第一幕ノ十二 八丁堀での凶刃――不意の邂逅
煉弥が八丁堀へと到着したときには、すで刻限は丑三つ時へとなっていた。運のよいことに、空にはその姿を愛でたくなるほどにまんまるとした月が、優しい淡い光で辺りを薄明かりで照らしてくれていた。これなら提灯がなくても多少なりとも夜目がきく。
道すがら、異常がないかと注意しながらやってきたが、どうやら今のところ辻斬りが出ているような様子は見受けられなかった。
だが、肩で大きくぜぇぜぇと息をする煉弥の心は、ますます焦燥の色が強くなっていくばかりであった。
その理由は――――八丁堀をつつむ、異様な空気。
生ぬるい奇妙な感触を感じる風があたりにひゅぅと吹きすさび、所々から香ってくるわずかな獣臭。
まちがいねえ。いやがる――外道がここにいやがる――ッ!!
内からふつふつと湧いてくる汚濁。憎しみという名の漆黒の汚濁。
飲まれるな!! あくまでも俺の御役目は仕置き。カタキ討ちなどという、憎しみと怨嗟にまみれた俺が最も唾棄するようなものであってはならない!!
まずは止水が如き心持。そのためには、まずはこの乱れた呼吸を正すが肝要にて定石なり。
大きく何度も深呼吸をし、煉弥は乱れた呼気を正した。そして、ゆっくりと目を閉じ己に一喝――――克己せよ!!
――――もう、大丈夫だろう。邪念は消え、今はただ止水の心持をもって外道を仕置きせんとする、一人の仕置き人がここにいるばかり。
ゆっくりと閉じていた目を開き、注意深く辺りを見渡す。
その時であった――――。
ひゅぅ――――どろどろ――――。
と、不快極まりない身にまとわりつくような生暖かい風が、辺りに吹きすさんだ。次いで、
ぎぃぃやあぁぁぁあああぁっ!!
という静寂を引き裂く悲痛な悲鳴が辺りにこだました。
きたっ!! きたっ!! 外道がおいでなすった!!
瞬時に煉弥は悲鳴の聞こえた方角へと駆け出した。
駆けている間、今一度煉弥は己の心に言い聞かす。
克己せよ!! 克己せよ!! 振るう刀は憎しみにあらず!! 振るう刀は誰がためぞ!! 今一度、それを思い出せ!!
憎しみは刃を鈍らせる。憎しみは怨嗟を連鎖させる。
今の俺に必要なのは、ただただ止水の如き心持。
外道に相対して逆上などしてしまえば、斬られてしまうは己のほうぞ。
ゆえに、今はただ――今はただ――止水の如き心持こそ肝要なり!!
そう何度も言い聞かせ、いくらか心を平静に保てるようになりだしたころ、駆ける煉弥の前に倒れている人影らしきものが現れた。
その足を止め、まずは呼気を整える。次いで周囲の警戒。――気配なし。煉弥はゆっくりと、人影に向かってその口を開いた。
「もし――もし――」
人影から応答はない。大きく鼻呼吸をする。錆びた鉄のような臭いがうっすらと感ぜられる。その臭いは人影の方から臭っていた。
右手を本差にかけ、臨戦態勢をとったままゆっくりと人影へと近づく。近づけば近づくほどその臭いは強くなっていった。
その人影に手が届くほどに近づいた時、煉弥の足にぬるりとした何かを踏んだ感触を覚えた。それが、おそらく倒れている人影から溢れ出る血であろうことは、目に見えぬとも臭いで容易に察することができた。
手遅れか……。
煉弥は周囲に対する警戒を緩めぬまま、かがみ込んで倒れている人影を調べ始めた。
身なりから察するにどうやら武士のようらしい。
全身を縦横無尽に無残にも斬り刻まれ、その斬られた箇所から鮮血が地に滴り落ちている。
暗がりのため詳しくはわからないが、それでも体中にいくつも刻まれた切創の中で、致命傷にいたるところは心臓部に対する突き傷であろうということだけは推測できた。その部分だけ、明らかに出血量が段違いだ。
ということは……。
外道のやり口を推察してみる。
外道の得物の形状は想像できないが、少なくとも切れ味鋭い刃物であることはわかる。
まあ辻斬りだから当然か。自嘲するように、フンと鼻で笑いながら思案をすすめていく。
武芸者は、刀を抜いていない。とすれば、この武芸者は外道の姿を認めていなかったことになる。さらにいえば、切り刻まれている間も、外道は決して姿を見せていないとも推察できる。そう考えれば、タマの子分の証言も合点がいく。
「……姿の見えぬ外道、か。こいつぁ、想像以上に厄介な手合い――――」
言葉を言い終えかけたところで、煉弥はその場で軽く飛び上がって、すぐさま身をとりなし臨戦態勢。
――――気配。
――――それも、並大抵の気配にあらず。
――――さながら、世に渦巻く悪意を一つ集約したかのような、おぞましい気配。
まさか、これほどの相手とは……怖気づきそうになる心を叱咤する。
恐れるな!! 飲まれるな!!
目を見開き、煉弥はいつでも外道の攻撃に対応できるよう深く腰を落としつつ、辺りを注視した。
ひゅう――――どろどろ――――。
――――辺りに満ちる、一段と生暖かな外道の吐息のような風。吐き気をもよおす、濃い獣臭。
(きやがれッ!!!!!!)
煉弥が本差へと手をかけた刹那――――、
轟ッ――――!!
という、思わず手で顔をかばってしまうような強風が辺りに吹きすさんだ。
(くるかッ?!)
目を見開き、如何なる外道の攻撃にも対応できるよう、精神を研ぎ澄ます――――。
しかし、そんな煉弥の決死の思いとは裏腹に、気配は強風と共に消え去り、辺りには先ほどまでのおぞましい空気から一転、まさに平穏無事といったような空気に満ちていた。
それでも煉弥は警戒を緩めず、辺りをじっくりと見回す。これが外道のやり口かもしれぬ。油断させておいての不意打ち。ありえることだ。
何度も何度も注意深く辺りを見渡したのち、どうやら外道を取り逃したということを確信したところで、煉弥は警戒を解いた。
横に転がっている武芸者の遺体を見下ろしながら束の間逡巡。されど、頬にはしった鋭い痛みが、仕置き人としての心持ちを煉弥に呼び戻させる。
頬に触れる。ぬるりとした感触。どうやら、頬を斬られているらしい。
「いつのまに……?」
血のにじむ頬をなでながら、煉弥は己に問いかける。
斬られたとすれば、いつだ?
そう己に問いかけたところで失笑する。知れたこと。あの強風の時以外になし。
とすれば……どうなる? 考えろ。まずはここまでにわかっていることを羅列してみるが上策。
風。濃い獣臭。目に見えぬ凶刃。人を斬る快楽を求むる外道。
手がかりになるかはわからぬが、わかったことといえば、このくらいか。
「ここは一度長屋に戻って、あの人にお伺いを立てて――――」
――――気配。
まさか、舞い戻ってきたか?!
気配のする方向へと身をひるがえし、腰を落として臨戦態勢をとった煉弥の先にいた者とは……。
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