36.リベジェス家の名鑑から消えた令嬢

 記憶をなくした私は、新しく貴族名鑑を覚え直した。私が王太子の婚約者に選ばれたのは、年齢が釣り合う「唯一」の公爵令嬢だからよ。他には、五歳になる令嬢が一人いるだけ。


 執務室の扉が閉まり、部屋の中を歩くお父様の背中に話しかけた。無作法なのは承知で、座る前に言葉がまろびでる。


「お父様、リベジェス公爵家に適齢のご令嬢はおられませんわ」


「座りなさい。アリーチェは覚えていないだろうが、リベジェス家にも令嬢はのだ」


 過去形……? 首を傾げながら、お父様がぽんと叩いた隣に座った。指示を受けたカミロが貴族名鑑を二冊差し出す。三年に一度更新される名鑑の、最新版と六年前の二冊だった。年号を確認して、首を傾げる。


「アリーチェが読んだのは最新のこちらだ」


 お父様の指が開いた頁は、リベジェス公爵家が記されている。公爵と公爵夫人、跡取りの長男、五歳の令嬢。私の記憶した通りだわ。頷いたのを確認し、カミロが開いた六年前が上に置かれた。


「リベジェス家の長女?」


 五歳の令嬢の欄が次女と記され、その前に長女がいる。当時十三歳の嫡男より二歳上だった。十五歳で名鑑から名前が消えたのに、二十一歳で実家にいるのはなぜ?


「彼女は砂漠の国の王に見初められ、側妃として嫁いだ。その時の花婿は五十歳近く。己の父親より歳上の男だ」


 言外に「俺なら断る」と匂わせたお父様は、公爵令嬢の名を指で示した。


「カサンドラ、彼女は野心家だった。年老いた国王を傀儡に、砂漠の国を支配しようと目論んだ。察した王太子殿が王位譲渡を早めたのだ」


 かいつまんだ話を聞きながら、用意された珈琲に口をつける。お母様の実家である隣国ロベルディより、さらに遠い砂漠の国。想像も出来ないわ。


 単身で乗り込み、国を傾けようとした毒婦に新王は優しくなかった。当然の結果だわ。老いた父王の嘆願を振り切り、新しい王は灼熱の砂漠へ彼女を捨てた。砂漠で育っていないカサンドラが死ぬことを願って。お父様の話では、それは砂漠の民の裁き方なのだという。


 罪人をそれぞれの罪と能力に応じた仕置きをした後で、砂漠に捨てる。生き残ったなら、それは砂漠の神に許された証として無罪放免。死ねば、神が裁いたとして受け入れる。生存しやすい砂漠の民なら水無しで、足首を切り落として捨てるらしい。


 カサンドラは別の国から来たばかり、また王への関与も未遂と軽かったため、水の袋をひとつ与えて放逐された。気の毒に思った元国王が密かに手を回し、砂漠から救い出して我が国まで送り届けたのだ。


「余計なことをしてくれたものだ」


 父の深い怒りが滲んだ声に、王太子の言動はカサンドラが絡んでいる可能性が高いと気づいた。唆された……要はそういうことよね。王太子なのだから、大人しくしていたら何もしなくても王位が転がり込んだのに。


 体で落とされたのか、それとも他の餌をぶら下げられたのか。戻ってきたカサンドラは、もう未婚ではない。令嬢として名を載せるわけにいかず、また他国へ嫁いだ際に籍も抜けていた。


「砂漠の国に到着してすぐ婚礼をあげ、初夜を済ませた彼女はもはや公爵令嬢ではない。この国では未亡人も同然だ。そのため名鑑に名が載らない」


 すとんと腑に落ちた。名鑑に載らない貴族が、何かを仕出かしても実家は影響を受けにくいのだ。知らなかったの言い訳が通用する。だから彼女を利用した? いいえ、逆に彼女が実家を利用したのかも。


「厄介なことになった」


 唸った父から、しばらくは自室で過ごすよう提案された。貴族派の大物が出入りする。顔を合わせると面倒だからな。そう苦笑いする父の気遣いに頷き、私は執務室から図書室へ向かった。閉じこもる間に読む本を物色するために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る