55.もうこれ以上誰も傷つかないで

 お父様は横領の証拠をいくつも回収できたらしい。戻りが遅かったので食事は別になってしまったけれど、お話を聞くために同席した。お茶を飲みながら相槌を打つ。全体にこちらが有利に動いていると聞いて、ふと心配になった。


「お父様、危険ですわ。うまく行ってる時ほど用心なさってください」


「ああ、もちろんだ。アリーチェの心配を心に留めておくとしよう」


 公爵家から連れてきた護衛は常にお父様についているし、お父様自身も剣技は見事な腕前だと聞く。それでも過った不安は、数日後に現実のものとなった。


 エリサリデ侯爵夫人に借りた本をお返しし、そのまま彼女の部屋で戦盤に興じる。お兄様を追い詰めただけあり、とても鋭い手を打ってくるわ。迷いながら半分ほど進んだところで、連絡が飛び込んだ。入り口の護衛に何かを告げる声が聞こえる。厚い扉の向こうの騒ぎが気になり、私は駒を予定のひとつ手前に置いた。


「あら、そちらでよろしいのね」


「あっ!」


 指摘された時には遅く、侯爵夫人の駒に絡めとられる。やってしまったわ。がっくりと肩を落とした。勝負がつくのを待っていたようにノックがあり、応対に出たサーラが「お嬢様っ!」と声を上げる。普段から落ち着いている彼女の取り乱しように、私は嫌な予感がした。けれど、聞かない選択肢はない。


「……何があったの?」


「旦那様が襲われて、おケガをなさったと!」


 がしゃんと音がして、戦盤がテーブルから落ちる。驚いた顔で立ち上がった侯爵夫人は無作法を詫びるより先に、ケガの程度を尋ねた。そうよ、これは私がすべきことだった。お父様のケガは軽傷と知り、立ち上がった膝から力が抜ける。


 床にへたり込んだものの、倒れる無様は回避した。駆け寄ったサーラの手を借り、椅子に落ち着く。胸はどきどきと激しく打ち、息苦しさが襲ってきた。お父様が襲われるかと思っていたのに、どうしてもっと忠告しなかったの?


 自分への怒りでぶるぶると手が震えた。そんな私の感情を和らげるように、エリサリデ侯爵夫人が手を握る。血の気が引いた私より温かな指は、優しく気持ちを宥めた。


「駆け付けてはダメよ。敵の思う壺です。この離宮は多くの騎士が詰めているわ。ここから出ないでちょうだい」


 言い聞かせる侯爵夫人に頷く。もし彼女が言ってくれなければ、私は飛び出したかもしれない。


「リチェ、無事か?」


「はい……お兄様」


 訓練していたのだろう。着替えもせず駆け付けた兄が、ほっとした表情になった。これからお父様を迎えに行くという。同行したい気持ちを呑み込み、お願いしますと頼んだ。


「ああ、状況もまだ分からない。絶対に人が少ない場所へ行かないように」


「ご安心ください。小公爵様、私ども女性のみで集まるつもりです」


 一部屋に女性だけで集まる。騎士の負担を減らし、護衛を手厚くすることが可能だった。すぐに離宮に周知され、隣の離宮でも同じように一部屋に集まる指示が出される。


 これ以上、誰も傷つかないで。愚かな策を巡らせたところで、与えられる罰を逃れることは出来ないのだから。

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