(夫1)三年前のハンカチから始まった

 婚約破棄から広がった騒動――主家であるフロレンティーノ公爵家を揺るがす、大きな事件だった。隣国ロベルディの女王陛下の姪であるお嬢様は、ひどく傷つけられたと聞く。故に、お嬢様の護衛に命じられた時に「必ずお守りする」と心に誓った。


 流れる月光のような銀髪、ピンクサファイアに似た鮮やかな瞳、柔らかな笑みを浮かべるお嬢様はどこまでも美しい。女神のような女性だった。騎士に対しても礼儀を守り、淑女の鑑というべき振る舞いを自然に行う。お嬢様が見せてくださった優しさは、三年経った今でも忘れていなかった。


 厳しい訓練の中、ケガをする者がいる。真剣は使わないが、刃を潰した古い剣で戦うのだ。金属の棒で訓練すれば、手が滑って血を流すことも珍しくなかった。公爵家の騎士は、実力主義だ。この国では珍しく、爵位の有無を問われなかった。代わりに平民や下級貴族出身の騎士は、礼儀作法を叩き込まれる。


 私もその一人だった。子爵家の三男、穀潰しと言われぬよう早めに独立した。実力でのし上がれると聞いて、フロレンティーノ公爵家を目指したのは十五歳の頃だったか。将来有望な見習い騎士として雇われ、朝から晩まで訓練に明け暮れた。


「血が出ているわ」


 訓練中のケガで、一時的に休憩を取らされた。手の甲を掠めた攻撃が手首に当たり、表皮が切れたのだ。大した傷ではないため、清水で洗って戻るつもりでいた。そんな私に、愛らしい少女が話しかけてくる。心配そうな表情で、猫の刺繍が入ったハンカチを巻いた。


 シンプルだが上質なワンピースを着た少女に跪いて礼を告げれば、頑張ってねと笑う。その笑顔に胸が満たされた。もっと強くなろう。彼女も含め、誰も傷つけられないように。その願いは思わぬ形で打ち砕かれた。


 フロレンティーノ公爵令嬢が王太子殿下に婚約破棄され、王宮内で毒を飲まされる。一報が入った時、怒りで目の前が赤くなった。恩義のある公爵家が軽んじられたこと、無力なご令嬢を殺そうとしたこと、一方的に婚約破棄を叩きつけた無礼。様々な怒りが湧きおこる。


 後日、婚約破棄した王太子の処分を聞いた。もう敬称をつける気にもならない。これは騎士団全体が同じ意見だった。主家を軽んじる王家など、滅びればいい。尊重するに値しない存在だった。ただの謹慎、そんな軽い罰で許されるのか? 浮気をして人一人殺そうとしたのだぞ!


 一部の騎士からは、主家の名誉のために辞職して突撃すべし。強く恩を感じる平民出身の騎士から、過激な意見も出た。感情的に賛同するが、理性はダメだと判断を下す。たとえ辞職していても、王家はフロレンティーノ公爵家を責めるから。仲間にも言い聞かせて諦めさせた。


 王宮へ乗り込んで戦うと決めた主君に従い、離宮まで護衛を行う。その際、初めて「公爵令嬢」にお目にかかった。まさか……あの時に手当をしてくれた少女? よく似た顔立ちだが、あの日は帽子を被っていた少女の髪色を知らない。確信はなかった。


「まさか……」


 下りるご当主と令嬢を見送り、茫然と呟いた。あの日頂いたハンカチは、血のシミを落として大切に保管している。侍女の一人なら、私にもチャンスがあると思っていたが……。ご令嬢だったなら、この淡い恋心は封印するしかなかった。高嶺の花すぎる。


 ロベルディの女王陛下が訪れ、フロレンティーノ公爵家の味方に付いた。これほど安心できることはない。美しくお優しいお嬢様を傷つけた愚か者共を許さない。二度と傷つけさせない、と決意を新たに護衛の任に就いた。

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