111.諦めた対価としての知識

 この日から三日間、ひたすらに日記を読み込んだ。時系列を正しく理解するため、古い日記帳から開く。数ヶ月分読むと、王家に嫁ぐ婚約が決まった日が現れた。


 正直な心境が記されている。愛情なんて当然ない。公爵令嬢の義務として婚約し、未来の王妃になるための勉強が始まる。己の未来を他人事のように淡々と受け止める文章だった。


 翌日から、厳しい王妃教育が始まるものの……ほとんどは免除となる。礼儀作法、他国語、歴史、貴族名鑑の暗記。すべて私が修了した科目ばかりだ。王家に雇われた教師は、こぞって私を褒め称えた。これが確執の始まりだ。


 自分の努力の足りなさを、私への嫉妬の形で示した王子フリアンは、顔合わせから逃げ回った。構わないと放置したのは私だ。王妃の役目である子作りでさえ、側妃を得ればいいと割り切った言葉で記されていた。きっと歴史書から学んだのだろう。


「可愛げのない子どもだわ」


 まだ十二歳の子が、こんな考え方をするなんて。自分のことながら、呆れてしまう。算術や領主が学ぶ経営学、他国の歴史書も目を通した。植物や動物の図鑑、薬草の知識、帝王学に至るまで。学べる知識を貪欲に取り入れる。


 日記に書かれた授業内容を見て、気づいたことがある。この頃の私は、自分を高める勉強に興味はなかった。勉強の大半は、王妃教育に必要がないものばかり。おそらく、この国の王妃として縛り付けられる未来に反発したのだろう。


 自由に生きたいと願い、それが叶わないことを知っていた。だから冒険譚や神話まで読み漁ったのではないか。読んだ本のリストを指でなぞる。巷で人気の恋愛小説を、侍女に入手させている。フロレンティーノ公爵家の書庫に並ぶ本ではない。


 疑似恋愛を楽しんだのかしら。とても面白かった、と締め括られた文字を指で追う。ある意味、この日記は一人の少女の成長物語だ。欲しいものへ手を伸ばす努力を諦め、代わりに貪欲に知識を求めた。


 お父様やお兄様に関する記述が少ない。きっと距離があったのだ。結婚して公爵家を継ぐ予定だった義兄は、この頃失意の底にあったはず。王家を支える父の仕事量は多く、兄とのぎこちなさを誤魔化すように働いた。この屋敷に戻る時間を減らすために。


 容易に想像がついた。我が公爵家は崩壊寸前だったのね。それでも私が中心にいた。いい意味でも悪い意味でも、私がいるから持ち堪えていたの。その核を王家が壊そうとすれば……二人が必死に噛み付いたのも理解できる。


 読み終えた二冊目を閉じて、トランクへ片付けた。このトランクの管理は、本来サーラの仕事だ。彼女が修道院へ旅立って四日目、まだ帰るはずがない。それなのに、彼女がいればと考える。お茶を頼もうとして顔を上げた瞬間も、寝る前のちょっとした時間も。


「寂しいなんて、言えないわ」


 明日のために、今日は早くベッドに入らなくてはならない。クラリーチェ様とフェルナン卿が、ロベルディへ帰る日だった。見送りに立つ私が、眠いなんて口に出来ない。


「アリーチェ、もう眠ったか?」


 小さなノックと聞き慣れた伯母様の声。侍女を下げた部屋で、私は自ら扉を開いた。両側で姿勢を正して立つ騎士に会釈し、クラリーチェ様を招く。


「どうなさったのですか?」


「いや、一緒に寝たら邪魔だろうか」


「っ、私からお誘いするべきでした」


 やや頬を染めたクラリーチェ様と、大きなベッドに並んで横たわる。どちらからともなく、向かい合って互いの手を握った。


「ロベルディ王家も民も、いつでもそなたと共にある」


「私の心も、常に祖国に寄り添うでしょう」


 私の祖国はフェリノスではない。ロベルディだ、そう告げる声に、伯母様は泣きそうな顔で頷いた。

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