第一幕 激震の柳生家――利位、茫然自失
利忠が屋敷に帰り着く頃には、時刻はそろそろ夕刻へと差し迫ろうとしていた。
帰り道の途中、利忠とすれ違うものは、例外なく早足で利忠のそばから離れていったものである。
その理由は、利忠が浮かべていた表情にある。地獄の鬼すらも避けて通るのではと思われるほどの、凄まじい表情。
利忠は、今まで生きてきて、これほどまでにみじめな思いをしたことがなかった。そしてこれほどまでに怒りを感じたこともなかった。
全ては、己の不始末がため……!!!!
筆舌にしがたい口惜しさが、利忠の心を支配する。それが、表情に現れ、道行く人々を畏怖させていたのだった。
屋敷に帰り着くなり、利忠はその足で、利忠がもっとも信頼し屋敷に下宿させている二人の門下生のもとへと行った。
障子をあけると、二人の門下生は将棋盤を囲い、将棋を指し合っていた。
「これは、御館様。おかえりなさいませ」
利忠の姿を認めた二人は、将棋を指す手を止め、利忠の方へと身体を向けてお辞儀をした。だが、二人に負けず劣らず利忠が深く頭を下げ、二人に言った。
「すまぬ。何も言わずに、ワシと共にきてくれぬか」
「おっ、御館様?! どうか頭をお上げくださいませ!!」
慌てて利忠にすがりつく二人。だが、利忠は二人の願いに耳を貸さず、頭を下げた姿勢をくずすことはなかった。
そんな利忠の姿にただごとならぬ気配を二人は察した。ここは余計なことを聞かず、御館様のご意向に沿うが門弟の道よ。
「かしこまりました……我ら、何も言わず、御館様の後へと続きます」
威儀をただし、かしこまって御館様の命を承る二人。
「すまぬな――では、後についてまいれ」
「はっ――!」
背を向ける利忠。そして利忠の背につく二人。
いったい、御館様になにがあったのか。あのような、御館様の覚悟に満ちた表情など、今まで見たことなどない。それに、御館様が我らのような者に頭をおさげになられるなんて、よほどのことだ。いったい、これから御館様はどこへお向かいになられるのか?
緊張に身を固くしながら、利忠の後ろに続く二人。やがて、利忠の足が止まった。その足が止まった場所は、利位の部屋の前であった。
利忠は二人に向かって振り向いた。その表情は、先ほどよりも険しい覚悟の色によって染まりあがっている。自然と、身が引き締まる二人。
「よいか――これより、ワシがどのようなことを行い、どのようなことを口走ろうと、決してうろたえるでないぞ」
「はっ……!」
かしこまる二人を見て、うなずく利忠。
そう――覚悟を決めねばならぬ。
刹那、生まれたばかりの利位が産湯に浸かっている光景が利忠の脳裏に浮かんだ。
愛らしく、無邪気で、世の何よりも愛おしかった。
部屋の障子戸に手をかける利忠。すると、今度は、利位と初めて稽古をした日のことが利忠の脳裏に思い返された。
――父上のように、なりたいっ!!
純粋無垢であった、あの頃。利忠は、息子の真っすぐな想いをぶつけられ、息子の成長を楽しみに思い、そして息子の成長を全力で手助けしようとした。
それが、いけなかったのか。
歯ぐきから血がにじみ出るほどに、強く歯ぎしりをする利忠。もう、あの時には戻れぬ。
これより、利忠は鬼となる。
柳生家という、先代から続く大いなる家系を護るため――そして、武士としての面目を御上に対して果たさんがため――。これより、利忠は鬼となる――!!
勢いよく障子戸をあけ放つ利忠。部屋の中には、部屋着でくつろいでいる利位が、遊女のような姿をした女に手酌をさせている姿があった。
「おや? どうされましたか、父上」
とろんとしたほろ酔い気分の瞳を利忠に向ける利位。
「女――失せよ」
「いきなり現れ、開口一番にそのような言い方をなさらずともよいでしょう、父上。この者は――――」
「失せろと言っておるッ!!!!」
空気が震えるほどの一喝であった。女は利忠のあまりの迫力に、ひぃっ、と小さな悲鳴をあげ、転がるように部屋から出ていった。利位は、大きく肩をすくめてみせて、
「まったく……父上、少しは風流というものも解したほうがよろしいですよ」
と、小馬鹿にしたような口調で利忠に言い放つ。しかし、利忠は利位のそのような戯言なぞに耳をかさず、ずかずかと部屋の中へと入り、利位のすぐそばまできたところで、
「この――大馬鹿者がぁッ!!!!!!!」
空気が裂けんばかりの怒声と共に、利位の鼻っ面に向かって全力で拳を振りぬいた。
「がっ?!」
鼻骨のくだける鈍い音を響かせながら吹っ飛ぶ利位。虚を突かれた利忠からの一撃に、わなわなと身体を震わせながら、なんとか四つん這いの格好に身体を引き起こし、折れた鼻から血を垂らしながら利忠に問う。
「な、なにをなさるのですか……?!」
この利位の問いに、仁王立ちの
「なにをするだと? よくもそのような舐めた口をきけるものだッ!! ワシになぜかと問う前に、己が胸に手をあて、己が所業を振り返れぃッ!!」
利位は困惑した。そのようなことを言われても、いったいボクの何がこの父を怒らせてしまったのか見当がつかぬ――思いあたることがありすぎて。
「さて……わかりませんね……」
部屋のすみの壁によりかかるようにして座り込み、虚勢をはりながらも力なく答える利位。
「そうか……ならば、ワシの口から教えてやろう。おいッ!! 入ってこいッ!!」
部屋の外に控えていた門下生の二人を呼び寄せる利忠。はっ……! と重々しい足取りで入ってくる二人を見て、利位はさらに困惑した。この二人が、いったいなんの理由でここにいるのだ? 父は、いったい、何をなさろうとしているのだ?
「おぬしらも、よぉく聞いておくがいい。この大馬鹿者が、いかなることをしでかしたかをな――――」
室内によく通る声で、淡々と語るは、先ほどの江戸城の御座乃間での一幕。最初は、なんのことですかと余裕の笑みを浮かべていた利位も、話が進むにつれ、その表情が徐々に絶望の色へと染まっていった。
「――――わかったか。この大馬鹿者めッ!!!!」
利忠は話し終えるなり、利位にむかって怒号一閃。だが、この利忠の怒号にこたえたのは利位ではなく、後ろで黙って聞いていた二人の門下生であった。
「おっ、御館様!! つまるところ、柳生家は今やお家断絶の危機にひんしているということでございますか?!」
「その通りよ。神君家康公の時より、将軍家の剣術指南役としてお仕えさせていただいている誉れ高きこの柳生家の名誉を、この大馬鹿者は己の色事のために全てぶち壊そうとしておるのだッ!!!!」
「なんという……若様、なんという……」
絶句。まさにその形容しか浮かばない様相の門下生の二人。
利位は、ただただ震えているばかりであった。まさか、己の謀が全て見通されていたとは。まさか、あの上様が、自分に容赦なく牙を向いてくるとは。
「聞いた通りだ、利位よ。忌々しいことこの上ないが、この柳生家の命運は、今や全てキサマの双肩にかかっておる。ありがたいことに、上様は、キサマが辻斬りの下手人を捕らえずとも、夜回りさえすればよいとおっしゃってくださった。ゆえに、利位よ。夜回り中に、もし下手人と相対せしことがあれば、決して立ち合おうなどと愚かなことをせず、すぐにこの屋敷に戻ってくるのだぞ。よいな」
いくら利位が外道のクズだとしても、やはり利忠からすれば、かわいいかわいい血を分けた子。その身を案じるは、当然のこと。しかし、この利忠の言葉を聞き、利位は、
「なんですって? 逃げろ、と申されるのですか、父上? この柳生家が嫡男、柳生利位に、敵に背を向けて逃げろと、そうおっしゃられるのですか、父上?」
と、自らの剣の誇りを父に傷つけられ、震えをおさめて憎悪を宿した目を父に向け、吐き捨てる。
「そうだ」
「これはこれは……!! 父上は正気であらせられますか?! このボクに!! この柳生家が嫡男に!! 逃げろと?! そのようなこと、このボクができるわけがないでしょう?!」
「つまり、キサマは、下手人をその手で斬ってすてる自信があるということか?」
「当然でございましょう?! 今まで、このボクの二刀をいなした者など、父上をおけば、あの柳至天流の老師しかおりませぬ!!」
利忠に噛みついてくるように言い寄る利位を、利忠は、はんっ! と唾棄するように息を吐き、
「ならば、ここにおる二人を、キサマは簡単にいなすことができると、そう申すのだな?」
チラリと二人の門下生に目をやる利位。
「いなすことができるもなにも、この者共は、稽古中に一度もボクに勝ったことがないではありませぬか!! それは父上もよくご存じのはずです!!」
「ああ、よく存じておるともよ。そして――それを止めなかったワシが、キサマをここまで歪めてしまったのだということも――今なら、身に染みてわかっておる」
「なんですって……?!」
「利位――今すぐ、道場でこの二人と立ち合え。嫌だと申せば、ワシがこの場でキサマを斬る」
腰の大小に手をやる利忠。そんな利忠の姿に、利位も二人の門下生も、利忠が本気だということを察した。
「……わかりました」
渋々といった体で、利位はうなずいた。そしてそばに置いてあった懐紙入れから懐紙を一枚とりだし、痛みがおさまらぬ鼻を拭きあげてから立ち上がった。
「では、手数をかけてすまぬが、お前たちも道場の方にきてくれ」
「……はっ!」
そうして、四人は道場の方へと移動した。
いつの間にか、陽もおちかけている時分になっており、道場の中は薄暗く、初夏というのにも関わらず、なにやらうすら寒さを覚えるような気がした。
おそらく、空気が凍てついているのであろう。これから、この道場で繰り広げられるであろう光景を、空気が察しているのやもしれぬ。
二人の門下生は、互いに懐の中にしのばせておいた火打石を取り出し、道場の燭台の前でカチリと打ち、燭台に灯りをともした。
「各々方、支度せよ」
利忠の重い一声が道場内に響き渡る。その言葉に従い、支度をする利位と門下生の二人。
二本の竹刀を両手に携える利位。ふん。何が逃げろだ。いくら父上とはいえ、ボクをコケにすることだけは、どうしても許せない。ならば、この二刀でもってして、あの二人を完膚なきまでに討ち果たして父上の鼻を明かしてやるのも一興よ。ギリリリリ……と竹刀を握る手に力が入る。
そんな気負う利忠とは対照的に、冷静沈着に粛々と手合わせの支度をととのえていく門下生の二人。だが、二人の心の内には、大きな困惑が渦巻いていたのである。
二人の心の内をざわめかせる要因は、さきほどの利忠の言葉の中にあった。そして、それをハッキリさせねば、今からの立ち合い、どのように振舞えばよいか、わからぬ。門下生の一人が、利忠に声をかけた。
「御館様……その、御無礼を承知でお聞きいたしますが――――」
「それ以上言わなくとも、よい。もう、気をつかうことはない」
この利忠の言葉に、門下生達も覚悟を決めた。いつかはこういう時がくるのではないかと思ったが、まさかこのような形で訪れるとは……。
「気をつかう、ですって? はっ! いったい、何に、誰に、気をつかっていたのやら……」
侮蔑の目を門下生たちに向ける利位。それを真っすぐに受け止める門下生たち。そして、厳かな声で門下生のかたわれが言った。
「まずは……それがしがお相手をいたします」
すっくと立ちあがり、柳生新陰流の正当な構えをとる門下生。
「ふんっ……! 怪我しないように、気をつけることだね……!」
忌々しげにそう吐き捨て、邪道とされている二刀の構えをとる利位。
構えた二人をみて、利忠は宣言する――――、
「それでは――はじめぃっ!!」
利忠の掛け声がかかるやいなや、門下生が気合の咆哮と共に、烈火の如く利位へと襲い掛かる。
「キェェェェイ!!」
「なっ――?!」
慌てて迎え討とうとする利位だったが、門下生の鋭い太刀筋がそれを許さなかった。利位の両手に握られていた竹刀は無惨にも打ち飛ばされ、無防備な利位の胴に門下生の抜き胴が打ち込まれる。
「ぐぅっ?!」
打たれた部分を手でおさえながらうずくまる利位。手も足も出ない、完敗である。
「そっ、そんな……?! バカな……?!」
うずくまったまま狼狽する利位を無視するかのように、利忠が掛け声をかける。
「次」
利忠の掛け声に、残りの門下生がうずくまっている利位の前まで来て、構えをとった。
「なにをしておるか。さっさと竹刀を拾ってこい。そして、構えよ」
有無を言わさぬといった父の口ぶりに、利位は仕方なくそれに従い、門下生の前に構えた。
構える利位の頭の中では、様々な疑念や思いが駆けめぐっていた。
いったい、さっきはなんだったんだ。あの者は、稽古の時に、ボクに一度も勝ったことがないはずだろう? それなのに、さっきのはいったい、なんだ? まるで、稽古の時には本気を出していなかったとでもいうような感じじゃないか。気をつかう? それは誰に気をつかっていた? 父上か? それとも――ボクへか?
浮かんでくる疑念を必死に振り払う利位。
そんなわけあるものか。さっきのは、ボクが油断していたからだ。それに、ボクは少々酒も飲んでいる。だから、反応が遅れただけにちがいない。そうさ!! そうに決まっている!! ならば、次はこちらから打って出ることにしよう。そうすれば、きっといつものように、ボクの一本勝ちとなるに決まっている!!
「では――はじめぃっ!!」
利忠の掛け声がかかると同時に、利位は吠えた。
「おおぉぉぉぉぉッ!!!!」
裂帛の気合と共に、門下生へと飛び掛かる利位。だが、門下生は涼しい顔して、利位の突進を、体の軸を変えることで軽くかわし、かわしたそばからまたしても抜き胴一本を利位に打ち込んだ。
「ぐ、うぅ?!」
両手の竹刀を手からこぼれおとす利位。見事なまでに間合いを読まれている。まるで、大人が子供に手ほどきをしてやっているかのような、圧倒的なまでの技量差であった。
「わかったか、利位よ。今までキサマは無敗であったと思っているのだろうが、それは周囲がワシや柳生家の威光に気をつかって、キサマを無敗にしてくれていたのだ。キサマの本当の実力は、今の立ち合いでキサマ自身がよく思い知ったはずだ。キサマの剣の腕は――二流でもいいところ、ひいては三流と評されても遜色のないものなのだ!!」
「そ……そんな……」
稲妻にその身を貫かれたような衝撃が、利位にはしった。次いで、ガラガラと、利位の誇りが瓦解していく音が、利位の耳にも、そして周囲の門下生や利忠の耳にも聞こえてくるような気がした。
ぺたんっ! と、その場にしりもちをついて茫然とする利位。大きく震えているその身は、いったい、どのような思いによって震えているのだろうか?
「よいか――今一度、言うぞ。もし、辻斬りの下手人と相対するようなことがあれば、すぐにその場から逃げ、この屋敷に戻ってくるのだぞ――よいなッ!!!!」
聞く者を畏怖させるほどの強烈な怒声が利位に投げかけられた。だが、利位はただ茫然としているばかりで、果たして、利忠の言葉が耳に入っているのか疑わしかったが、利忠はもうこれ以上は言うべき言葉はないといった風に、
「おまえたち。すまぬが、この大馬鹿者を夜回りの時間になるまで、ここで見張っておいてくれ。今さら臆病風に吹かれてもらっては、困るからな」
と言い捨て、さっさと道場から出ていってしまったのであった。
残された門下生、互いに顔を見合わせ、刹那、戸惑いの表情を見せたが、ここは御家の一大事、御館様の御心痛を察すれば、御館様の御意向に沿うべきよと、道場の入り口の前に阿吽の仁王像のように立ちふさがった。
利位は、ただ、茫然としていた。
今までの己の自信や誇りは、全てまやかしであったという。それはすべて、他人の気遣いや忖度によってつくられたものだという。
だが、ひょっとすると、利位は無意識のうちに、周囲が己に気をつかっていることを感じ取っていたのかもしれぬ。
だからこそ、心がねじまがり、虚栄に次ぐ虚栄を求めていたのかもしれぬ。そんな己を、父にとめてほしかったのかもしれぬ。
事実、利位は、父だけは心の底から尊敬していた。たしかに、父を利用しようともしたが、それは父をそれほどまでに信頼し、頼っていたからこそ利用しようとしたのだといえた。
そして利忠も、今のような切迫した状況にあっても、利位の身を案じてくれている。それはまた、利忠の利位に対する深い愛情の証左でもあった。
なぜ、こんなにも互いを認め合う父子の関係がねじ曲がってしまったのだろう。なぜ、互いを思い合っている家族の関係がねじ曲がってしまったのだろう。
その答えはわからない。だが、少なくとも周囲が利位に気をつかうようになってしまった原因はわかっている。
それは――柳生という家柄である。
武士は家柄によって立場ができる。武士は家柄によって生きていかなければならぬ。武士は家柄だけは絶対に守らなければならぬ。
柳生家の嫡男の剣の腕が三流であるなど、そのようなことが知れ渡ってしまえば、柳生の家柄と誇りが著しく傷つけられてしまうことは明白。
ゆえに、周囲はよかれと思って、利位の不敗伝説を築き上げてしまい、利位もそれにのっかっての放蕩三昧を繰り返してきたのだ。
実に皮肉な話である。家柄によって生きる武士が、家柄によって狂わされてしまったのだ。
そして――その家柄を守るために、利位は、今宵、夜回りをしなければならぬ。
皮肉な話だ。ああ。皮肉な話だ。
だが、いかに後悔しても、もう遅い。すでに、将軍様の手によって、サイは投げられている。あとは、進むしかない。戻ることはできぬ。戻る――それすなわち、振出しに戻る。振出しに戻る――柳生家は断絶、長きにわたって将軍家の剣術指南役として君臨してきた栄光も露と消える。
利位は茫然としていた。己の謀が引き起こした様々な影響の大きさに――利位は、ただ茫然とすることしかできなかった…………。
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