第二幕ノ二十三ガ結 季長の想い――上尾の慟哭


「――――忌々しいィィィィィィッ!!!!」


 空気を引き裂く金切り声が、松田屋の最上階より響く。松田屋の最上階に座するは、松田屋一番の遊女、上尾。

 贅を尽くされた部屋の調度品を、狂気じみた金切り声をあげながら投げ散らかす上尾。その凄まじい物音に、階下の若衆たちが、嘲笑に近い声をあげていた。


「けっ! 我らが上尾様がご乱心の御様子だぜ」

「おうおう。今日はいつも以上に激しいな。最上階から、松竹屋の道中を覗いていて悔しくって堪りませんことよってわけかい」

「見た目はいいんだが、あの性格がいけねえよな。客も最初は我慢してくれるが、話していくうちに、あの気性が垣間見えてくるから、結局は最後に客から逃げられちまう

「だから、俺ぁ言ってるんだよ。客と座敷をふんで、最初から最後まで黙ってりゃいいんだって。もちろん、抱かれてる間も一言もしゃべっちゃいけねえよ」

「バッカ野郎。それじゃあ、客もやる気がでねえだろうが!! どんな美女でも、艶やかに乱れてくれなきゃ味気ねえってもんよ」


 ゲラゲラゲラゲラ!! と、若衆たちが下卑た笑い声をあげだすと、それを合図にするかのように、長次郎が松田屋の玄関口からのっそりと入ってきた。それを見咎めた若衆の一人が長次郎を呼ぶ。


「おい、長次郎!!」

「へぇ~い?」


 長次郎が呼びかけられた若衆の元へと、ひどい猫背でのっそりと歩いていく。


「おめえの仕事だ。ほら、聞こえるだろ?」


 そう言って、若衆は天井を指さした。長次郎がそれにつられて天井へと目をやると、天井から上尾の金切り声と、暴れているような激しい音が聞こえてきた。


「上尾がご乱心だ。静かにさせてこいや、長次郎」


 蔑んだ目つきで若衆がそう言うと、他の若衆たちも、そうだそうだと笑いながら同意した。長次郎は、若衆たちに困ったような嬉しいような、そんな複雑な表情を浮かべながらも、


「へえ、ようごす。行ってまいりやしょう」


 いつもの口癖を披露しながら、上へとあがる階段に足をかけた。

 階段を登り始めた長次郎の背に、若衆たちの蔑みの声がぶつけられる。


 ――いつもヘラヘラしやがって、情けねえ野郎だ。

 ――女に入れ込むのは吉原の男の生業みてえなもんだが、よりにもよって上尾に入れ込むとはよ。

 ――だがちょうどいいんじゃねえのか? よごすの長次郎なら、上尾のキ〇ガイ地味た言い分でも、なんでも聞いてくれらあ。

 ――ちげえねえ!! 吉原一のお似合いの夫婦だぜ!!


 ぎゃ~~はっはっはっ!! という下卑た笑い声を背中で聞きながら、長次郎は上尾のいる最上階への階段を登っていった。

 階段を登っている間、長次郎は心の中で願っていた。

 どうか、言わないでほしい。柚葉ちゃんを、そしてあの猫葉という少女を手にかけてこいと――――そう、命じないで欲しい。

 だが、長次郎は心のどこかで、それが空虚な願いであることもわかってはいた。

 階段を登る足取りが重くなる。だが、行かねばならぬ。


 自分にしか、上尾の昂りをおさめることはできぬ。

 自分にしか、上尾の想いを理解してやれぬ。

 自分にしか、上尾を救ってやることができぬ。


 長次郎は心の中で、己にそう言い聞かせ、なんとか気持ちを奮い立たせながら階段を登っていった。

 そして、上尾の部屋の障子戸の前についたとき、大きく深呼吸をひとつした。覚悟を決めねばならぬ。


「上尾――入るよ」


 すすっと障子戸を開くと、調度品があちらこちらに散乱した部屋の中で、襦袢姿の上尾が世にもおぞましい憎しみの表情を浮かべて立っていた。その顔と視線は、部屋の窓である格子戸に向けられていた。


「上尾――入るよ」


 長次郎が確認のためにもう一度同じ言葉を発するも、上尾には聞こえていないのか、それともそもそも長次郎など眼中にないのか、上尾は格子戸に視線を向けたまま、微動だにすることはなかった。

 これは、まずいな。やはり、願いが叶うことはないかもしれぬ。

 重い心持ちになりつつも、長次郎は出来得る限りの笑みを浮かべて上尾のそばに歩み寄った。


「上尾――どうしたんだい?」


 聞かなくともわかる。あの二人の少女の道中のせいだ。あの二人が、眩しいほどに美しいからいけないのだ。

 しかし、聞かなければならぬ。これは一種の、儀式のようなもの。問いかけることで、上尾の欲望は一際高まるのだ。


「どうした――と?」


 上尾は長次郎に顔を向けることなく、格子戸窓にずっと目を向けたまま、そう呟いた。そんな上尾に、長次郎は根気よく問いかける。


「うん。どうしたんだい?」


 すると、上尾がゆっくりと長次郎の方へと顔を向けた。

 はっと息を呑む長次郎。鬼気迫る、といった形容が見事にあてはまる表情をした上尾が、長次郎の胸にすがりついてきた。


「どうして?! どうして、あちきに道中が許されないでありんすか?!」


 許されないんじゃない――してくれる客がいないだけなんだ。

 そうは思うが、それを口にしてしまうわけにもいかぬ。長次郎は、優しく諭すような口調で上尾に言った。


「大丈夫だよ、上尾。必ず、上尾にも道中の出来る時がくるからね」

「それはいつでありんすか?!」

「いつって――――」


 上尾の率直な意見に、言葉を濁す長次郎。すると、上尾が身体を震わせ、小さな笑い声をあげはじめた。


「上尾? どうしたんだい?」

「…………でありんした」

「うん? なんだって?」

「貴方はいつもそうでありんしたッ!!!!」


 どんっ!! と長次郎を突き飛ばし、鬼のような形相で怒声をぶつける上尾。


「ど、どういうことだい?」


 困惑の表情を浮かべる長次郎に、上尾が思いのたけをぶちまけていく。


「貴方はいつもそう言ってござんしたッ!!!! いつか必ず、いつか、いつか、いつか――――ですか、貴方の言う“いつか”が来ることは決してなかったッ!!!!」

「そ、それは…………」


 思わずくちごもる長次郎。

 上尾の言う通り、長次郎――季長は、上尾の客としてついていた時、いつも言っていた。


 ――いつか、お前を身請けしてあげるからね。

 ――いつか、お前と所帯を持って見せるからね。

 ――いつか、お前を人にしてあげるからね。


 だが、季長の言う“いつか”が来ることはなかった。

 それどころか、自らの行き場をなくし、上尾に頼み込んで松田屋の若衆として使ってもらえるように働きかけてほしいと言う始末。

 なんと、情けないことだろうか。

 だが、季長なりに努力はしたのだ。

 ただ、その努力が実らなかっただけで、季長が言っていた“いつか”を言っていた時、季長は本気にそう思っていたのは確かなのだ。


 そしてそれは、季長が上尾を想う気持ちも真実であったとも言える。

 長次郎という若衆に身を落としても、季長は上尾を想い続けている――だが、別な側面から見れば、それは季長がそう思いたいだけなのかもしれぬ。

 上尾に想いを寄せることが、今の季長の全てであり、それしか拠り所がないのかもしれぬ。

 だからこそ、季長は上尾と共に堕ちていく。

 たとえ、外道と人から呼ばれても、堕ちていく。

 上尾を愛しているからこそ、堕ちていく。

 自分が望んでいなかったとはいえ、自分があずかり知らぬことだったとはいえ、妹をも上尾に捧げさせられた今――もう、失うものなど何もない。

 うつむいていた長次郎が、突然顔をあげた。


「ごめんよ――上尾」

「ッ?! 今さらお謝りになられても――――」


 上尾の言葉を、長次郎が強い口調でさえぎった。


「いや、謝らなきゃいけない。私が優柔不断だったから、いけないんだ。全部。全部。私が優柔不断だったから、いけないんだ」


 そう言って、深々と上尾に頭を下げる長次郎。そんな長次郎を見て、上尾は刹那困惑の色を見せたが、すぐに激昂し、


「ええ、その通り!! よくおわかりになられていらっしゃってござんす!! 全部、季長殿が悪いんでござんす!!」


 と、吐き捨てた。しかし、長次郎はそんな上尾を突如として抱きとめた。


「ッ?! 何をされるでござんしょうか?! あちきの身体が欲しいでありんすか?!」

「そうじゃない……そうじゃないんだ……」


 長次郎が上尾を抱きとめる力を強くする。そして、身体を小刻みに震えさせ、すすり泣きを始めた。


「え? ええ? 季長殿?」


 まさかの展開に、毒気を抜かれたような呆気にとられた声をあげてしまう上尾。そんな上尾の長く垂らされた黒髪を、季長が心底愛おしそうに手櫛をしはじめた。


「もう、上尾しかいないんだ……私を、季長と呼んでくれる人は……私が、何も包み隠さずに腹の底を話せる相手は……私が、心の底から愛せる人は……上尾、君しかいないんだ……」


 長次郎――いや、季長はそう言うが、実際のところ、季長のことを名前で呼んでくれるであろう人物はもう一人いる。しかし、季長が、春姫の死に関わっていると知れば――それも、その限りではない。


「……季長殿――ううん、季長様……」


 先ほどまでの怒声はどこへやら、一転して甘えた声をあげはじめる上尾。この声がいけない。この甘えた声が、季長を狂わせるのだ。


「上尾……上尾は、どうしたい? 上尾は、どうなりたい?」

「どうなりたいとお聞きになりんすか? されば、お聞かせいたしんしょう――あちきの願いを――――!!」


 季長に抱かれた腕から離れ、上尾の乱心からかろうじて被害を免れていた、敷かれた布団の上に移動する上尾。そして、夢見るような目つきとなって宙を見つめ、その想いを吐露しはじめた。


「あちきは欲しい――この吉原の頂点に立てる美貌が――全てを跪かせる美貌が欲しいッ!!!!」


 季長が、ゆっくりと上尾に近づいていく。己の真の姿を偽るための猫背は消え、背筋がびしっと伸びた、武芸者の足取りだった。


「じゃあ、そのために――上尾は、私に何を望むんだい?」


 猫なで声をあげる季長を、上尾はとろけた表情で見つめた。


「血を――――あの、道中の小娘共の血をッ!!」


 そう言って、上尾は襦袢の袖から両腕を抜き、襦袢を布団の上に落とした。露わになった、上尾の妖艶な肢体を前に、季長もまたとろけた表情となって言った。


「ああ、上尾……必ずや、お前を幸せにしてあげるからね。必ずや……お前の望みを叶えてあげるからね……」


 季長の口からはもう“いつか”という言葉がでることはなかった。もう、“いつか”などと言えるような状況ではないのだ。

 堕ちていく。堕ちていく。

 どこまでも、どこまでも。

 こうなったら、お前と共に、いつまでも堕ちて行こう。

 季長は上尾を抱きとめ、そのまま布団の上に倒れこんだ。上尾が刹那、抵抗するような素振りを見せたが、すぐに上尾も季長に身を任せ、部屋の中に艶やかな声が響き始めるのであった。

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