第二幕ノ二十五ガ上 道中終わりの八重と柚葉――忍び寄る魔手


「あら……?」


 二階から響いてくる大きな音に、柚葉が目を丸くしながら大広間の天井を見上げた。


 先ほどの御客様と何かあったのでしょうか……。


 一抹の不安を感じ、顔をしかめる柚葉だが、頭を振ってすぐにその不安を頭の中から追い出した。


 まあ、双葉御姉様がついていらっしゃるし、大事ではないでしょう。きっと、あの大きな御侍さんがけっつまづいたのかもしれません。


 うんうんと頷きながら自分に言い聞かせる柚葉。確かに大きな御侍さんが関わっちゃいるが、正確にはその許嫁が粗相をおこしたのが正解だ。そんなことよりも、今の柚葉の心配事は、別にある。それは――――、


「だ、大丈夫ですか、八重さん?」


 目の前の布団の中で、おでこを赤く腫らして恥ずかしそうに横になっている八重のことであった。


「は、はいぃ~……」


 布団の中に半分顔を隠しながら、おでこと同じように頬も赤く染めて小さな声をあげる八重。


「えっと、その、ほ、本当に大丈夫なんですか?」


 柚葉がなぜか念押しをしてくることに、八重はいささか小首をかしげながらも、


「ふぇ? は、はいぃ~……大丈夫ですぅ……」


 と、おずおずと答えてみせた。八重のこの言葉を聞き、柚葉の背中に薄ら寒いモノがはしった。


 だ、大丈夫って……漬物石に頭から突っ込んで、しかもその漬物石を真っ二つにするなんて、普通の人なら死んでもおかしくないのですが……。


 チラリと八重の赤くなったおでこに目をやる柚葉。


 それを、こんなおでこが赤くなる程度で済んでしまうなんて……八重さん、あなたって一体……。


 柚葉が抱いた疑問を、八重の枕元で丸くなっていたタマが、柚葉の心を読んで察した。


(う~むぅ、ここはちょっと誤魔化しておくにゃ)


 タマは、くあぁ~~……とわざとらしい欠伸をし、身体をみょぉ~~んっと伸ばした後に、正座している柚葉の膝へと身体を滑り込ませた。


「あっ、タマちゃん」


 年下に、ちゃんづけで呼ばれたことにちょっとムッとしながらも、タマは柚葉にむかって背中をなでろと言わんばかりに、柚葉の着物の帯に背中をすりつけた。


「ふふっ……甘えん坊さんなんですね、タマちゃん」


 ふん、あまり馬鹿にするなにゃ。と荒い鼻息を一つ吐くタマ。

 しかし、柚葉がタマの背中を軽くなで始めたところで、その態度を一変させた。


(む……こいつは……にゃかにゃか……)


 柚葉のネコあしらいの上手さに、自然と喉をゴロゴロと鳴らし、身体をすりつけるタマ。誰がどう見ても、ただの甘えネコである。

 そんなタマの甘えた仕草に、柚葉がクスリと笑みを漏らした時だった。大広間の障子戸がすすっと開き、一人の少女が入ってきた。


「あ、柚葉御姉様、こちらにいらっしゃったのですね」


 柚葉の姿を見つけた少女はそう言いながら、柚葉のそばへと歩み寄っていく。振り返る柚葉。


「あら? 私に何か御用かしら?」


 柚葉の問いかけに、柚葉よりも少し年下の少女が、手に持っていたものを差し出した。文である。


「これを柚葉御姉様にって、長次郎さんから言付ことづかったんですよ」

「長次郎さんが? 私に?」


 思わずほんのり頬を赤く染める柚葉の姿とは裏腹に、柚葉の膝の上にいるタマの表情(といってもネコの姿だから、はた目にはわからないが)に緊張がはしる。

 少女は柚葉に文を手渡すと、そそくさと大広間から出ていった。他人の情事や恋路に見てみぬふりをするのも遊女のたしなみの一つである。そういう点では、この少女は教育がよく行き届いていると言えるだろう。

 しかし、それでは失礼しますと言って、障子戸を閉めた時の表情がいけない。あんなに興味津々で仕方がないという表情を浮かべてしまっていては、やはり、まだまだ松竹屋の遊女としては落第点をつけられてしまうのではなかろうか。


 まあそんなことはさておき、柚葉の文である。

 柚葉は文を広げ、ふんふんと目を通し始めた。そして読み進めていくたびに、柚葉の頬の赤味が増していく。タマはそれを柚葉の膝の上で見つめながら、心の中で一つの核心を得ていた。


(これは間違いなく、長次郎が柚葉を誘いだそうとしている罠にゃ。問題は、この罠に八重も関係があるかどうかなんだけどにゃ……)


 むぅ~んとネコ目をしかめ、柚葉の心の中をのぞくタマ。


(今宵、柚葉ちゃんに御話がありて候――つきましては、楽器の修繕をしていただいた八重ちゃんも御一緒に――今宵、各々の商いが終わりし刻限にて――僭越せんえつながら、吉原の者同士の逢瀬おうせは御法度にて――決して他言無用で願いたくござ候――)


 タマは、ふぅとため息をついた。


(やっぱり、思った通り囮に食いついてきたにゃ。さて、ここからが一つめの大事なところにゃ。柚葉がいったいどのように動くが肝にゃ)


 果てさてどうなるにゃと、タマが次の展開を柚葉の膝の上で待っていると、柚葉が文を読み終えたらしく、文を折りたたんで大事そうに胸元へと押し込んだ。そして、寝ている八重へと問いかけた。


「八重さん。本当に大丈夫なんですね?」

「ふぇ? あ、は、はいぃ~。だ、大丈夫ですぅ」


 恥ずかしそうに、エヘヘ……はにかむ八重を見て、柚葉は刹那、複雑な表情を浮かべた。


 長次郎さんは八重さんもって仰ってますが、やっぱり心配だなぁ……。


 うぅ~んと考え込む柚葉の膝の上で、これまた同じようにむぅ~んと考え込むタマ。


(ひょっとして、八重のことを心配して長次郎の誘いを断るつもりかにゃ?)


 不安になったタマが、柚葉の心の内を読もうとすると、急に柚葉が、うんっ! と大きく頷いて、膝の上のタマを抱き上げて膝から下ろし、すっくと立ちあがった。


「わかりました。それでは、私は少し外出してきますので、八重さんはゆっくり休んでいてくださいね」


 柚葉は満面の笑みでそう言うと、弾むような軽やかな足取りで大広間から出ていった。


(あんなわかりやすい乙女心を見せられたら、心を読むまでもないにゃ。柚葉は、一人で長次郎のところに行くつもりにゃ)


 はかりごとが少々予定外の様相を見せ始めたことに、タマは、ふんっ! と荒い鼻息を一つ吐いてイラ立ちを露わにする。そして布団に横になっている八重へと、テレパシーで語りかけた。


(にゃんは上にいる連中に報告をしてくるにゃ。おみゃ~はここで大人しく寝てるにゃ)

「は、はいぃ~……」


 しゅ~んとする八重にタマがちょっとしたフォローをいれてやる。


(別におみゃ~が悪いわけでもないし、おみゃ~が失敗をしたわけじゃないにゃ。せっかくゆっくり休める機会ができたんだから、ゆっくり寝てるといいにゃ)

「……は、はいぃ~」

(じゃ、にゃんは行くにゃ)


 しゅたたっ! と急ぎ足で大広間から出ていくタマ。そして、双葉の部屋へとたどりつく間に、タマは自らの能力を強く発現させ、吉原のネコたちに指令をくだした。


(今、松竹屋から柚葉っていう娘が出ていったと思うにゃ。今度は、その柚葉が凶行の標的にされているにゃ。だから、柚葉のことをおみゃ~たちで見張っていてやってほしいにゃ。そして何かあったら、にゃんに知らせてほしいにゃ)


 タマのこの指令に、全ての吉原のネコたちが了解の意を示してくれた。


(お~お~、最初は全然協力的じゃなかったのに、一度協力してくれるとなると、なかなかどうして頼りになるやつらにゃ)


 ふふんっと鼻を鳴らし、タマは双葉の部屋の格子窓へと飛び込むのであった。

 大広間の中に一人取り残された八重。布団の中にもぐりこみながらも、八重は八重なりにイヤな予感をひしひしと感じていた。

 ……なんだか、柚葉さんの様子が変だったような気がしますぅ……。

 柚葉が出ていった大広間の障子戸に目をやる八重。言いしれぬ不安の黒雲が、八重の胸中に徐々に広がりつつあるのだった。

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