第二幕ノ十六ガ下 初めてのお客様――御高尚なひととき
「いや、さすがは双葉太夫――この歌の真意をわかってくれるとは、私もここに来たかいがあるというものです」
「そう仰っていただけると、私もうれしゅうございます」
うふふっ、と双葉が品の良い艶やかな微笑みを浮かべれば、それにつられて学者風の身なりをした中年の男も品よく笑みを浮かべてみせた。
「ところで先生、本日は御食事や御酒のほうはいかがなさいますか?」
「そうですねぇ――いや、本日はやめておきましょう。本日は、双葉太夫の他にも、この部屋には初々しいお顔がございます。初対面の方と、御酒や御食事をしながらの御話というのは、無粋なものです」
「ふふっ、かしこまりました」
双葉は三つ指をつき、男へ向かって深々とお辞儀をした。そして、双葉の横にて控えていた柚葉と八重に、さあ、こちらへいらっしゃいと目配せをする。柚葉も八重も、お客との御座敷ということで、それなりの着物を身につけていた。
双葉の目配せを受け、柚葉は大きく深呼吸をしてみせた。
ついに……私も御座敷を……頑張らなきゃっ!
決意に満ちた表情を浮かべる柚葉を見て、八重にも柚葉の緊張が伝わって、元々緊張していたところにさらに緊張が上乗せされた形になってしまった。そのせいで八重は、あわわわわ……と今にも泣きだしそうになってしまっていた。
すると、そんな八重の様子を察した双葉が、男に、少々失礼いたします、と会釈をして、しとやかに立ち上がる。そして、双葉は洗練された見事なすり足で八重と柚葉の元へと歩み寄った。
「さあ――私の手をおとりなさい」
柚葉と八重に向かって、絹のような白く繊細な両手を差し出す。柚葉はすぐに双葉の意図を察したようで、小さくうなずき双葉の手をとった。そして八重にも、さあ、八重さん、と双葉の手を取ることを促した。
恐る恐る、双葉の手をとる八重。柚葉と八重が双葉の手をとったところで、双葉が二人に微笑んだ。
「さあ――お立ちなさい」
双葉の促しに、まずは柚葉がしとやかに立ち上がる。次いで八重も、がくがくと膝を震わせながら危なっかしく立ち上がった。
「ふふっ――あまり、緊張をしてはいけませんよ」
双葉はそう言うが、八重にはそれは無理な話である。人見知りの赤面症が、初対面の異性の人と、いきなり一緒に親しく話しましょうなんて言われて、緊張しないはずなどない。
八重は双葉に、は……はいぃ~……と引きつった笑みを浮かべた。これがせめてもの精一杯ですぅと言わんばかりに。
すると、八重の様子を見ていた男が、思わぬ助け舟を出してくれた。
「おやおや、双葉太夫。そこの娘さんの一人は、御人前に出られるのが苦手なご様子。無理強いはいけません」
この言葉に、双葉はくるりと振り向き、男に向かってはんなりと頭をさげた。
「さすがは先生。素晴らしい
「いえいえ、お気になさらず。聴衆は多いほど、私としても嬉しいものです。それに、双葉太夫が仰るように、私の御話がそこの娘さん――御名前は、何と申されるのでしょうかな?」
「あら、私としたことが、先生に対して、なんと礼儀知らずなことを娘たちに御教えしてしまったことでしょう。ほら、二人とも、先生に御挨拶を」
双葉から促され、まずは柚葉が座りなおして男に対してキチンと威儀を正し、三つ指をついて真っすぐに男の瞳を見据えて言った。
「御客様に失礼の段、どうか御許しを――私、この松竹屋にて明日から御座敷をさせていただく運びと相成りました、柚葉と申します。どうぞ、何卒よろしくお願い申し上げます」
深々と頭を下げる柚葉。立ったままそれを見つめていた八重のうなじを、双葉がつんっと指で押した。
さあ、次は八重さんの番ですよ。双葉の微笑みに、その意図を察した八重は、慌ててちょこんっと座り込み、男へ挨拶をしようとした――その刹那、
「あら、それはいけません」
双葉が八重へと身をかがませ、八重に微笑みかける。そして、八重の前髪へと手をかけ、八重の前髪をさっ! とかきあげた。
「ひゃっ?!」
驚く八重を意に介さず、双葉はパックリと開いた己の巨大な胸の谷間に手をつっこみ、そこから淡い紅色の紐を取り出して八重の大きなくりっとした瞳が見えるように八重の髪を紐で結んで固定した。
「言いきかせていたでしょう? 人と御話をする際には、お互いに目を合わせるようにと」
ニッコリと、いささか意地の悪そうな含みをもたせた笑みを浮かべる双葉に、あ、あうぅ……と頬を紅く染めてたじろぐ八重。
「ほうほう。なるほど、なるほど。うん、双葉太夫の仰ることは、一々ごもっとも。その娘さんに見所があるということも、人と人は目を見て御話をするということも」
優しい微笑みを浮かべる男。さあ、八重さん、御挨拶を。双葉が無言でうなずいて、八重を促す。もうこうなったら、腹をくくるしかない。八重はなんとか自分を奮い立たせ、清水の舞台から飛び降りるつもりで、男の穏やかな瞳に向かって挨拶をはじめた。
「あっ、あのっ……わっ、わたし……やっ、やや八重と……申しましゅぅ……」
惜しい。八重にしては上出来だと言いたいところだが、最後の最後に噛んでしまった。
あうぅ……やっぱり、わたし、ダメな子ですぅ……。八重は顔を真っ赤にして、しなしなとしおれるように男に向かってお辞儀をした。そんな八重を見て、双葉が品の良い笑い声をあげると、それに追従して男も品よく笑い、柚葉もクスクスと控えめな笑い声をあげた。
ふぇ……? と怪訝な表情で小首をかしげる八重に、男が優しい口調で語りかけた。
「八重さん。貴女は、とても素晴らしい空気をお持ちでいらっしゃる。周囲の人々を穏やかにする、素晴らしい空気です。空気というものは、本人が意図して出すことはできぬ、才能であり天からの贈り物。どうか、貴女がお持ちのその空気を、これからも大事にしてあげてください」
「ふぇ……? あ……はっ、はいぃ~……」
よくわからないけど、きっと、そ、その、わたしのことを褒めてくれてる……の、かなぁ……? 釈然としないが、なにはともあれ素直に頭をさげる八重。
「うん、うん。双葉太夫、どうでしょう。そこのお二方にこちらへ足を運んでもらうのではなく、私がお二方の元へと足を運ぶというのは?」
「まあ、なんというありがたき御申し出でしょう。しかし、先生をおもてなしする立場の私たちが、先生にお気をつかわせるわけにもいきません――――」
「いえいえ、私は気をつかっているのではありません。私は純粋にそうしたいと思っているのですよ。ですから、私からそちらに行かせていただけませんかな?」
「先生が、そう仰られるのなら」
双葉はしとやかに座り、男に向かって三つ指ついて深く頭をさげる。男は、それでは、それでは、と双葉たちの元へと歩み寄り、柚葉と八重の二人と向かい合うようにして座り込んだ。
「さて、さて。御話をいたしましょう。私の好きな御話で申し訳ありませんが、ね」
「はい、私などでよろしければ――」
三つ指ついてお辞儀をする柚葉。それを見て八重も慌てて追従した。
「ふむ。八重さんはまだ日が御浅いそうなのですが、柚葉さんは明日にも御座敷をひらくとのこと。柚葉さんは、いかな御話がお得意なのですかな?」
顔をあげながら答える柚葉。
「はい――詩歌を少々たしなんでおります」
「ほう。それはそれは、嬉しいことです。私も詩歌が専門でございましてな。時に柚葉さん、今の季節はいかに?」
季節ですかぁ? 今は夏ですよぉ? 変なことをお聞きになる人ですぅと、小首をかしげつつ下げていた顔をあげる八重。
「今の季節は――秋は
「ふぇ? あ、秋……ですかぁ?」
思わぬ柚葉の言葉に、くりっとした瞳を丸くして八重が声をあげる。それに男と双葉が微笑みを向け、男は柚葉に問いを続けた。
「ふむ、ふむ。よくお勉強をなされておいでだ。では、貴女の思う、立秋を感じさせる歌はいかに?」
目をつぶり、小さく深呼吸をする柚葉。やがて、ゆっくりと目を開き、流れるような口調で歌をそらんじた。
「同じ枝を わきて木の葉の うつろふは 西こそ秋の はじめなりけれ」
柚葉の歌に、室内の人々は三者三様の反応をして見せた。双葉は満足そうにうなずき、男はほぉ……と感心したような声をあげ、八重はなんのことでしょぉ? と疑問符を頭にぴょこんっと浮かべていた。
「いやはや……これは驚いた。古今和歌集の
ありがとうございますと、三つ指をついてお辞儀をする柚葉の横で、……? 疑問符とお友達になりつつある八重。それを見て、男は微笑みを浮かべながら八重に言った。
「今の柚葉さんがおっしゃったのは、平安時代の天皇であらせられる
ふぇ、ふぇ~……。八重はただ感心するだけしかできなかった。淀みなく説明をする男にも、そして柚葉の博識さにも。まさに、知識人同士の御高尚な会話といえた。
「いやぁ、実に愉快な座です。詩歌を解する若い人と、それを素直に感心してくれる若い人――それも、お二方とも実に愛らしい方となれば、これほどまでに愉快で素晴らしい時間はございません。このような場を設けていただいた双葉太夫に、御礼を申し上げねばなりませんね」
双葉に向かって男が深々と頭を下げると、双葉はくすりと艶やかな笑みを浮かべて男に言った。
「まあ、イヤですわ先生ったら。私が若くないとはいえ、若い人若い人とお喜びになられるなんて」
「あ、ああ、い、いや、そういうわけではありません。いやはや、弱りましたな……」
苦笑する男を皮切りに、室内は、美女と美少女の笑いで満ちた。ただ、八重だけは、え……えへ……えへへへ……といった引きつった笑みではあったが。
まあともかく、どうやら柚葉の初めてのお客への接客は上々の出来ですねと、双葉は笑みの中に安堵の思いを浮かべるのであった。
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