32.数十回殺しても足りぬ

 王太子に注意した話が載っていた。堂々と浮気をする婚約者の話が耳に入り、私は注意しに行ったのだろう。人前で話せる内容ではなく、教室を出た彼に同行してくれるよう頼んだ。


 けんもほろろに断った彼に、仕方なくその場で話を始める。教室の出入り口近く、人の目は嫌でも集まった。何より、仲が悪いと有名な二人が一緒にいれば、それだけで衆目を集める。だから別の場所に誘ったのに……そんな溜め息が聞こえてきそうだった。


 浮気自体はどうでも良かった。政略結婚だから、好きな人がいるなら結婚後に呼べばいい。私は気にしない。ただ、エスコートなどの義務はきちんと果たしてほしいこと。それから、国王陛下や王妃殿下には自分から話してほしいこと。


 日記から読み取れる要望はこの二つだった。傲慢だったり上から目線で命じたりした記述はない。この辺りは、調査をすれば目撃者も多いだろうと思われた。そもそも他人に読ませる前提ではない日記に、嘘を書く必要はないのだ。


「はね除けられたのね」


 人前で王族に注意するなど、殺してやると脅された。怖かったが引かなかった、私は悪くないのだから。そう締め括る文字は揺れている。自分より身長が高く鍛えた男性、権力もある人に意見することは恐ろしかったはず。


 場所を変えようと提案して無視され、その場で注意したら悪意のある捉え方をされた。困惑が伝わる文章の翌日が、あの暴挙だ。トラウマになって紅茶が飲めなくなるほどの……暴行。


「あの事件の前に、こんなことが」


「数十回殺しても足りぬ」


 むっとした口調で父が吐き捨てた。正直、同じ気持ちだ。貴族最高位の公爵家にこの態度ならば……他の令嬢や令息に対しては、もっと高圧的に出ていたと推測できた。


「失礼致します」


 サーラは新しいお茶を差し出した。冷めてしまったので、淹れ直してくれたらしい。さきほどのレモンバウムの香りではなく、カモミールだった。他の葉もブレンドしたようだ。


「ありがとう」


 口をつけると、頭に上った血がすっと下がる気がした。ミントのようなハーブが入っているのかしら。口の中がさっぱりしたし、鼻に抜ける香りも心地よい。知らずに強張った肩を解すために、腕を動かし首を傾けた。楽になったわ。


「サーラ、私が制服を汚して帰った日を知っている? 半年くらい前よ」


 侍女なら、汚れた制服に気づいたはず。そう思い尋ねると、彼女は少し考えてから眉を寄せた。


「濡れた制服を乾かしてほしいと、ご要望を頂いたことは覚えております。シミがございました」


 紅茶のシミは落ちなかった。だから制服は交換されたと聞く。吐瀉物は自分で洗ったのだろうか。言えなくて、涙を堪えながら水で濯ぐ姿が浮かんだ。きっとそうね、言えなかったわ。今だって、言えないかもしれない。


 公爵令嬢として育ち、誇り高く気品を保って過ごす。そう自らを律していたなら、誰にも相談なんて出来なかった。心の内側を吐き出す場所は、青い表紙の日記帳だけ。


「……これ以上は明日にしないか? 顔色が青を通り越して白いぞ」


 心配するお父様に頷いた。もう休もう。経験した記憶がなくとも、この体は恐怖で強張る。された暴挙を、体は覚えているのよ。弱い心が先に折れてしまったけれど、安心して……過去の私。あなたの無念は私が晴らすわ。

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