96.取るに足らぬ阿呆ではない?

 記憶を封じたのが私自身だったから、取り戻したいと本気で願った部分が綻びていく。すべての記憶を取り戻す必要はないのかもしれない。心を守るために封じたなら、心を壊すような記憶もあるはず。


 私自身が必要と判断した部分だけ、ゆっくりと取り戻そう。友人や家族の思い出を優先して、嫌いな人や学院での記憶は後回しでいい。そう考えた。私は愛されている。自覚がある以上、愛してくれる人達を泣かせたくなかった。


 取り戻してから「要らない記憶だった」と思うものもあるだろう。それでも殺されかけた記憶なんて、これからの人生に必要ない。その事実だけ認識して、犯人を近づけずに生きていけるなら。


「お祖父様、私は幸せですね」


「そう思うか? なら、もっと幸せにしてやろう。だからロベルディに来なさい」


 命じるような口調なのに、声は嘆願の色を宿していた。器用な祖父の顔をじっくり眺める。本気? それとも冗談? 判断に困る言葉だった。


「父上は本気だ。アリーチェを国に連れ帰る気でいる。悪いが、しばらく付き合ってやってくれ。何しろ、老い先短い」


「一言余計な娘だ」


「その娘にすべて押し付けた老人が、今頃のこのこ駆けつけて偉そうに」


 クラリーチェ様とお祖父様って仲がいいのね。貴族社会ではここまで話す親子を見たことがない。実際、私だってお父様に遠慮があった。令嬢は家のために嫁ぐ役割が優先される。その嫁ぎ先を決めるのは、当主である父親だった。


 命運を握る相手と表現するのが近い。普段から仕事が多く、一緒に過ごす時間が少ないから余計に、両親はもっとも距離の近い他人だった。その認識は、二人に当て嵌まらない気がする。


「フロレンティーノ公爵令嬢が驚いておられますよ」


 フェルナン卿の言葉にハッとして、アリーチェと呼んでくれるよう伝えた。家族なら、名で呼んでも問題ない。笑顔で礼を言うフェルナン卿に、知らないとはいえ失礼をしたのはこちらだ。深く頭を下げて応じた。


 ノックして、サーラがお茶を持ち込む。すぐそこで話を聞いていたような、絶妙のタイミングだった。


「失礼致します」


 用意された珈琲を口に運ぶ。ロベルディでは、紅茶より珈琲の方が好まれるらしい。このフェリノスでは輸入品だが、ロベルディは自国で生産していると聞いて驚いた。


「それで、まだ裁いておらぬ阿呆共は何をした?」


 私が知っているのは、ドゥラン侯爵令嬢の送ったお茶会の誘いに、毒が使われたこと。王妃様やパストラ様と和解した後、一斉に届いた中に紛れ込ませてあった。白い封筒が変色するような、神経系の毒を封筒に使った事実だ。


 侯爵令嬢の兄は、アルベルダ伯爵令嬢イネスを脅した。婚約破棄が行われた夜会で、私の味方をしないように、と。もし余計な口を開けば、実家に冤罪をかけて潰すと言い切った。当時の王太子フリアンの側近に過ぎない彼が、なぜそのような発言をしたのか。


 ドゥラン侯爵家は表立って騒ぎを起こしていないが、裏でこそこそ動き回っている。お祖父様にそう告げた私の後、お父様が情報を付け足した。


「ドゥラン侯爵は、アンドルリーク国から妻を迎えた。もし彼がこの騒動に絡んでいたなら、計画的だったか?」


 他国から妻を貰う貴族は、珍しいが皆無ではない。計画的と表現するなら、その国に何か不穏な気配があるのかしら。

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