10.王太子殿下の婚約者だった
長椅子に私を座らせ、父は向かいに並んだ一人掛けの椅子に腰を下ろした。執事は部屋の壁際に控える。
普段なら気にしない上着の裾を何度も直すお父様は、居心地悪そうだった。今の父に、フロレンティーノ公爵としての威厳はない。しばらく無駄に裾を弄ったあと、ようやく顔を上げた。
青い瞳がいつもより暗く感じる。やや目を伏せているせいか。それほど言いづらいことなのだろう。分かっていても、譲る気はなかった。
黙って待つ私は、両手を膝の上に揃える。取り乱した兄の様子から、耳に優しい話ではないと理解していた。どんな内容でも、受け止める覚悟は出来ていた。
「気分が悪くなったら言いなさい」
前置きして父は語り出す。低く心地よい声が、淡々と語る物語は想像より……ずっと恐ろしい内容だった。
「まず、お前が眠っていたのはおよそ二週間だ。痩せていたのも、体力が落ちていたのもこれが原因だろう」
貴族令嬢は元から細い。そこに加えて二週間も寝込めば、ガリガリに痩せるのも納得できた。眠っていた期間は、私の予想と大差ない。
「幼い頃の話は省くぞ。アリーチェは王太子殿下の婚約者だ。いや、今は婚約を解消しているが……当時は婚約者だった。二ヶ月ほど前に開かれた王家主催の夜会で、事件は起きた」
王家主催ならば、王太子の婚約者である私が顔を出すのは当然だ。しかし王太子は出迎えなかった。それ以前から、別の女性に入れ揚げていると噂があったため、仕方ないので兄のエスコートで入場したという。
兄カリストは友人を見つけて、私のそばを離れた。私も仲良くしていた伯爵令嬢達と雑談を始める。夜会でよくある光景だ。仕事が長引いた父は、この頃になってようやく到着した。王太子のエスコートがなかったと聞き、憤慨する。
ここまで説明されて、状況を頭で整理する。浮気した婚約者が迎えに来なかったなら、国王陛下は承諾の上なのか。貴族として最高位の公爵家の娘を、王族が蔑ろにする? それも王太子なら、今後の治世の支えとなる妻の実家を……。
浮気した令嬢の実家が同じ公爵家なら分かるが、そうでなければ愚者の烙印を押される状況だった。浮気相手が気になったものの、私は口を挟まず頷くに止める。再び父は語り出した。
「俺は王太子殿下を見つけて、浮気を暴くつもりだった。亡き妻の忘れ形見を、公然と貶める相手に嫁がせる気はない。そう突きつけようとしたんだ」
この言い方では、実行する前に騒ぎが起きてしまった。言い訳には聞こえなくて、父の悔しそうな顔に頷く。先を促す意味で小首を傾げた。
「俺は会場を離れた。王太子を探して見つからず、戻ったところで……お前が騎士達に押さえつけられた姿を見た。頭にかっと血が上った。駆けつけて突き飛ばしたところで、俺も拘束されたんだ」
王族の、それも王太子の命令なら騎士は従う。そのための指揮系統が確立されているから。でも、直前の状況がわからないわ。
「場を離れた私は、この辺の詳細は人づてに聞いた。本当はカリストが語ってくれたらよかったんだが」
現場に居たのはお兄様だけど、先ほどの様子では無理そうね。同じ感想を抱いた私の耳に、扉の開く音が聞こえた。顔を上げる私の正面で、兄カリストが厳しい表情で立っている。
「僕が話そう」
父の隣に空いていた一人掛けの椅子に座り、兄は覚悟を決めた顔で私の目を見つめ返した。
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