94.己を守るために心を閉ざした

 使用されていなかった客間の一つに入り、フェルナン卿が扉を閉める。室内には六人しかいない。私、お祖父様とクラリーチェ様、お父様、侍女サーラとフェルナン卿だ。サーラは壁際に控え、フェルナン卿が扉を背に立った。


 貴族派の方々も休憩に入るのだろう。あの場にいて、休憩不要と言い切る強靭な人はいないと思う。クラリーチェ様はさっさとソファに陣取り、お父様は迷って末席に腰を下ろした。本来、そこは私が座るべきでは?


「アリーはここだ」


 クラリーチェ様と向かい合う二人掛けのソファで、お祖父様が呼んだ。並んで座りたいのだろうと素直に従う。


「そこのお嬢さん、お茶の支度を頼めるか?」


 国王という至高の地位にあった人とは思えぬ口調で、お祖父様はサーラにお茶の支度を伝える。一礼した彼女が部屋を出た途端、お祖父様の表情が変わった。


「アリー、何があった? 以前とは全く違う」


 びくりと肩が揺れる。こちらが切り出す前にバレてしまうなんて。ごくりと喉を鳴らし、下唇を舐めた。緊張を和らげ、何から話すか考える時間を稼ぐ。しかし、お祖父様の方が上手うわてだった。


「マウリシオ」


 お父様の名前を呼ぶ。私に向けた声や表情が嘘のよう。厳しく冷たい表情と、問いただす声の鋭さに背筋が伸びた。それはお父様も同じだったらしい。敬礼する騎士のような、強張った表情でお祖父様を見つめ返した。


「アリーチェは記憶を失っております。毒殺未遂の後遺症ではないかと」


「違うな。この子は己を守るために心を閉ざしたのだ。そうでなければ、わしを正面から見れまい」


 不思議な言葉遣いに、一瞬気持ちが緩んだ。見れまい……見られないだろう、と聞き取っていいのかしら。これすら計算なら怖い人だわ。戦場を駆ける征服王のイメージとは、かなり違った。


「私の記憶がないこと……ご存知なのですね」


「ああ、見間違えるはずがない。アリーはいつも、わしの前で左側の髪を弄る。結い上げたなら分かるが、いつもの癖がなかったのでな」


 観察して気づいた。あっさりと肯定される。国の頂点に立った経験者の凄さを、お祖父様はさらりと披露した。八年前に会ったきりの孫娘の一挙一動まで覚え、判断基準とする。癖が消えただけなのか、本人に大きな変化があったのか。


 左側と言われて、私は指を伸ばした。右側を緩く髪飾りで固定しているが、左側はゆったり流している。この髪型は、左側の髪が千切れていると気づいた日から始めた。確か、リディアやイネスとのお茶会の日だ。


 お祖父様は皺が目立つ右手を伸ばし、小さな声で失礼を詫びる。そのまま千切れた毛先に指を這わせた。肌に触れそうな擽ったい距離を動き、何かを握りしめるように指は内側に折られた。拳を震わせて、押し殺した声で尋ねる。


「誰だ? わしの大切な孫娘にこのような暴行を働いたのは。可愛いアリーを傷つけたのは。全員極刑に処してくれよう」


「ありがとうございます、お祖父様。クラリーチェ様が十分に裁いてくださいましたわ」


「そうだ。父上、きちんとロベルディの法に則って裁いた。まだすべての罰を執行していないだけだ」


 伯母様が溜め息交じりに口を挟む。よく見れば、右の肘を突いて頭を傾けた姿だった。寛いでいるようにも、疲れて眠りかけているようにも見える。


「婿殿は何をしている?」


 お祖父様が扉の方へ視線を向ける。そちらには、末席で姿勢を正したお父様と、扉を守るフェルナン卿の姿があった。お父様は婿ではなく、お母様が嫁がれたのよね。奇妙な表現に、私は首を傾げた。

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