第二幕ノ十七ガ中 紅葉の旅立ち――紅葉の置き土産


 八重が松竹屋に来て、三日目の朝がきた。そしてその朝は、今までの朝とは違った雰囲気に満ち満ちた朝であった。

 いつもは戦場のような慌ただしさの土間兼台所が、今日に限ってし~~~~んと静まり返っている。そして、いつもは朝餉の準備に四方八方飛び回っている少女たちが、全員揃って土間兼台所に並んで立っていたのだ。

 その中には、八重や柚葉の姿もあり、さらには柚葉よりも年上の娘たちも二階の自分の部屋から降りてきて、少女たちに交じって並んで立っていたのであった。

 静まり返った雰囲気に、八重の脳裏に色んな思いがぐるぐると回りだす。

 どうして今日はこんな厳粛な雰囲気なんだろう? ひょっとして、わたしがまたなにか……あぁ?! そうだ!! そうに違いありません!! 昨夜の御客様とのやり取りで、きっと不手際があったに違いないんだ!! それで御店に昨夜の御客様が抗議を申し入れてきて、それで双葉さんが御怒りになられて、それでわたしにお仕置きをするためにこうやって皆さんで集まって…………!!

 あわわわわわわわ…………と、いつもの悪い方へのたくましい想像を働かせ、涙目になりながら小刻みに八重が震えはじめた時だった。


「八重さん――御姉様方が、降りていらっしゃいました――」


 柚葉が小さな声で八重へと耳打ちをしてきた。柚葉からそう言われ、八重が階段の方へと目をやると、大きな風呂敷包みを両手に持った紅葉あかねと、同じように両手に風呂敷包みを持った双葉が二階から降りてきた。

 紅葉が一階へと降り立つと、並んでいた少女たちが一斉に紅葉に向かって頭をさげた。

 この度は、おめでとうございますっ!!

 元気のよい快活な声が辺りに満ちる。八重は刹那キョトンとしていたが、自分だけが頭をあげていることに気づいて慌てて、お、おめでとうございますぅ! と皆と同じように頭をさげた。

 紅葉は軽快な足取りで、一同の中心へと行くと、すぅ~~~……と大きく息を吸い込んで、大声で一同へ向かって、


「あぁ~~~りがとぉ~~~~~~~!!!」


 と叫んだ。その表情は晴れ晴れとしていて、太陽のように眩しいばかりであった。そんな紅葉のそばに、双葉がゆっくりと歩み寄る。


「ついに、この日が来ましたね……」


 双葉は両手に持っていた風呂敷を置いて、紅葉の頭をなでながら、愛おしさと寂しさと誇らしさ……とにかく様々な感情が織り交ざった複雑な声で紅葉に語りかけた。それを皮切りに、一同は頭をあげはじめ、八重も一同にならって頭をあげた。


「はいっ!! それもこれも全て双葉御姉様のおかげですっ!!」


 紅葉らしい、天真爛漫な快活な笑顔と声で、双葉の想いに応える紅葉。そして一同の方へと、


「みんなぁ!! アタシはっ!! 今日っ!! この松竹屋からっ!! 出ていくことになりましたっ!! 今までっ!! ほんとうにっ!! ほんとうにっ!! ありがとうっ!!」


 一言一言を噛みしめるようにして、大きな声で言う。言葉の最後の方になると、紅葉の声には涙の気配がにじんできはじめていた。一同への言葉を言い終えると、紅葉は両手に持っていた風呂敷を置き、双葉の方へと身体を向け双葉に抱きつき、その豊満な胸元にその顔をうずめこんだ。


「御姉様……!! アタシを――あっ、アタシなんかを……人間にしてくれて……あ、りがとう、ございます……!! 御姉様のおかげで……アタシ……アタシ……!!」


 涙声を出しながら身体を震わす紅葉を、双葉は風呂敷を置いて優しく抱きしめた。


「まあまあ。今日は貴女の門出の日。そんな祝いの日を涙で濡らすは風流じゃありませんよ。それに、貴女は涙ではなく笑顔の似合う娘。さあ、いつもの笑顔を私に見せてください。そぉら、御顔をあげてごらんなさい……」


 胸の中にうずもれた紅葉の顔を、優しく両手で持ち上げてあげる双葉。露わになった紅葉の表情は、いつもの太陽のような笑顔ではなく、不安さと寂しさが織り交ざった表情となっていた。その瞳には、大粒の涙も浮かんでいた。


「ほら……涙はいけません……」


 双葉は紅葉のおでこに軽く口づけをし、紅葉の瞳から零れ落ちそうになっていた涙を指でぬぐってやった。そして紅葉の頬に両手を添え、


「さあ、笑って……貴女の笑顔を、私の瞳に焼きつけさせてちょうだいな……」


 双葉は自分のおでこを紅葉のおでこにコツンっとあて、世の全てのいかなる母親よりも母親らしい、優しい笑みを浮かべてみせた。

 そんな双葉の笑顔に応えようと、紅葉は必死に己を奮いたせようとつぶやいた。


「……そう、そうですね……笑わなきゃ……笑って、旅立たなきゃ……アタシらしくないっ……!!」


 そして双葉に向かって、いつもの輝かしいばかりの笑顔を見せる紅葉。双葉は紅葉の笑顔を見て、心からの安堵の息をもらした。うん、強い娘ね……。そして、紅葉のおでこから自分のおでこを離し、双葉はもう一度紅葉を抱きしめる。


「紅葉――幸せにおなり――貴女には、その権利があるのです――――貴女は、今日から誰にも後ろ指を指されることのない身分として生まれ変わるのです」

「はい……!!」


 双葉の言葉に力強く応え、紅葉はこれが双葉との最後の別れと、ひっしと抱きついた。そして、紅葉が双葉の身体から離れたちょうどその時、


「お迎えにあがりましたよ――――」


 老齢さを感じさせる穏やかな声が、松竹屋の入り口から響いてきた。一同が入り口に目をやると、そこには小綺麗な身なりをした初老の男が、声と同じような穏やかな表情で立っていた。


「お待ちしておりました、先生。さ、紅葉――――」


 双葉が紅葉に目で促した。さあ、貴女の門出です。先生のもとへ、御行きなさい――――。


「はいっ!!」


 はじけんばかりの笑顔で、元気いっぱいに言う紅葉。そして、置いていた風呂敷包みを両手に持ち、初老の男のそばへと駆け寄っていった。

 紅葉がそばにきたところで、初老の男が双葉へと声をかける。


「双葉殿、この度は――――」


 初老の男が言い終える前に、双葉が初老の男の言葉に声を重ねた。


「先生――この段に至っては、言葉は不要ですわ。私も紅葉も、先生のことを信じております」


 そして、深々と初老の男にお辞儀をする双葉。一同も双葉にならい、初老の男にお辞儀をした。初老の男、それを見て小さくうなずき、紅葉に優しく声をかけた。


「もう、いいのかね――?」


 紅葉は刹那うつむきかけたが、すぐに顔をあげて顔をぶるぶるっ! と震わせて、自分の頬を両手でパチーーン!! と叩き、初老の男に笑顔を向けた。


「はいっ!! もう、大丈夫ですっ!!」


 それは、本当にまばゆいばかりの笑顔であった。秋の山一面に広がる紅葉を、紅く光り輝かせる太陽のような笑顔であった。紅葉のその笑顔をみて、初老の男は深くうなずき、紅葉に言った。


「では――行こうか」

「――はいっ!!」


 力づよく初老の男の言葉に答え、紅葉は初老の男に手を引かれ、振り向くことなく松竹屋から出ていくのであった。

 紅葉の背を見送る一同。その胸中は、様々なものであったが、紅葉のこれからの人生に幸あらんという願いだけは一致していた。

 やがて、小さな禿かむろの幼女たちから、すすり泣きが起き始めると、双葉が手を叩いて一同に言った。


「さあ、今日は紅葉の門出を皆でお祝いいたしましょう。いつものように、今日は御店を御休みといたします。今日の夜は、皆で集まって紅葉の思い出話をしながらお食事をいたしましょう。そのためにも、まずは朝餉の用意からはじめましょうね」


 双葉の言葉に、はぁ~~いっ!! と一同が快活な声で応えてみせる。まあ一部、ふぁ、ふぁ~いと気の抜けた返事も混じってはいたが。

 それぞれがそれぞれの朝の持ち場に戻ろうとすると、


「新造以上の娘たちには、紅葉からの置き土産がございます。名前を呼んでいきますから、名前を呼ばれたら私のところに来てくださいね」


 そう言いながら、双葉が地面に置いていた風呂敷包みをほどくと、風呂敷包みの中からいくつもの巻物が現れた。その中の一つを手に取り、双葉が新造の娘の名前を呼び始めると、名前を呼ばれた娘が双葉のそばへと歩み寄っていった。

 その光景を、今までの流れがまったく理解できていない八重が、頭の上にクエスチョンマークを浮かべながらほへぇ~~っと見つめていた。そんな八重の様子に気づいた柚葉が、八重の袖をくいっくいっと引く。


「紅葉御姉様は、本日をもって、先ほどの男性の方に身請けをなされたのです」

「ふぇ……? み、身請け……?」


 聞いたことのない単語を聞き、頭の上のクエスチョンマークがさらに増えてしまう八重。


「えっと、身請けというのはですね…………」


 うぅ~ん……なんて言えば誤解のないように伝えられるかなぁと頭を悩ます柚葉だが、


「身請けというのは、この松竹屋の娘を御金で買ってもらうことです」


 いつの間にか二人のそばに来ていた双葉のストレートな物言いが、柚葉の気遣いを粉砕した。

 ひゃっ!? と見事にシンクロして飛び上がって驚く二人。双葉はそんな二人に優しい笑みを浮かべながら言葉をつづけた。


「事実は事実ですから、どのような綺麗事を並べ立てても、身請けが人売りであることには変わりありません」

「か、かもしれませんが……」


 珍しく柚葉が双葉の言うことに反論しようとしたが、双葉が言葉を続けてそれを阻んだ。


「ですが、松竹屋の身請けは、一般的な吉原の妓楼ぎろうのそれとは違うものだと、私は自負しております。八重さん――――」


 突如として話をふられて、ひゃっ?! ひゃいっ!! と思わず声が裏返ってしまう八重。


「八重さんから見て、今日の紅葉は不幸せそうでしたか?」

「ふぇ……?」


 思いもよらぬ質問であった。紅葉さんが不幸せそうだったか……ううん、紅葉さんは、とても輝いてた。何て言えばいいのかな。うまく言葉じゃ言い表せないけど――――ただ、すごく、幸せそうに見えた。


「い、いえ……」


 八重の答えに、双葉はニッコリと柔和な笑みを浮かべて言った。


「八重さんがそう感じてくださったのならば、私も本望でございます。今は御時間がありませんゆえ、身請けに関してはまた御時間のある時にでも――さて、御二人にも紅葉からの置き土産がございます」


 そう言って、双葉は柚葉と八重に巻物を一つずつ差し出した。


「紅葉からの置き土産です。その巻物の中には、御二人を象徴する言葉が紅葉によって書かれています。どうぞ、あらためてみてください」

「しょ、象徴……ですかぁ……?」


 どういう意味だろうと小首をかしげる八重に、柚葉が説明をいれてくれた。


「紅葉御姉様は、書の道の造詣が深い御方でして、人物の特徴を文字にしたためるのが得意な御方でした。今日、紅葉御姉様を御身請けなされた御方も、書の達人であらせられるそうですよ」

「そ、そうなんですかぁ」


 ほぇ~と驚いているのか感心しているのかよくわからない表情になる八重。ふふっ、と双葉は紅葉との日々を懐かしむような趣深い息を漏らし、さあ、巻物を広げてごらんなさいと二人に促した。

 双葉の促しに従い、巻物をしゅるしゅるしゅるしゅると広げてみる柚葉。するとそこには、


清楚佳麗せいそかれい


 と、流麗なタッチでありながら、生き生きとした力強さで書かれてあった。


「まあ、柚葉にぴったりの文字ですね。さすがは紅葉、人の観察が御上手ですこと」

「そ、そうなれているといいのですが…………」


 てへへ……と頬を赤らめながら照れる柚葉の後ろから、八重が巻物の文字を見て、


「すっ……すごい達筆な文字ですぅ……」


 圧倒されたかのように、ため息交じりの声をあげた。失礼な話ではあるが、とてもじゃないが、こんなすさまじい書をあのようなあっけらかんとした少女が書いたとは到底思えなかったからだ。そんな八重の心情を察したか、双葉が微笑をうかべながら八重に、


「人は、見かけでは判断できぬものですよ」


 と諭すような口調で言った。それを聞いて八重が、はっ、はいぃ~……、としゅぅ~んとなったところで双葉は、


「ところで、御楼主様が朝餉が終わり次第、柚葉と八重さんに松田屋の前まで来るようにと仰っておいででしたよ」

「松田屋様の前……でございますか?」

「ええ。きっと大事な用があるのでしょう。必ず二人で来るようにと念押しをしておいででしたので」


 御楼主様が……なんだろう……。と不安そうな顔をする柚葉。あら怯えさせてしまいましたかと、場を和ませむべく双葉は八重に、


「そういえば、八重さんの巻物には何と書かれてあるのでしょう?」

「あっ…………」


 顔を見合わせる八重と柚葉。


「八重さん、見てみましょうよ」

「は、はいぃ~」


 しゅるしゅるしゅるしゅると巻物を広げてみる八重。すると、巻物には巻物からはみ出そうなほどの力強いタッチで、


『爆乳』


 とデカデカと書かれてあった。


「あ……あうぅ~……」


 頬を真っ赤にしてうつむく八重。何かフォローを入れてあげなきゃと柚葉はなんとか声をかけようとするが、あまりにもすとんと落ちる紅葉の置き土産に柚葉も頬を赤らめてしまうばかり。

 すると双葉がうつむく八重の肩に手を置き、ニッコリと何も言わずに八重に向かって微笑んだ。そして、巻物をくるくると丸めて八重に手渡し、何事もなかったかのように、


「では、朝餉の準備にとりかかりましょう。その後、御二人は御楼主様の御言いつけ通り、松田屋の前へとおもむきください」


 すたすたと二階へと上がっていってしまった。取り残された二人は、なんともいえぬ微妙な空気になりながらも、とりあえず御勤めは果たさなければと柚葉が八重に言った。


「え、ええっと……や、八重さん、それじゃあ、朝餉の準備にとりかかりましょうか」

「はっ……はいぃ~…………」


 そして二人は紅葉の置き土産を懐にいれ、朝餉の準備へととりかかるのであった。

 だが、数分の後、八重が辺りをキョロキョロ見渡しながら、先ほど懐に入れた巻物を懐から取り出した。懐だと巻物が邪魔で包丁さばきが危うくなってしまうのだ。

 懐から巻物を取り出したところで、とててててっ、と人のいない隅の方へと移動する八重。そして、もう一度辺りを見渡し、やがて意を決したように襦袢をぐいっと伸ばし、自分の胸の谷間に巻物をずぼっ! と突っ込み、まな板の前へと戻ってきた。

 よかった、誰にも見られていなかったようですぅ……安堵感と動きやすさから、見違えるような軽快な包丁さばきを見せる八重。

 しかし、八重は気づいていなかった。横で柚葉が、頬を赤らめて八重の胸元に驚嘆の眼差しを向けていたことに。……挟めるんだ。

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