、


「あ・と・はぁ……楓さんにお任せくぅ~~ださいなっ♪」


 キツネ目細めていつもの悪い笑顔を浮かべてみせた。こうなった時の楓には、誰が何を言っても聞く耳をもっちゃくれないことを、蒼龍も煉弥も身をもって理解していた。ふぅ……と蒼龍はため息をひとつ吐き、


「わかりました。では、後はお任せいたします。ただ、どうなったかについては、煉弥か凛を通じて僕に御報告をお願いいたしますよ」


 と、いうが早いか、呆気にとられている煉弥と凛を残して、さっさと部屋から出ていってしまった。

 さて、どうしたものかと思案するは残された煉弥と凛。

 あの、悪い女狐に捕獲されてしまった、いたいけなろくろっ首がこれから一体どのような仕打ちを受けてしまうのかと考えると、どうにも気が気でならない。

 かといって、この場で自分達が何を言っても、おそらくこの女狐・楓殿は自分の考えたことを決してまげてはくれないだろう。そうなると、へそを曲げた女狐・楓殿はきっとこちらにも牙を向いてくるに違いない。


 ――となれば――答えは一つ!!


「……ちと、用事を思い出しやした」

「そ、そういえば、私もそろそろ寺子屋の時間が……」


 とにもかくにも、この場から逃げ去ることだ。八重のことは心配だが、だからといって、自分達にできることがあるかといえば、それもない。ならば、一旦この場は素直に引くべきである。勇気と蛮勇は違うのだ。今は素直に引くが勇気。楓に余計な事を言うのが蛮勇だ。

 余談だが、凛が源流斎の道場で開いていた寺子屋は、一時存続の危機に陥ったが――凛がそんな気分ではなかったし、源流斎の道場が消失してしまったから――子供たちとその親たちからの熱心な説得にあい、これだけ必死に乞われては応えぬわけにはいかぬと一念発起し、北条家の一室を借りて寺子屋を継続している。そのせいか、最近北条家の女中である橋姫の機嫌があまりよろしくないらしい。

 立ち上がる煉弥と凛を見て、楓は、


「あらぁ、そうなのぉ? 残念ねぇ♪」


 と、その口にした言葉とはまったくもって不釣り合いな満面の笑みでそう言った。うむ。やはり、ここは逃げて正解だろう。あの顔は、危険だ。


 それでは……と、仲良く連れ立って部屋から出ていこうとする煉弥と凛。こうして並ぶと、でかい図体ずうたいをしている者同士、壮観でもあるしお似合いでもある。

 部屋の障子戸の前にまできたところで、二人は部屋の中心でぶっ倒れて目を回している八重の方へと目をやった。そしてお互いに顔を見合わせ、八重への同情心とうしろめたさを表情へと滲みださせながらも、部屋から出ていくのであった。

 部屋の中に残された楓は、叩き起こすという文字通りに、八重のほっぺたにぴしゃんと入気いりきをして目を覚まさせた。


「う……うぅ~~~ん……」


 小さなうめき声をあげながら、ゆっくりと目をあける八重。そんなまだ意識のハッキリしない八重の視界が、


「やぁ~~えぇ~~~ちゃんっ♪」


 ひょこっと、悪い笑みを浮かべた女狐のドアップ顔によって埋め尽くされた。


「ひゃっ?!」


 びっくりした拍子で伸びそうになった八重の頭を、楓ががしっとひっつかんで阻止した。んぎゅっ! と小さくうめく八重。


「ほぉ~らほらぁ♪ 落ち着いて、落ち着いてぇ♪」


 泣いている子を諭すような優しい口調で楓が八重に言う。しかし、その表情はというと、とてもではないがその優しい口調と一致しているとは言い難いものであった。


「あ、あの……そ、そのぉ……」


 楓のその不敵な表情に、色んな意味で恐怖を覚える八重。純粋でいたいけなろくろっ首は、涙目になりながら、ただただ震えることしかできなかった。


「あのねぇ――――楓さん……八重ちゃんにお願いがあるんだけどぉ――――」


 それから先の顛末は、どうにも筆舌にしがたい。

 とにかく言えることは、楓の想像を絶する責め苦によって、結局八重が吉原への潜入捜査を死んだ魚の目つきになって了承したということだ。

 そうなれば善は急げと、楓は早速蒼龍へと使いを出し、報告をうけた蒼龍が吉原へと使いを出し、翌日には吉原から女衒ぜげん(吉原へと身売りをする子供を買う人買いのこと)と松竹屋という名の店の主人を兼ねた老婆がやってきて、あれよあれよと八重を吉原へと引き連れていくことになってしまったのであった。

 ただ、さしもの楓も、さすがに八重だけを潜入させるのは危険が大きいと判断し、八重の用心棒兼情報収集係としてタマを同行させることになり、それで今こうして、八重とタマは吉原へと続く道を、陰鬱な気持ちで歩いているという次第。




 うつむいたまま、てくてくと歩いている八重に、老婆の声がかけられた。だが老婆の声は、今までのような激しいものではなく、どこか物悲しさが漂った複雑な声であった。


「いつまでもうつむいていないで、顔をあげてみな。ここが、これからアンタがしばらく厄介になることになる、吉原さね」


 老婆の声色の変化に驚きながらも、おそるおそる顔をあげてみる八重。するとそこには――――、


「わぁ…………」


 不安が駆り立てられ、思わずため息を吐いてしまうような光景が広がっていたのである。

 見渡すかぎりに広がる広大な田んぼの中に、周囲を五間(およそ九メートル)の幅の大溝によって取り囲まれ、まるで世間から完全に隔離されているかのような――さながら、長崎の出島のような孤島がそこにあった。

 そんな隔離された孤島へと唯一続く道への入り口には、なにやら不吉さを漂わせる陰気な柳の木。

 そしてその柳の木の先を進んだ先には、孤島――吉原遊郭への唯一の出入り口とされる、寺社のような仰々しい大門がそびえたっていたのであった。

 それらに目をやり、ぶるぶるっ!! と身震いする八重。そんな八重を見て、老婆は下卑た笑い声をあげながら、八重へと語りかけた。


「吉原が恐ろしいかえ? ほう! そりゃあ、詮なきことだねぇ! アンタのような、おぼこ娘(ようするに世間ずれしていない処女のこと)にゃあ、吉原は恐ろしいところにしか映らないだろうねぇ!」


 ひぃ~~っひっひっひっ~~~~!! と、醜悪な顔をさらに醜く歪めて笑う老婆。そんな老婆の姿に、八重の背中に今まで感じたことのない戦慄がはしる。


「ひっ……ひっく……ひっく……」


 あまりの恐怖に、ついに前髪で隠した大きな瞳から大粒の涙をこぼし始める八重。


(にゃぁ~~……泣くにゃって~~……おみゃ~が泣くと、にゃんも泣きたくなってくるにゃ~……)


 みゃ~~~おぉ~~~と遠吠えのような哀愁漂う声で鳴き、八重の足に身体をすりつけるタマ。そんな見るからに悲哀をたずさえた一人と一匹に、老婆はふんっ!! と鼻を鳴らしながら近づいていき、


「泣いたってどうにもなりゃしないさねぇ。まあ、脅かしたアタシも悪かったよ。だけどねぇ、最初にうんと怖い思いをしておいたほうが、後が楽だからね。まあ、そんなことはどうでもいい。ほら、顔をあげな。泣いてたっていいから、顔をあげな」

「ひっく……ひっく……ふぁ……ふぁいぃ……」


 老婆に促され、ゆっくりと顔をあげる八重。その拍子に、大粒の涙がタマの背中に、ぽちょんっとしたたり、びっくりしたタマが、みゃっ?! と軽い叫びをあげた。


「さあ、あれを見な――――」


 すぅ~~~……っと、ゆっくり腕を前に突き出し、吉原へと続く道を指さす老婆。


「あの道――いや、坂はねぇ、衣紋坂えもんざかって呼ばれてる」

「衣紋……坂……」


 涙声でオウム返しに呟く八重。涙で濡れた瞳を、チラリと衣紋坂へと向けて見れば、なるほど、たしかに老婆の言う通り、わずかではあるが上り勾配になっているらしく、坂と言えなくもないことが見てとれた。


「そうさ、衣紋坂さ。見ての通り、朝時分は閑散かんさんとしちゃいるが、夜になればこの衣紋坂は吉原への御客でいっぱいになるもんさ。この衣紋坂ってのはねぇ、これから吉原へと入ろうとするお客が、ここで衣紋や袴を直し、きちんと身なりを整えてから登楼とうろうするから、衣紋坂って呼ばれてる。それ、衣紋坂の入り口を見てみな。大きな柳の木があるだろう?」


 コクリ、とうなずく八重。


「あの柳はねぇ、見返り柳、って呼ばれてる」

「見返り柳……? 柳が……見返ったりするのですかぁ……?」


 そうだとしたら、なんて怖い柳だろう。あの柳に見返られると、きっとあの柳に食べられちゃうんだ。だから、あんなにあの柳は大きいんだ。

 八重の嫌な想像はどんどん膨れ上がり、その想像が八重の瞳にまたも涙の雫を浮かばせる。

 だが、そんな八重の嫌な想像を吹き飛ばしてくれるかのように、老婆が吹き出して笑い声をあげた。


「柳が見返ったりなんかするもんかい。どうしてあの柳が見返り柳って呼ばれているかは、あの柳のそばにいきゃあわかるよ。さあ、ついてきな」


 老婆はそう言うと、怖気づく八重の手を引き、柳のそばへと八重を引っ張っていった。タマも二人に続き、柳のそばへと、とてとて歩いていく。

 そして、衣紋坂を少し上り、吉原側のところまで八重を引っ張っていったところで、八重から手を離した。


「百聞は一見に如かず、さねぇ。さあ、ここから柳の向こう側まであるいて行ってみな」

「は、はいぃ……」


 言われるがまま、おっかなびっくりといった様子で歩きはじめる八重。それにタマも追従する。そして、八重が柳を通り過ぎたところで、老婆が八重に向かって叫び声をあげた。


「ほぉら! そこで立ち止まって、振り向いてごらん!」


 老婆の声にびくっ?! と身体を跳ねさせながらも、言われたようにその場で立ち止まって振り向く八重とタマ。


「柳を見てごらん。何かに似てると思わないかい?」


 じぃ~~っと柳を見つめる八重とタマ。

 なんだろう? 何に似てるのかなぁ?

 うぅ~~んとうなる八重の横で、うみゃっ!! と声をあげて飛び跳ねるタマ。


(わかったにゃ!! この柳、よく見ると、女が別れを惜しんで口に手をやっているように見えなくもないにゃ!!)


 タマからテレパシーで言われ、あっ! あぁ~~~! と八重が声をあげる。そんな八重の様子に、老婆は満足そうな笑みを浮かべ、


「どうやら、わかったようらしいねぇ。そう、この柳の枝はまるで、吉原の遊女が吉原から帰る客との別れを惜しんでいるかのように見えるのさ。だから、見返り柳って呼ばれてるのさね。見返っているのは柳でなく、吉原からの帰りの客ってわけさ」

(この調子だと、にゃんだか、吉原にまつわるもの全部になにかしらゆかりがありそうだにゃ)


 そうかもしれませんね……と、小さくうなずいて同意を示す八重。物は試しと、一人と一匹は老婆のそばへと戻り、恐る恐る八重が老婆に聞いてみた。


「あの……ひょっとして……吉原を囲っている溝にも……そのぉ……名前というか……そのぉ……」


 うにょうにょと蚊の鳴くような声でつぶやく八重に、老婆が目を吊り上げて、


「言いたいことがあんなら、ハッキリしゃべんなっ!!」


 と一喝した。

 突然の怒声に、ひゃっ?! ひゃぁぁっ!! と、今日一番の悲鳴をあげる八重。


(まずいにゃっ!! 緊急事態にゃっ!! 八重!! 頑張って我慢するにゃ~~~!!)


 とうっ!! と八重の頭に乗っかるタマ。のっ!! 伸びちゃだめぇ~~~~~!! と八重も必死に両手で頭をおさえつける。それを見た老婆が怪訝な表情を浮かべて、


「なぁ~にをやってるんだい? びっくりしたら頭でも伸びちまうってでもいうのかい?」


 と、核心に触れる一言を発した。この言葉に、ギクリ! と表情をこわばらせる八重とタマ。

 まさかこの婆さん――八重の正体に気づいているのかにゃ?

 心配そうに老婆を見つめるタマであったが、老婆はすぐに怪訝な表情を引っ込めて笑い声をあげた。


「なぁんてね。んなことあってたまるかいな」


 ふう。どうやら杞憂ですんだようにゃ。八重の頭の上で安どのため息を吐くタマ。八重もタマに続き、安どのため息を吐き、え、えへへ……とぎこちない笑みを浮かべてなんとかごまかそうと努めた。それが功を奏したか、老婆は八重に向かって、ほら、さっきアンタが言いかけたことを言いな、とうながしてきた。


「あ、あの……あの溝にも、何か由来があったりするのでしょうか……?」

「ああ、もちろんさね。吉原をぐるりと囲うあの溝は、お歯黒どぶって呼ばれてる。ほれ、お歯黒どぶの水の色を見てみな。真っ黒によどんでるだろう? 吉原に入楼にゅうろうする女たちが、ここでお歯黒を洗い落として操を捨てるから、水の色が黒くよどんでいるなんて言われてるのさ」

「ほ、ほんとなのですかぁ?」


 驚きの声をあげる八重に、老婆が、くっくっと笑いながら、


「アンタってぇ、今どき珍しいほどのおぼこ娘だねぇ。いくらなんでも、こんな汚らしいどぶでお歯黒を落とすなんてこと本当にやってるわけあるかいな。あくまでも、そういう風に言われてるだけさね」

「そ……そうですよね……いくらなんでも……」

「ただねぇ――そういう謂われの方が、まだマシかもしれないねぇ。このお歯黒どぶの本当の役割は、吉原の中にいる遊女たちの脱走を阻止することなのさ。ただのどぶだったら、五間もの長さにする必要なんてないからねぇ。だから吉原の遊女たちはお歯黒どぶなんて呼ばず、もっぱら怨恨どぶって呼んでるのさ。吉原の中で、結局外に出れずに死んでいった遊女たちの憎しみで黒く染まったどぶ――怨恨どぶってねぇ」


 お歯黒どぶを覗き込みながら、心の内の忌々しさを吐き捨てるように言う老婆。


「怨恨…………」


 ぶるぶるっ!! と八重は大きく身震いをひとつ。吉原の中は、怨恨にまみれてるのかな。だから……あんな怖い事件も起こってるのかな。


「さあて――余計な道草をくっちまったねぇ。そら、行くよ! 覚悟を決めな!」


 老婆からお尻をぴしゃんっ! とはたかれ、ひゃんっ?! と驚き跳ねる八重。もし、タマがまだ頭の上に乗ったままでなかったら、首が伸びていたかもしれないとハラハラしつつも、さっさと吉原の大門の方へと歩いていく老婆に遅れまいと、頭の上にタマをのっけたまま、八重は小走りに駆け出すのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る