09.どんな事実であれ私の過去ですわ
執務室がしんと静まり返った。物音ひとつでも立てたら、世界が崩れそうな不安が押し寄せる。一般的な貴族令嬢なら、当主である父親に逆らったりしない。大人しく「お任せします」と部屋に戻るのだろう。だが、私はそんなタイプではない。
いや、父や兄の様子から過去は大人しく過ごしたことが知れた。今は違う。どんな形であれ、今のこの姿がアリーチェ・フロレンティーノなの。貴族令嬢として生きた記憶や人間関係の
顔を上げて二人の反応を見守る。怒って追い出すかしら。それとも大人しく話す? どちらを選んでも、明日の私がすることは大して変わらない。手紙の返事を出して、彼女らから別視点の情報を探るだけ。私の記憶喪失が邸外へ漏れているか、確かめる意味でも有効な方法だった。
「……何を知りたい?」
覚悟を決めた様な父の呟きに、兄カリストが叫んだ。
「父上! まさか、あの残酷な夜を話す気ではありませんよね。傷ついたリチェは忘れてやり直しているんです」
「その私が望んでいるのです。邪魔をなさらないで、お兄様」
思っていたより冷たい声が出た。ショックを受けたのか、兄が泣きそうな顔で蹲る。これでも公爵家嫡男なのだから、外ではきちんと振る舞っているのだろう。その被り慣れた仮面が落ちるほど、過去の私が経験した出来事は酷い。
覚悟は出来ている。どんな話でも否定せずに受け入れよう。ただ、後で別の視点から話を聞いて検証はするけれど。娘に罪悪感を持つ家族の話なんて、一方的な思い込みや偏見に満ちているはずよ。
視線をお父様に合わせる。銀髪は三人とも同じ。兄と父は青い瞳だけれど、私だけ桃色の瞳だった。母の肖像画を見たが、金髪に赤い瞳なので似たのだろう。親子や家族であることは否定しない。これだけ顔立ちも似ていたら、否定する方がおかしい。でも邪魔をするなら……家族ではなかった。
覚悟を秘めた目に何かを感じ取ったようで、お父様は執務机に肘を突いたまま組んだ両手に額を押し当てた。まるで祈るような仕草の後、顔を上げた時には表情が違う。私はごくりと喉を鳴らした。妙な緊張感がある。
「知って後悔するとしても、か?」
残酷な現実など知らずに過ごせばいい。そう告げる声は震えていた。どちらの感情? 私に自分達の失敗を知られることを恐れている、とも。事実を知った私が傷つくことを心配している、とも。
「どのような過去であれ、私の人生です」
知らないまま歩いていけない。過去という足場が不安定なら、未来はさらに揺れるでしょう。その吊り橋のロープを担う家族が、私に目隠しをするの?
「長い話になる。部屋を移動しよう」
「父上っ!」
「くどいぞ! カリスト、覚悟を決めよ」
私に部屋の移動を持ちかけた時とは、比べ物にならない厳しい声だった。膝から崩れた兄を置いて、私は父と部屋を出る。その段階で、ずっと無言だった執事に気づいた。扉の脇に控えていた彼は、沈痛な面持ちで頭を下げる。彼も事情を知っている、いいえ……当然よね。
きっと何も知らないのは、私だけだわ。
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