110.こんなに愛されていた

「この頃はよく手紙が届いた」


 懐かしむように、クラリーチェ様は日記の文字を指先でなぞった。初めての妊娠、体調不良、苛立つ感情……持て余す己の変化が綴られている。


 同時に、実家であるロベルディ王家へ手紙を送った記述が登場した。吐き気がすると書いてしまったけれど、心配させないだろうか。お父様が飛んできたらどうしよう。あながち見当違いでもない不安が並ぶ。くすっと笑ったクラリーチェ様が教えてくれた。


「手紙に子を宿したと書いてあるのに、勘違いした父上がフェリノスへ乗り込もうとした。本当に懐かしい」


 隣国フェリノスで体調不良になり、不安から助けを求めたと読み取ったらしい。お祖父様らしいエピソードだ。きっと半分くらい流し読みして、勘違いしたのね。想像できてしまった。


「私やルクレツィアが説得して、ようやく押し留めたんだが」


 その後も騒ぎが大きかった。そう続ける伯母様は、天井へ視線を向ける。細められた眦に、少し皺が現れた。


 読み進めたページを捲る。ここには涙の跡があった。階段で転び、お腹を打ったと書いてある。もし赤ちゃんに何かあったら……そう綴る文字は震えていた。涙のシミを指先で撫でる。こんなに心配され愛されて生まれたことに、今更ながら感謝が胸を満たした。


 妊娠初期の不安定な時期を過ぎると、お母様の日記は淡々と予定だけが記されるようになった。感情の読み取れない表記が続く。少し読み飛ばした私達は、ある文章に手を止めた。


「生まれた日か」


 毎日何を食べて何をして過ごしたか。そんな箇条書きの文章が止まり、激しく乱れた文字が並ぶ。感情を抑えきれず爆発した感じで、喜びと心配と興奮が伝わった。母になる覚悟ができていないと嘆き、母乳を与えたら飲んでくれたと喜ぶ。感情の振れ幅が大きく、文字も感情と一緒に変化した。


「私達への手紙は、もっと淡々としていたぞ」


 今も保管している手紙は、美しい字が並んでいた。クラリーチェ様はそう呟いて、くすっと笑った。その眦に光るものを見たが、私は指摘しない。抱っこの仕方を覚え、初の入浴を体験し、夜泣きに困り果てた。母の精一杯の子育てが記されている。


 日記はそこから数日で終わっていた。おそらく次の日記へ引き継がれたのだろう。分厚い日記を夢中になって読むうちに、窓の外の日差しは傾いていた。


「クラリーチェ様、大変です」


「ああ、昼食を食べ損ねたな」


「おやつも、ですわ」


 しんみりした空気を笑い飛ばすように、明るい口調で嘆いてみせる。部屋のベルを鳴らし、食事の用意を頼んだ。夕飯をお祖父様達とご一緒するなら、少なめでいい。それも伝えた。


「妊娠も出産も、あの子は立派にやってのけた。頼る家族のいない異国で、だ」


「お父様はおりました」


「ああ。だがおろおろして役に立たなかった、と書いてあっただろう?」


 くすっと笑うクラリーチェ様は、椅子の背もたれに体を預ける。いつもキリッとした態度や美しい姿勢を保つ伯母様らしくないけれど、この姿を見せてもらえた信頼が嬉しい。寄り添うように肩に頭を寄せた。


 私の銀髪を撫でるクラリーチェ様は、さてと声を掛けて身を起こす。


「よく晴れた星降る夜に生まれた姫君、一緒に食事はいかがか?」


「ご一緒させていただきますわ」


 戯けた言い回しと共に、すっと手が差し出された。その手に指先を重ねる。お母様が大切に育み送り出してくれた命、恥じないように生きます。決意を胸に私は微笑みを浮かべた。

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