第二幕ノ二十三ガ上 花魁道中の朝――決まる、八重の名
「あ、あの、まだじっとしていないといけないのでしょうか?」
双葉の部屋の中、襦袢姿の柚葉が正座した状態で、目の前で渋面を作っているエンコに問いかける。
「まだよ、まだ。じっとしててねぇ」
「わ、わかりました……」
はぁ……と深いため息をつく柚葉。それもそのはず、エンコが柚葉の身支度をすると言い出したのはいいのだが、柚葉の髪型がどうも気に入らないと言い出して、もう三十分もの間、身支度が進んでいなかったのだ。
「エンコ、あなたの完璧主義はわかっているつもりですが、もう時間も差し迫っているのですから、少々急いでくれると嬉しいのですが?」
双葉が声に圧をかけつつエンコに言うと、
「ダメよっ!! ここで妥協するかしないかで、女の娘の可愛さが決まるのよっ!!」
「それは重々承知してるのですが、かといって刻限を守らない遊女を許容するほど吉原が甘くないのもわかっているでしょう?」
「わかってるわよっ!! もう少しだけ、もう少し――――」
とそこまで口にしたところで、エンコの表情が怪しげなものへと変貌していった。
「きた――きたわよぉっ!! 天啓ここに下れりってやつよぉっ!!」
じゃきんっ!! と懐から二つのハサミを取り出して、それを二刀流のように持って構えるエンコ。
「ひぃっ?!」
怯えの声をあげる柚葉に、エンコが口元からよだれをこぼしながら、
「動いちゃダメよぉっ!!」
残像が見えるほどの速度で飛び掛かっていった。
そして室内に響き渡るは、小気味よいハサミの音。
柚葉の周囲がエンコの残像でにじむ中、パラパラパラパラと柚葉の髪の毛が、宙を舞うように乱れ飛ぶ。
ひぃやぁっ?! と柚葉が悲鳴をあげたかと思うと、エンコの姿が柚葉の前に鮮明に現れ、両手を左右にいっぱいに広げて、宙をあおいでいた。
「かい……かぁん……っ!!」
これ以上ないほどの恍惚な笑みを浮かべるエンコ。そしてその横には――――目を見張るほどの変貌をとげた柚葉の姿があったのであった。
セミロングの髪の毛が、見事なまでに艶光りし、手櫛をすれば絹糸かと勘違いするほどのサラサラ感。眉毛も大人っぽく均整に綺麗に整えられてはいるが、どこか幼さとあどけなさを感じさせるような瞳が、それと見事なコントラストを演出している。唇も艶っぽくもあり、わんぱくっぽくも見えるような薄赤いルージュがひかれていた。
まさに、十五歳の少女の美しさというものを体現しているかのような存在と言えた。綺麗であり、可愛くもあり、少々の妖艶さ。少女が大人へと変貌しつつある、一瞬の美しさ。
「わぁ……」
思わず、感嘆の息をもらす襦袢姿の八重。だが、当の柚葉はというと、
「な、なにが起こったのですか……?」
おどおどしながら、きょろきょろと八重と双葉を交互に見つめていた。
「ゆっ、柚葉さん、とぉってもすてきですぅ~~!」
トコトコと八重が柚葉に駆け寄ると、
「当然でしょう? アタシを誰だと思ってるの?!」
エンコが八重に詰め寄った。
きゃぁうっ?! と驚きつつ、必死に頭をおさえる八重を見て、双葉がエンコに、
「エンコ、さすがの腕前といったところですが、八重さんをあまり怯えさせてはいけませんよ」
と、釘をさした。
「あ、あら、アタシったら……ごめんなさいねぇ」
おほほほぉ~!! と甲高い声で笑うエンコを見て、八重どころか柚葉も怯えの表情を見せる。
「エンコ、怯えさせてはいけないと言っているでしょう」
「わかってるわよっ!!」
キッ!! と双葉を睨むエンコ。その鋭い目尻には、煌めく雫がにじんでいた。さすがにエンコがかわいそうに思えてきた双葉が、
「さて、それでは今度は八重さんの身支度をお願いします」
「そ、そうね。そうさせていただこうかしら」
そう言ってエンコが、柚葉の横で怯えている八重に視線を移すと、八重は自分もハサミで髪の毛をちょん切られる運命だと感じ取って、慌てて自分の両手を前髪に添えた。
「……前髪だけは絶対に切らないでくれっていう堅牢な意志を感じるわねぇ」
エンコのこの言葉に、八重は身体を震わせながらコクコクと何度もうなずいた。
八重の前髪は、いわば八重の
「う~ん……さぁて、どうしたものかしらねぇ……」
今まで色んな娘を垢ぬけさせてきたカリスマスタイリストも、この難問には少々頭を悩ませた。
前髪が無い方が、絶対可愛いのだけどねぇ。
かといって、モデルが嫌がることを強行することはスタイリスト矜持が許さぬ。さてどうしたものか。
すると、柚葉の着付けをおこなっていた双葉がエンコにちょっとした提案をした。
「八重さんの魅力を活かすのはどうでしょう?」
「そりゃあ、そのつもりよぉ」
馬鹿にしないでよねと鼻息荒く言うエンコに、双葉が悪い笑みを浮かべながら言った。
「八重さんの魅力は愛らしさだけじゃありませんよ?」
「はぁ? どういう意味よぉ?」
エンコが懐疑的な目を双葉に向けると、双葉が視線を八重の胸元へと移した。そして、小さく頷き、エンコに言った。
「おわかりでしょう?」
「ああ、もちろんそれも魅力の一つかもしれないけど――――」
と、そこまでエンコが口にした時だった。エンコはそこで言葉を止め、目を大きく見開いて八重の胸を凝視し、そして雄叫びをあげた。
「きた――きたわぁ!!」
じゃきんっ!! とハサミを取り出すエンコを見て、八重がびびくぅっ?! と身体を跳ねさせた。もちろん、前髪は両手で死守されたままだ。
「動いちゃダメよぉっ!!」
残像を残しつつ八重にとびかかっていくエンコ。ひゃぁっ?! と、八重は怯えた声をあげ、身体を小さくして目をつぶる。
「そのままじっとしてなさいよぉ!!」
エンコの雄叫びがしたかと思うと、ハサミの小気味よい音が響き始め、八重の周囲に髪の毛と布切れが舞い始めた。
「……さきほど、私もあんな状態になっていたのですね」
柚葉が小さな声でそう言うと、双葉が優しく微笑んで言った。
「すさまじい光景かもしれないけど、あのおかげで息を呑むほどの美しさが得られるのですから、我慢していただくしかありませんね」
「息を呑むほど――ですか?」
自分がそうなっているなんて、そんなわけありませんよとピンときていない柚葉。
「ふふっ――自分で見てごらんなさい」
そう言って、双葉は柚葉に手鏡を手渡した。それを柚葉がのぞきこむと、
「ふぁぁ…………」
と、柚葉は頬を赤らめて感嘆の息をもらした。
え? これが私ですか? と疑い深げに手鏡を何度も何度も覗き込む柚葉の頭を、双葉が優しくなでてやる。
「自信を持ちなさい、柚葉。ただし、過信にならない程度に、ですよ」
「は、はい……双葉御姉様……」
柚葉がはにかんでいると、部屋の中に響き渡っていたハサミの音が止んだ。あら、終わったようですねと双葉が八重のいたほうへと目をやると、
「あはぁん……さいっ……こうっ……けっ……さくっ……!!」
天におられるあらゆる神に感謝をささげているかのごとく、宙をあおいで体中からエクスタシーを発散させるように小刻みに震えているエンコが、涙声になりながら吐露していた。
「まあまあ、あなたがそこまで言うからには、八重さんはとっても素晴らしい御姿になられているのでしょうね」
エンコの陰に隠れて見えない八重の姿を見ようと、双葉がゆっくりと八重の元へと近づこうとすると、柚葉も八重の変身ぶりに興味津々といった様子で双葉に追随した。
あらあら……と八重の姿を見て、今まで見せたことのないほどの微笑みを浮かべる双葉。それを見て、柚葉の心も躍った。うわぁ、双葉御姉様があんな御顔をなされるなんて、八重さんってばとぉ~っても素敵な御姿になられてるんだろうなぁ。
「や~え~さ~――――んっ?!」
双葉の微笑ましい笑顔とは対照的に、柚葉が浮かべたのは、ただただ驚愕した表情とそれにふさわしい悲鳴に似た声であった。
八重は確かに変貌をとげていた。
ただし、それは柚葉の想像していた変貌のはるか斜め上をいく変貌であった。
「あ、あの、そ、そそ、その……」
柚葉は震え声をあげながら、震える指先で八重の身体の一部分を指さした。
それは、八重の胸元であった。
少し前までは、襦袢にむりやり包まれて今にもはちきれそうになっていた八重の襦袢の胸元が、ばっくりとハート型に切り取られ、その見事なまでに見る者を圧倒する谷間がさらけだされていたのだ。
「どうして?! こんなことに?!」
まるで錯乱しているかのような声をあげてしまう柚葉。それにエンコがかる~い口調で、
「素材を活かしただけよぉ」
と悪びれる様子も見せずほざいてみせた。
ところで、当の本人はどうかというと、まだ前髪をおさえたまま目をつぶってプルプルと小刻みに震えていた。そして、その震えに連動して解放された谷間もぷるぷると震えていた。それを見て、柚葉の目もぷるぷると震えた。
「や、やや八重さんっ!! 目をあけてくださいっ!!」
必死に呼びかけてくる柚葉の声をうけ、八重は恐る恐る目を開けた。
「なっ……なにが、どうなっているんでしょうかぁ……」
自分がどのような姿になっているか把握できていない哀れなろくろっ首が自分の前髪から手を離すと、いくつかの前髪がはらりと落ちていった。そして、その落ちた前髪は八重の谷間へと滑り込んでいった。
胸にちくちくと刺されるような違和感を覚えた八重が、自分の胸元へと視線を落とす。
「あ…………」
小さな声。だがすぐさま、部屋には八重の絶叫が響き渡ることになった。
「ふぇっ?! えぇぇえええぇぇぇ~~~~~っ?!」
前髪をおさえていた両手が、今度は露わになった自分の谷間を隠すことになってしまった。まったく、弱点の多いろくろっ首である。
「あら? 隠しちゃダメよぉ!!」
自分の作品を完璧な形にせんと、エンコが八重の両手をぐいっと八重の谷間から持ち上げた。
「ひゃんっ?! はっ、はなしてくださいぃ~!!」
顔を真っ赤にして抵抗する八重。そのやり取りを微笑ましく見ていた双葉が口を挟む。
「しかしエンコ、これで完成というわけではないのでしょう?」
「さすが双葉ちゃん、よくわかってるわねぇ!」
嬉しそうにエンコが言うと、八重の脇に両手を突っ込み、ぐいっ! と持ち上げて八重を立たせた。
「きゃっ?!」
びっくりした声をあげる八重。しかしエンコはそんなことなど意に介さず、そのまま八重を部屋の隅まで連れて行って、自分は双葉の横へと戻っていった。そして、八重に甲高い声をかけた。
「こっちに向かって歩いてきてぇ!」
八重が、あうぅ~……と頬を赤らめて胸元を隠そうとすると、エンコがキッ!! と目を吊り上げて、
「隠しちゃダメっ!!!!」
耳をつんざく声を張り上げた。
ひゃうっ?! と八重は身体を跳ねさせつつも、観念したのか胸元に置いた手をゆっくりと離していき、トコトコと双葉達の元へと歩いて行った。やがて双葉の元へとたどり着くと、八重はおどおどした口調で、
「こ、これでよかったですかぁ……?」
不安げに問いかけると、双葉がその答えだと言わんばかりに、ぎゅうぅっと八重を抱擁した。
「わぷっ……」
急な抱擁にびっくりした声をあげつつも、双葉の母親のような優しい抱擁に八重も身を任せた。双葉は、抱擁した八重の後ろ頭をなでながらエンコに言った。
「なるほど、たしかにあなたの言うように、先ほどの八重さんは、まさに至極の芸術品と言っても差し支えないですね」
「でっしょぉ~~~~?」
ふふんっ! と自信満々に言うエンコの横で、柚葉も呆けた表情でつぶやいた。
「た、たしかに……す、すごいです……」
さてさて、歩いていた八重の姿がいったいどのようなものだったか。
それは、まさにエンコが作り出した、日本の至高ともいうべき、なんとも微妙なエロチシズム。
それすなわち、『チラリズム』であった。
八重がトコトコと歩けば、襦袢にばっかりと開かれたハート型の谷間が、たゆんたゆんと揺れて見えるのだが、それがまた絶妙な肌の露出であり、大きく揺れるのだがその先端がギリギリ見えないように調節されているのだ。ひょっとすると、うっすら見えるのではないか。そう期待させる、微妙なライン。
それだけでなく、エンコのチラリズムは二段構えのものだった。
八重の魅力は胸だけでなく、前髪に隠されたくりっとしたつぶらな瞳。いつも目線が下で、どこか許しを乞うているかのようなおどおどした大きな瞳。
それが普段ならば、ボリュームの多い前髪によって隠されているのだが、それがエンコの業によって、前髪のボリュームが絶妙な量に減らされており、八重が歩くたびに前髪が揺れて前髪の間からチラリと八重の瞳が見えるようになっているのだ。
八重が歩けば、男である以上まずはその反則級の胸元に目が行ってしまうであろう。歩くたびに自己主張をする揺れる胸。だが、肝心な部分が見えそうで見えず、焦らされる男共。
それならば次に、こんなけしからん胸をしてるやつはいったいどんなツラしてやがると、八重の顔に興味が行くのが男の
そこで今度は八重の瞳のチラリズムによって、またしても男共はヤキモキさせられるのだ。
ちらちら見える瞳から、八重は間違いなく美少女だとわかるのだが、その全貌が見えぬ。それゆえ、男共は八重から視線をそらすことができなくなる。見えそうで見えず、焦らされる男心。それを残酷なまでにかきたてる、エンコの最高傑作が、今、双葉の胸の中に。
双葉は、ふぅ~……と艶やかな吐息を一つはき、エンコに言った。
「ですがエンコ――このままでは、少しあからさますぎではありませんか? 八重さんの御召し物も、この襦袢のように斬り裂くのでしたら、殿方の視線が一つに集中しすぎるのだと思うのですが」
「ええ、双葉ちゃんの言う通りよぉ。だから、最後の仕上げが必要なの――――」
そう言って、ずかずかとエンコが部屋の窓のそばへと歩み寄っていった。
そこには、今までの一連のやりとりを、ネコの姿でニヤニヤと眺めていたタマの姿があった。
「さ、協力してもらうわよぉ」
そう言うが否や、エンコはタマをがしっと掴んだ。
んにゃっ?! と不意打ちに呻き声をあげるタマを、エンコはルンルン顔でとっつかまえたまま双葉の前へとやってきた。
「ちょっと双葉ちゃん、八重ちゃんを放してくれないかしらぁ?」
エンコに言われた通り、双葉は抱擁していた八重を解放した。すると、八重のばっくり開いた胸元の谷間に向かって、
「これで完成よぉ」
と言ったかと思うと、八重の谷間にとっつかまえていたタマを、ずぼっ!! と押し込んだ。
「きゃぁうっ?!」
んにゃっ?!
同時に驚きの声をあげる八重とタマ。
(なにするにゃ?!)
タマがテレパシーでエンコに文句を言うと、エンコもテレパシーでタマにきりかえした。
(双葉ちゃんから事情は聞いてるわよぉ。八重ちゃんを護るのなら、すぐそばにいたほうがあなたも楽でしょう? それに、罠に引っ掛けるのなら、八重ちゃんのすぐそばの方が、その相手を見つけるのも楽なんじゃないかしらぁ?)
(うんむぅ……たしかに、それはそうだけどにゃ……)
八重の谷間から窮屈そうに顔を出して思案するタマ。エンコのいうことはもっともで、確かに特等席には違いないだろうが、少々息苦しいにゃ。乳圧が半端じゃないにゃ。
迷っているタマを納得させるためか、エンコが双葉に笑顔で甲高い声で言った。
「ほぉら、こうすれば男たちの視線がここに集中するわけにもいかなくなるでしょう? それに、これなら八重ちゃんの松竹屋の娘としての名前にも貢献できると思うのよぉ」
「八重さんの名前ですか?」
そう言えば、まだ決めていなかったわねと苦々しい顔をする双葉を尻目に、エンコはおぞましい笑みを浮かべて八重とタマにこう言った。
「今日から八重ちゃんは――猫葉ちゃんよぉ」
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