109.お母様の白い日記帳

 サーラが旅立つ姿は見送らなかった。私は主人で、彼女は使用人だ。涙ながらに見送るほど長く離れる許可は与えていない。ならばお遣いを頼んだくらいの感覚で、行ってらっしゃいと短く挨拶を交わした。


 彼女がいなくても、身の回りの世話をする侍女はいる。お茶を淹れて運ぶ子も、部屋を掃除したり朝起こしに来たりする侍女も。サーラがいなくても流れる日常が、どこかぎこちなく感じられた。それでも必要な措置なのだと己に言い聞かせる。


 これはサーラへの罰であり、今後の為の一手だ。同時に私への罰でもある。心の中に巣食う弱さで、誰かを罪人にしないために。顔を上げて微笑み、受け流す強さを持つための試練だった。私が気になるようで、朝からお父様とお兄様が交互に顔を見せる。やれ仕事が一段落しただの、鍛錬の合間だの。過保護すぎるわ。


「アリーチェ、日記を読むのか?」


「はい」


 顔を見せたクラリーチェ様は、出立の支度をするフェルナン卿に部屋を追い出されていた。というのも、伯母様は片付けが苦手らしい。持ってきた荷物を手際よくまとめる侍女の隣で、逆に散らかしてしまうのだとか。呆れたフェルナン卿に大人しくしているよう言われた、と苦笑いを浮かべた。


 何でも出来そうな人で、ロベルディほどの大国の女王を務める方が……片付けが出来ない。普段は侍女や周囲の者が動いてくれるので、片付け方を覚える必要もなかったのだろう。完璧な人と思った伯母に欠点があると知り、ほっとした。私は欠点ばかりだけれど、クラリーチェ様との距離が縮まった気がする。


「一緒にいたいんだが」


 迷いながら切り出され、くすっと笑った。一緒に読むぞと宣言すればいいのに、変なところで遠慮する。クラリーチェ様の意外な一面に、私はいいことを思いついた。


「それなら、こちらをお読みになってはいかがでしょう。お母様の日記です。この一冊だけ、私が保管していました」


 白い表紙に金の装飾が施された豪華な一冊、まだ読んでいない。お母様の持ち物なら、伯母様が目を通してもいいと思う。こんなにお母様を大切に思ってくれる人なんだもの。差し出した表紙をじっくり見つめ、クラリーチェ様はぽつりと呟いた。


「持っていてくれたんだな」


 嫁ぐお母様へ、伯母様が贈った日記帳だった。豪華な装飾を施し、三年分は記録できそうな厚さの物を用意したらしい。これが書き終わる頃には、妹が幸せになっているだろうと願って。その話を聞いて、私は青い表紙の日記をトランクに仕舞った。


「一緒に読みましょう」


「ああ」


 クラリーチェ様は整えられた爪先で、そっと表紙を捲る。一枚ずつ、伯母様の手元を覗き込む私はその内容に引き込まれた。流れるような美しい文字で綴られた日記は、不安から始まる。


 赤い目を不吉だと言った王族が治める国で、幸せになれるだろうか。貴族からも差別され、社交が出来なかったらどうしよう。そんな妻では、夫マウリシオに迷惑をかけるのでは? 後ろ向きな文章が変化したのは、ある侯爵夫人との出会いだった。


 エリサリデ侯爵夫人――社交界で王妃様以上の発言権を持つ。離宮でも私を助けてくれた、あの方が……お母様を受け入れた。美しい髪色と瞳だと褒め、お茶会に誘い、夜会でも寄り添って居場所を作った。感謝が丁寧に書かれ、夫婦仲の良好さも一緒に記されている。


 王族と顔を合わせる機会を極力減らしたお父様の努力に感謝する文章を書いた日、最後に記されていたのは妊娠の兆し。希望が生まれると追記された翌日の文字に、涙が滲んだ。お母様は私の誕生を望んでいた。それを知れたことが、今日一番の収穫ね。

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