62.記憶がないことで見落とした可能性

 伯母様は、私と同じ部屋で休むと言い出した。


「ですが、伯母様は大国ロベルディの女王陛下ですわ」


「それ以前に、アリーチェの伯母だ。姪と同じ部屋で何の不都合があろうか」


 引き下がらない伯母様をどうにかしてもらおうと、側近として随行した宰相補佐の方にお願いしたものの……無理ですと笑顔で断られてしまった。


「良いであろう? どうせ数日しか滞在できぬのだ。久しぶりに顔を合わせた姪と過ごしたい」


 願うように告げる声に嘘は感じられず、私はくすくすと笑って受け入れる。もっと怖い人を想像していた。周辺諸国を併合したお祖父様が、婿には継がせぬと言い切った女傑。そう伝わっていたんだもの。


 お風呂を出て、すぐにベッドで日記の続きに目を通した。二冊目の半分は、学院へ通う前だ。家族で過ごす時間がなくて寂しい、行儀見習いの先生と合わない、など。愚痴が書き連ねられていた。サーラによれば、これだけ愚痴があるなんて、想像できなかったらしい。表面上はお嬢様として取り繕っていたのね。


 ぱらぱらと読み飛ばし、ようやく入学の記述を見つけた。二年近く前の日付だ。入学当初は、慣れるのに夢中で婚約者との接触はなかった。通い始めてすぐの頃をさらりと読み流す。


「何を読んでいる?」


「私の日記です」


 記憶がないことを受け入れてくれた伯母様に、隠し事はいらない。まだ湿った髪をタオルで包んだ伯母様の後ろで、サーラが丁寧に乾かし始めた。タオルで挟んで何度も水気を吸い取る。


「自分の日記であっても、他人の記録のように感じるのか? 記憶が刺激されたりはしないか?」


 記憶が戻ってほしいのか、伯母様は質問をぶつける。そのたびに一つずつ丁寧に返した。他人のように感じるが、記憶は戻らない、と。


「まあ、お淑やかなそなたも悪くないが、いまのようにハキハキと意見を出すアリーチェも好きだぞ」


「伯母様ったら」


 笑いながら、日記に栞を挟んだ。そういえば、伯母様はなぜ男性口調なのか。やや上からの話し方も似合っているけれど……素直に尋ねると、目を細めたあと乾いた髪のひと房を指に絡めた。


「私は男に生まれたかった。女王だからと舐められることもなかっただろうし、好きなだけ剣術に打ち込むことも許されたはずだ。この身が女に生まれたことを口惜しく思っていた」


 すべて過去形だ。どこかで意識の転換があったのかしら。


「だがな、アリッシアが私に告げたのだ。剣を振り回していても、優しく妹をあやしていても、自慢の姉だと。王様になって自分を守ってくれる、自慢の兄でもあると」


 優しい笑みで目を閉じる伯母様は、記憶の中でその頃のお母様と会っているのだろう。記憶がなくても不便じゃないと思ったけれど、やはりそうでもないわ。年齢を重ねたら、絶対に幼い頃の記憶が大切な財産になる。


 思い出せるように足掻こうと決めた。それと同時に、私は自分を大切にして生きていく。お母様がくださった命だもの。途中で誰かに絶たれるなんて許せないわ。最後まで必死に頑張って、胸を張ってお母様のお迎えに笑えるように。


「伯母様は、本当にお母様が好きなのですね」


「クラリーチェだ」


 お名前を呼ぶ許可をいただく。名誉なことだわ。でも……響きがどこか私に似ていた。


「私のアリーチェは、伯母様のお名前から借りたのかしら」


「アリッシアのことだ、そうであろうな」


 では、私の名前はフィリノス風ではなくロベルディの発音なのね。嬉しくなった。


 お母様の紋章である赤い百合を置いていった人は、もしかしたら……敵でなかったのかも。ふとそんな考えが浮かんだ。何かを伝えようと、お母様を思い起こさせる花を置いた。


 私の記憶が失われていなければ、何か気付けたかもしれない。クラリーチェ女王陛下は、明日……我が国の国王と対面なさる。どんな妨害があるとしても、私は同行すると決めた。彼らはやり過ぎたのだから。遠慮や配慮の必要を微塵も感じなかった。

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