第二幕ノ二十二ガ中 吉原の立て看板――集う群衆


 夏真っ盛りの昼時の吉原というところは、実に閑散とした様相を呈しているのが通例となっていた。

 それも、今日のように快晴も快晴、空を見上げるのがうっとおしくなってしまうほどのクソ暑い日となればなおさらである。

 しかし、そんな昼時の吉原だというのに、今日に限っては、吉原の中央の広場に押すな押すなと群衆が集っていた。

 なぜ群衆が集っているかというと、それは、群衆の中心部に立てられている看板のせいであった。

 看板には、こう書かれてあった。


『二日後のひつじの刻(午後一時)より、松竹屋の遊女二人による花魁道中を執り行いて候』


 看板を見て、ざわざわと騒然としている群衆たち。ちなみに、集まっている群衆たちのほとんどは、吉原に居を構える妓楼の主人や遊女及び若衆たちである。


「こりゃあ、なんちゅうか、また珍しいことだなぁ?」


 若衆の一人が声をあげると、


「おうよ。花魁道中を事前にこうやって大々的に告知するなんざ滅多にねえことだし、しかもそれをやってるのが、花魁道中を毛嫌いしてたあの松竹屋ってところがまたなぁ。いったい、梅ばあさんにどんな心境の変化があったもんかね?」


 と、別な若衆がそれに答える。すると今度は妓楼の楼主の一人が、したり顔で言った。


「しかしなぁ、こうやってわざわざ告知してまでやるってんなら、きっととんでもねえ規模でやるつもりなんじゃねえのかい?」

「へぇ? どうしてそう思いなさるんで?」


 若衆の一人が聞くと、楼主はニヤニヤしながら、


「考えてもみろや。花魁道中ってぇのは、吉原一帯どこぞの妓楼でもやってらぁ。それなのに、わざわざこうして松竹屋が花魁道中をやるって銘打ってるくらいなんだから、そりゃあよっぽどの自信があるってことなんだろ? しかも、普通は主役の遊女一人でやるもんだが、何を考えてるのか、松竹屋の花魁道中は遊女二人でやるって言ってんだぜ? ってぇことは、そりゃあやっぱりド派手なモンになるんじゃねえのかい?」

「なぁるほど!! たしかに、楼主様のおっしゃる通りだ!! 最近辛気くせえことが続いてたけど、二日後は中々おもしれえことになりそうだ!!」


 若衆がそう言うと、それに合図に、集まっていた群衆がやいのやいのと大騒ぎを始めた。

 そんな騒ぎの中、一人の男が群衆の中から抜け出してきた。

 その男は、長次郎であった。

 長次郎はいつもの柔和な表情を引っ込め、浮かない顔をして、群衆に背を向けて、閑散とした吉原の町を歩き始めた。

 とぼとぼと、いつもの猫背をさらに激しくして歩く長次郎。その胸中は、穏やかなものではなかった。


 ――――また、女子が死ぬことになるのか。


 行くあてもなく、吉原の区画内をひたすら行ったり来たりし続ける。

 松田屋に戻らなければならぬ。だが、戻れば、上尾がまた狂乱していることだろう。なぜ、自分が道中をすることができぬのかと。

 そうしてひとしきり狂った後、いつもの結論に落ち着くのだ。

 そうだ。私が美しくないのがいけないのだ。私より美しい者がいるからいけないのだ。ならば、その美しい者の血で私が美しくなればいいのだ――と。


 長次郎は、いつの間にか自分の目の前に白塗りの高い塀があることに気づいて、立ち止まった。

 この塀は、遊女の脱走を防止するために作られた塀であった。

 そしてこの塀の外には、ドス黒く汚れた深い溝が、塀を取り囲むように作られてあるのだ。この溝は、その黒さから『お歯黒どぶ』と呼ばれている。もちろん、このお歯黒どぶも、遊女の脱走を防止するために作られたものだ。

 塀に手を右手をつく長次郎。その額から、汗が一滴垂れ落ちてきた。果たしてこれは、目のくらむような暑さからくる汗なのか。それとも、これから自分に降りかかってくる上尾の狂乱に対する冷や汗なのか。


 ――――上尾。


 初めて上尾に会った時、これほどまでに不幸な少女がいるのかと、長次郎――いや、季長すえながは思ったものだった。

 人であって、人でない、上尾。

 己の身を売ることでしか、生きることを許されなかった、上尾。

 そのような苦難の中であって、必死に生きようともがいていた、上尾。


 何不自由のない場所で生きてきた季長にとって、上尾のその必死にもがく姿は、いままでみたことのないような美しさであった。

 その姿を例えるなら、汚泥に咲く蓮の花が如く。

 季長が上尾に溺れていくのは、ある意味で言えば必然と言ってもいいかもしれない。人間、今までに自分の感じたことのない感動と美しさに触れた時、自分のあふれ出る激情を抑えることなどできぬものだ。


 しかし、季長はあまりにも世間知らずすぎた。

 季長はあまりにも優しすぎた。

 季長はあまりにも上尾に幻想を抱きすぎていた。


 上尾に貢ぎに貢ぎ、貢ぐ金がなくなれば、自らを吉原の若衆へと身を落としてまで、上尾に尽くしてきた。

 ゆえに、ウガチと名乗る妙な老人が上尾に絶世の美女になれるという、おぞましい秘術を授けた時も、季長は上尾のために尽くしてやろうと思った。

 最初の生贄の女は、ウガチが手を下したので、上尾にも季長にもあまり罪の意識というものは芽生えなかった。


 しかし、二人目からは違った。

 一人目の被害者の生き血を浴びた上尾は、確かに美しくなった。だが、それがキッカケとなり、美しさを求める欲望に歯止めがきかなくなってしまったのだ。

 美しくなれば、客づきがよくなるのはもちろんだが、周囲の遊女たちに対する優越感のようなものを上尾は感じるようになった。それが上尾の心をじわじわと高慢ちきなモノへと変貌させていった。

 以前の上尾は、身請けをしてもらうことで、吉原からの脱出を望んでいた。この時に、季長が上尾を身請けしてやれていれば、今回の事件は起こっていなかったのかもしれない。

 だが、季長は上尾を身請けすることができなかった。いや、正確に言えば、身請けをしようとすればできたのだが、それをするには季長の優しさが障害となってしまったのだ。


 武家の出――それも、幕府の要人との関りのある武家の長男が吉原の遊女を身請けしたともなれば、その悪影響は火を見るよりも明らかだ。

 季長は、父が好きだった。

 実直で、不器用で、他人から見れば粗暴にも見えかねない気性の荒い父。

 だがそんな父が時折見せる、不器用な優しさ。自分や妹を労わってくれる、あの、優しさ。


 妹――お春――。


 塀についている手に思わず力がこもる季長。塀をかきむしるような格好になってしまい、その指先から淡く血がにじむ。

 指先に血をにじませた手を己の眼前へともってくる。その手で握りこぶしを作り、思いっきり塀を殴りつける季長。

 鈍い音が響く。ヒビでも入ったか。鈍い音とは対極的な鋭い痛み。このくらいの痛みなぞ、なにするものぞ。お春が――今まで被害にあってきた遊女たちの痛みにくらぶれば、なにするものぞ。


 上尾は変わってしまった。

 以前はあれほどまでに吉原から出たがっていたのに、今では、吉原の頂点に立つことに固執している。それも、どんな手を使ってでも。

 まさか、お春が吉原まで出張ってくるとは思いもしなかった。

 お春が大奥へと入る前、お春にだけは自分が健勝であることを伝えたいと思い、自分が吉原にいるということを伝えていた。

 それがまさか、こんなことを招くとは。


 ふとした時に、上尾にお春が――自分の妹が大奥にいるということを話してしまった。

 程なくして、お春が吉原へと来て、その時に上尾に絞殺されてしまった。

 気づいた時には、全てが遅すぎた。

 顔から血の気を失っているお春の顔。

 嬉々としてお春の血を浴びていた、上尾の甘美な笑み。

 その時、季長は痛感した。上尾が、二度とは戻れぬ外道の道を歩んでいたことに。そして、自分も外道の道へと歩んでいたことに。

 塀から拳を放し、力ない足取りで松田屋への道を歩み始める季長。

 曇り曇った季長の心を嘲笑するかのように、空は一点のよどみのない日本晴れであった。

 空を見上げる季長。そして、己を嘲笑した。


 いくら後悔しようと、もう元には戻れぬ。

 いくら後悔しようと、もうお春は戻ってこない。

 いくら後悔しようと、死んだ人間と死んだ心は戻ってこない。


 なれば、これからどうすればよいか――道は一つしかあらず。それすなわち、外道の道を突き進むが必定。

 しかし、そこまで開き直れぬのが季長の優しさであった。

 外道にもなりきれず、かといって上尾や己を罰することもできぬ。なんという、情けない蝙蝠男こうもりおとこか。

 季長は笑っていた。猫背はひどくなり、その卑屈な笑いは、いつもの“よごすの長次郎”と呼ばれる男のものになりつつあった。

 やがて、松田屋の前へと戻ってくると、季長は、松田屋の若衆“よごすの長次郎”へと、完全に変化していたのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る